• ベストアンサー

ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

bonbonnierの回答

回答No.7

釈尊の無記と、そこから導かれるところの禅定修行、その結果、到達したところの「不死の境地」という解脱、そこから、必然的に覚知するところとなった、自らの輪廻について、順序立てて、回答させていただきます。 釈尊が弟子に対して無記の態度を取ったのは、形而上学的問題に関する論議を避けて、人間存在の深奥を見通した<四種の真理>の説をもつべきことを教えているのです。 http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html 『「世界は常住なものであるという見解があるとき、ひとは清らかな行いを実習するであろう」というのは正しくない。また「世界は常住ならざるものであるという見解があるとき、ひとは清らかな行いを実習するであろう」というのも正しくない。世界は常住ならざるものであるという見解があっても、世界は常住ならざるものであるという見解があっても、しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。われはいま目のあたり、これを制圧することを説くのである』(『マッジマ・ニカーヤ』) 『「世界は常住である」というならば、それは思弁に陥ったもの、思弁の密林、思弁の難路・思弁ののたうち・思弁の束縛である。それは苦しみをともない、破滅をともない、悩みをともない、煩悶を伴う。世俗的なものを厭い離れること・欲情から離れること・煩悩を制し滅すること・心の平安・すぐれた英知・正しい覚り・やすらぎのためにならないのである。』(『マッジマ・ニカーヤ』) 『「世界は常住である」というならば、それは思弁に陥ったもの、思弁の密林、思弁の難路・思弁ののたうち・思弁の束縛である。それは苦しみをともない、破滅をともない、悩みをともない、煩悶を伴う。世俗的なものを厭い離れること・欲情から離れること・煩悩を制し滅すること・心の平安・すぐれた英知・正しい覚り・やすらぎのためにならないのである。』(『マッジマ・ニカーヤ』) 仏教とは哲学とは無縁などこまでも実践的性格のものです。釈尊は、『スッタニパータ』において、すべての煩悩を止滅させた清浄行の完成者に対して、次なる段階の禅定の修行として、「名称と色形を滅する」という禅定の境地に弟子たちを導くのです。(『スッタニパータ』1070-1076) ニルヴァーナとは哲学的見解では得ることはできず、禅定による名称と色形・識別作用の止滅(『スッタニパータ』)によってのみ得られるものだからです。 『ナンダよ。世の中で、真理に達した人たちは、〔哲学的〕見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者とはいわない。〔煩悩の魔〕軍を撃破し、苦悩なく、望むなく行う人々、かれらこそ聖者である、とわたくしはいう』(『スッタニパータ』) 原始仏典では、釈尊が、さまざまな仏教以外の人々、それも哲学論議に長けた者たちとの討論するさまを伝えていますが、仏教が人々に知られてゆくためには、バラモンや異教徒と討論する必要があり、たくさんのバラモンや多くの異教徒が釈尊のもとを訪れ討論し論争し、ついには釈尊の弟子となっています。哲学的な議論に関わる一切は釈尊一人が引き受け、弟子には清浄行の完成をさかんに説くのです。 このため、最初期の仏教では尼僧も三明の悟りでもある「不死の境地」の悟りを求め、虎や大蛇が出没することのある岩山、あるいは死体埋葬所や森林で、独り禅定の修行をしていたのです。 『しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。』(『スッタニパータ』964) なぜ釈尊が弟子たちに対して無記の態度を取ったのかは以上の理由からですが、同時に、釈尊の悟りの境地が、有・無などの対立を超えたものであり、概念的把握は成立しないからです。そのような問いは、「あなたはあなたのお母さんを殴ることをやめましたか」という問いと同じもので、中道の境地においては、全く意味を成さない問いです。 『友よ。わたくしは、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もある一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。』(『サンユッタ・ニカーヤ』) 『世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはありえない。』(『サンユッタ・ニカーヤ』)のです。「世界の終極」とは「色形の止滅」である涅槃であり、それは「識別(言語)作用の止滅(『スッタニパータ』)」した境地ですから、幼童における戯論でもある有無の二道に偏した問いは、問い自体にその意味がないのです。 釈尊の無記とは、形而上学的議論を否定することであり、禅定の実践に導くものなのです。今の問題とは何か?それは、煩悩の止滅・識別作用の止滅・色形の止滅なのです。それこそこそが、最大の目的であったわけであります。 それゆえ、最初期の仏教徒は、形而上学的議論を否定し、ひたすら禅定を修していたわけです。その解脱の境地において、三世の生命の流転を知ることになるのであり、いわば輪廻転生とは、副産物といえるものなのです。 この解脱の境地が、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』により、様々に語られているわけであります。 釈尊は『ウダーナ・ヴァルガ』に自らの涅槃の境地を「そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しない。水も無く、地もなく、火も風も侵入しないところ―そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」と、説いています。 また、修行完成者の涅槃の境地について、次のように語っています。 『大王よ、修行完成者はすがたの数量から解放せられ、あたかも大海のごとく深遠であり、無量であり、量り難いからであります。修行完成者が死後に存在するということは適合せず、修行完成者が死後に存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在しかつ存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在するのでもなく、存在しないのでもないということも、適合しないのであります。』(『サンユッタ・ニカーヤ』) 『この対話からも知られるように、修行を完成した人(如来)は、絶対の境地に到達しているのであるが、それは絶対の境地であるが故に、有・無などの対立を超えたものである。深遠無量にしてはかりがたいものである。だからかれが死後に存在するとか、存在しないとかいう概念的把握は成立しないのである。われわれの認識能力はきわめて限られたものである。われわれが日常生活において常識的に把捉し理解しているのは、真の実在の一側面にすぎない。あるいは真実の実相とはよほど異なったものであるかも知れない。われわれにはそれがわからない。絶対の実在は、われわれの認識能力を超えたものである。だから修行完成者の到達する死後の世界を、無量不可測なる絶対者として仰ぐことは永遠の真実であるといわねばならぬ。』(仏教思想8解脱 解脱の思想(中村元)) ニグローダ・カッパという修行者が死んだときに、詩人であった仏弟子ヴァンギーザは彼の死後について釈尊に問いますが、これに対して釈尊は、「かれはこの世における名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長い間陥っていたどす黒い悪魔の流れを超えたのである。」(『スッタニパータ』344)と答えています。 また、釈尊は涅槃の境地を証得した修行完成者には、安楽死を容認しています。重い病に苦しんだヴァッカリ長老は、「おそれるな。おまえの死は罪に汚れていない」という釈尊の言葉を伝え聞いて自刃したのですが、釈尊は遠くからその様子を見届け、ヴァッカリは涅槃に入ったことを説いています。(『サンユッタ・ニカーヤ』22.87) このよな、釈尊の態度は、出家修行者の「不死の境地」というものが、如何に深遠なものであったかを如実に物語っています。 『スッタニパータ』874では、色形を滅した境地では、釈尊は多様な言語世界の名称が起こらない(空性)と明言します。これは、龍樹の『中論』18.5における「多様な言語世界の名称は空性の中に滅する」と符号します。聖者の境地である涅槃の境地を言語で表現しようとすれば、もはや、原始仏典に説かれる「不死の境地」、「不滅の境位」、龍樹の不生不滅不常不断不一不異不来不去の八不中道のように、否定の言辞をもってしか表現できない絶対の境地です。 ゆえに、霊魂の断・常を説く哲学的見解は、聖者にあっては幼童の戯論にも等しく、答える意味を成さない問いなのです。

