• ベストアンサー

ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

bonbonnierの回答

  • ベストアンサー
回答No.4

釈尊の死後観を考える上で、明記しておかなければならない点は、当時のインド人にとっては、輪廻転生とは当たり前の話で、しかも、その輪廻転生というものを、我々の想像をはるかに超えて、非常に恐ろしいものであると考えていた点にあると思います。それですから、「かれはもはや再び世に生まれるということがない。」との釈尊の言葉は、当時のインド人の根底からの願望であったのです。現代人が描く輪廻転生というと、どちらかと言えば、また、人間に生まれ変わるという具合に、輪廻転生を楽天的に考える傾向にあると思います。しかし、当時のインド人は、非常に悲観的に考えていたわけです。禽獣のような、生きることそれ自体が、他の動物に殺されることの恐怖を、いのちの根底で絶えず感じていなけでばならず、始終、周りに気を配り、びくびくしながら生きざるを得ない。また、実際、他の動物の餌として、死ぬことにもなる。そのようなことが無限の間、続くということに対する恐怖の思いが、根強くあったのだと思います。 「以前に、他の幾多の生涯においてわたしの作った悪業は、いまこの世においてその報いを受けねばならぬ。しかし〔のちに〕他の〔生存をひき起こすべき〕根拠(素因)はもはや存在しない。」(サミティグッタ長老) 「苦しみは終わった。諸要素の集合よりなるこの身体―生まれることと死との輪廻にかかわる―は最後のものである。いまや迷いの生存を再びくり返すことはない。」(ヴァッダ長老) 「前世において、わたしは、母子や父兄や祖母として生まれました。わたしは〔事物の真相を〕ありのままに知ることなく、〔さとりの境地を〕見出さないで、輪廻しました。 〔しかるに〕わたしは、かの尊師にお目にかかりました。これは、〔わたしの〕最後の身であります。わたしは、生まれをくり返す輪廻を滅ぼしつくしました。いまは、もはやふたたび迷いの生存をつづけることはありません。」(マハーパジャーパティー尼) 「涙と、乳と、血と、始めも終わりもない輪廻を想い浮かべてください。生ける者どもが輪廻して、骸骨が積み上げられたのを思い浮かべてください。 涙と、乳と、血とを集めると、四つの大海となることを想い浮かべてください。〔一人の人の〕一劫のあいだの骨を集めると、ヴィプラ山にも等しい大いさとなることを思い浮かべてください。 不老(解脱)が存在するのに、なぜ、あなたは、老いるはずのもろもろの欲望を求める要がありましょうか。すべての生まれは、どこでも死と病いに捕らえられています。 これは不老である。これは不死である。これは老い死ぬことのない境地である。憂いなきものである。敵なく、圧迫なく、過ちなく、恐怖なく、悩みがない。」(スメーダー尼) 「くり返し、一つの生存から他の生存へと、〔生まれかわりつつ〕己が身を尊重し、生死のうちをへめぐりながら、己が身を超えることができない。」(シースーパチャーラー尼) 以上は、養母であったマハーパジャーパティー尼等の釈尊の直弟子の告白である、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』からの引用ですが、これらを見ても、当時の出家修行者が輪廻的生存を如何に恐れていたか、そして、「不死の境地」としての解脱に達したことを、言い換えれば、もはや、この世に二度と生を受けることがなくなったことを、如何に喜んでいたかが、手にとるように私たちのこころに迫ってきます。 また、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は、『スッタニパータ』にやや遅れてかと思いますが、編集されたもので、ここでは釈尊のような神格化の問題が一切なく、釈尊の教えを知る上で、第一級の文献となっています。 原始仏典に説かれる、『不死の境地』、『不滅の境位』とは、故中村元氏よれば、自らの三世の生命流転のありさまを如実に覚知することができる境地であると語っています。「この世とかの世とをともに捨て去る」という、一切の執着を止滅した中道の境地である、『不死の境地』こそが修行の目的であり、自らの過去世をも知りうる三明の悟りは、その解脱の境地から、必然的に悟ることになるものなのでしょう。 このため最初期の仏教修行者は解脱を求めて、尼僧さえも、虎や大蛇の出没する岩山や岩窟、あるいは寒林(死体埋葬所)で、ひたすら禅定の修行を行っていたのです。ジャイナ教の苦行僧には、今日においても二十年以上、横臥せず生きている人がいますが(睡眠は立った姿勢でとる)、『テーラーガーター』を見ると、解脱が得られるまでは、決して、横臥せず、三明の明知を得るために禅定の修行に打ち込んだ長老の告白もあります。これは、裏を返せば、如何に輪廻に対する恐怖があったかということです。サーリプッタも、教団結成以前は、釈尊の禅定の指導を仰ぎながら、一人、岩窟で禅定を修していたことが知られます。 『スッタニパータ』の最古層である『アッタカ篇』には苦行を奨励(もちろん、ジャイナ教のような、ただいたずらに、自らの身体を痛めつけるというものではありませんが)していますが、最初期の仏教の修行というものは、今日、我々が仏教に求める、正しい生き方とか、こころの安定というようなものではなく、解脱を求めての、ある意味いのちがけの修行であったろうと思います。虎や大蛇も強敵でしたが、追いはぎ等の人間達も、特に尼僧にあっては、恐ろしい存在であったと思います。また、蚊にさされても、解脱の目的にために、痒みに耐え、ひたすら禅定を修しなければならなった苦しみが、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』に語られています。 中村元氏によれば、「かれはもはや再び世に生まれるということがない。」という、「不死の境地」とは、文字通り、解脱をすれば、二度と生を受けることではなく、生命の絶対自由の境地のことであり、自らの欲するところ、また生を受け、しかし、自らの業が業として形成されないところの境地でもあろうと語っていますが、この辺は、どうなのでしょうか?

