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煩悩(ぼんのう)

>(国語)ぼんのう ―なう0 3【煩悩】 (三省堂「大辞林 第二版」より) 〔仏〕 人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。染(ぜん)。漏。結。暴流(ぼる)。使。塵労。随眠。垢。 と有りますが、貴方の煩悩とは何ですか? 教えて下さい、お願いします

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  • lions-123
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回答No.2

>煩悩(ぼんのう) ↓ 人間として活きて行く時に目標・希望・欲と現状・現実・与件との乖離があり、それを埋めよう近付こうとするのが努力・精進・研鑽とすれば、届かぬと諦め切れず悔やみ妬む迷い・悩み・未練が煩悩。 プラス面では、意欲・執念になり、マイナス面ではストレス・自暴自棄にも成る。 自助自立と自己責任でプラスにして行くのが人間の知恵・進歩の源泉です・・・ そして、それを超越したものが天命・神助・真の意味での他力本願(全力を尽くして後はお釈迦様に見届けて頂くように真摯に生きる)で前進する事だと思います。

romanda201
質問者

お礼

善と言うのは再生思想、そのものだと思います、悪はその反対で 切捨て思想のものだと思います 人を助けるのには頭と優しさが必要なものです 批判家になるのはたやすく、悪の心のものです、何も生み出しません 衣食住が煩悩そのものです、酒池肉林と言う事ですね 良い物着たい、良い物食べたい、良い所に住んで暮らしたい セックスしたい、色々ですね(殺したいまで有りますね・・) 回答有難うございました

その他の回答 (2)

回答No.3

極端な話し、自分中心に物を考え、周りの世界を変えていこうとすると 他の人は抑圧を受け、欲求が解消されず悩むことになります 何が善で何が悪か分らない人間が他の人間に干渉するなんてナンセンスです

romanda201
質問者

お礼

善と言うのは再生思想、そのものだと思います、悪はその反対で 切捨て思想のものだと思います 人を助けるのには頭と優しさが必要なものです 批判家になるのはたやすく、悪の心のものです、何も生み出しません 衣食住が煩悩そのものです、酒池肉林と言う事ですね 良い物着たい、良い物食べたい、良い所に住んで暮らしたい セックスしたい、色々ですね(殺したいまで有りますね・・) 回答有難うございました

回答No.1

法の力が頼もしいときは、煩悩になりますが、法の力が頼りないときは世間の人々は 煩悩に悩まされることは有りません それは自己実現になるからです 厳しさが、悩みを生むのですが、そこに理がないとただの暴力になることも忘れちゃいけません

romanda201
質問者

お礼

善と言うのは再生思想、そのものだと思います、悪はその反対で 切捨て思想のものだと思います 人を助けるのには頭と優しさが必要なものです 批判家になるのはたやすく、悪の心のものです、何も生み出しません 衣食住が煩悩そのものです、酒池肉林と言う事ですね 良い物着たい、良い物食べたい、良い所に住んで暮らしたい セックスしたい、色々ですね(殺したいまで有りますね・・) 回答有難うございました

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  • 《自性清浄心》と《聖なる甘え》

     (α) 生まれつき《清浄心》であるとすれば そしてこれを《仏性》と呼んでしかもそれもあくまで経験事象であるとすれば 特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか?  (α‐1) 特別のおこないを必要としないという意味を表わそうとして言うとすれば それは《聖なる甘え》において得られるのではないか?   (α‐2)  この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか?  (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。  (α‐4) シガラミにかかわる相手や社会力学上有力な派閥や組織に甘えるのではなく――そういうかたちのエポケーがあるとしたらそれは 思考停止によって動物状態になることであろうから そうではなく―― まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である)。  (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか?    (α‐6) 念仏称名は そのあと感謝の心からするものである。事前においては 関係ない。(絶対他力ということで 甘えと通じるかと思い この事項もつけ加えたい)。  ☆ かなり飛躍した議論であり また 粗い議論のままですが 以上のように問います。        *   ▲(ヰキぺ:自性清浄)  ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84  §1 自性清浄(じしょうしょうじょう、prakrti-prabhasvara、prakrti-visuddhi)は、  ( a ) 自性として(本来、生まれつき)清浄なことを意味する言葉。  ( b ) 仏典では多くの場合、心について言われる。  §2. 概要  ( c ) パーリ増支部に、       「比丘たちよ、この心は光り輝いている。      ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」   とある(いわゆる心性本浄説)。  ( d ) 光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。  ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。  ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。  ( g ) 唯識説は瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄と併せて「離垢清浄」を並べ、さらに「所縁清浄」(仏の法すなわち教説の清浄性)、「道清浄」(修行道の無漏性)と併せて、「四種清浄」という。この場合、自性清浄は真如、法界を意味する。  ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。  ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。  ( j ) ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。  ( k ) これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。  ( l ) また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。  ~~~~~~~~~~~  (β) 《自性》について これを あくまで経験事象として見るか〔( j )〕 または非経験の場として想定するか〔( k )〕のふたつの見方に分かれるようである。  (β‐1) 上の(α)の仮説は 自性が単なる経験事象であるとしても成り立つとするものである。  (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  (β‐3) げんみつで細かい議論があるかと思われますが あとは 互いのやり取りの中で明らかにし得たらよいと考えます。  よろしくどうぞ。

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