sono-higurashi
質問者

お礼

私への回答はANo.4で十分で、ANo.7は事情通のための補足かな、と思いました。印刷してきちんと読んでみましたが理解できませんでした。ところがANo.8に無記は釈尊の仏弟子に対する限定した態度との意味合いの記述を発見して一度に見通しが良くなりました。 多分、釈尊の弟子に対する無記、禅定修行、解脱、輪廻、この流れが理解できたと思います。 弟子は哲学を学ぶのではありませんから、弟子に対しては無記で只管、禅定修行の機会を与える。一方、釈尊自身は異教徒と議論をする必要から対外部に向かっては無記ばかりではいなかった。こういう事情があったらしいと理解しました。スッタニバータを読むと、どうもブッダは輪廻転生を認めていそうなのに、しばしばこの件では無記との解説に出合うので腑に落ちずにいました。 これで、まぁまぁ当たらずと言えども遠からず程度の理解にはなっているのだと思います。懇切な解説のお陰です。 >>仏教とは哲学とは無縁などこまでも実践的性格のものです。 >>哲学的な議論に関わる一切は釈尊一人が引き受け、弟子には清浄行の完成をさかんに説く >>ニルヴァーナとは哲学的見解では得ることはできず >>釈尊の無記とは、形而上学的議論を否定することであり、禅定の実践に導くもの これらの意味が多分自分なりに掴めたと思います。 有り難うございました。ANo.8へのお礼は暫く時間を下さいませ。

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    ジャイナ教ではゴータマ・ブッダや仏教はどのように言及されていますか? 出典も教えてください。

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html