sono-higurashi
質問者

お礼

取り留めがありませんが思いつくままを記してお礼とします。 1 輪廻思想の恐怖が実に重圧であったのが分かりました。修行の動機に、これからの開放があったとすれば、副産物として宗教のそもそもの出発点は聖ではなく俗なるものにあるとの日頃の私の仮説の傍証になりそうです。俗と聖を包含しつつ完成していくように思います。 2 釈迦に帰依した人々が輪廻を信じていたとすれば以心伝心でしょうから、釈迦もまた、輪廻を信じていたことになります。何故、彼はそれについて無記であったとする説が流布するのでしょうか。幾分なりと彼の教えを現代風にアレンジしたいという意識をもつ人達が存在するのでしょうか。 3 当時は修行によってほんの一部の解脱者のみが輪廻から開放されました。今日では何の修行もなく煩悩の塊である私まで漏れなく輪廻から開放してくれます。科学の進歩のお陰です。輪廻から安直に開放されることが個々人に、また社会に作用する影響は絶大なものだと考えます。此処で上手くそれを述べる準備はありませんが。 5 バラモンは息子のみへの世襲だそうで、これが彼の地の極端な女性軽視、女性蔑視の重要な因子だとの説があります。よって女性の帰依者が多いのは宣なるかなと納得します。 6 彼の地で何故、仏教には中興の祖が出現しなかったのでしょうか。ジャイナ教も仏教も下層階級の救済が焦点だったと聞きますが平等を謳うイスラム教に食われてしまったのは何故なのか野次馬程度の興味があります。ヒンズー教の忌避という観点からはパキスタンやバングラディシュが仏教国になっていても不思議ではなかった筈なのに。イスラム教が浸透し仏教が浸透しなかった理由に興味があります。これにも多分、極めて俗なる理由があるのだと睨んでいます。 7 『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は記憶に留めておきます。 8 ANo.7の存在も承知していますが暫く時間を下さいませ。 字数制限から項目4を割愛しました。 先ずは取り急ぎお礼まで。

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    ドイツの考古学者 Alois Anton Führer http://en.wikipedia.org/wiki/Alois_Anton_F%C3%BChrer はどうやら捏造していたようです。 詳しい情報をご存知の方は教えてください。 それから釈迦の骨は日本の日泰寺にもあるようです。 日泰寺 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/knowledge/temple.html 日泰寺ができるまで  1898年、イギリス人のウィリアム・ペッペという人がネパール国境に近いインド北部で人骨の納められた古い壷を発見しました。その壷に刻まれていた古代文字を解読したところその人骨は仏舎利であることが判明し、当時インドを治めていたイギリス政府は仏教国であるタイ王国(当時のシャム)のチュラーロンコーン国王陛下に寄贈しました。そこからビルマ(現ミャンマー)やセイロン(現スリランカ)、日本といった国々に分与されました ~~~~~~~~~~~~~~~~ こんなことを書くのもどうかと思いますが ブッダの骨をDNA鑑定するとかそいうのはやらないのでしょうか? 個人的な感想は、アショーカ王碑文だとかスッタニパータだとかいろいろと調べてきましたが 結局、ゴータマ・ブッダは確実にいたとはいえないと思うようになりました。 ゴータマ・ブッダとはなんだったのでしょうか。

  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

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     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

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    ジャイナ教ではゴータマ・ブッダや仏教はどのように言及されていますか? 出典も教えてください。

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?