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ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

mmkyの回答

  • mmky
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回答No.2

[死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。] 釈尊は天国「仏国土」も地獄も知った上で天国に生まれ変わる方法を説いているということですね。修行僧にはより高みを、つまり自身が魂を救う医者になるようにと説いているのですね。 中村 元訳「ブッダのことば」を逆に読めば、 1. 怒り多き人は死後地獄で苦しむ。蛇は嫉妬による怒りですね。 2. 諸々の邪まな見解にとらわれ、戒を保てず、見るはたらきを具えなければ死後地獄で苦しむ。 因果の理法により苦の転生を繰り返すということですね。 これでは人も救えませんね。自らは菩薩を目指し振り返って無明の中を生きる衆生の魂を救いなさいという教えですね。 死生観としても前向きですね。この世もあの世も一乗ということですね。 また、哲学としてもなかなか難しい教えです。これのみでいいのだというものではないのですね。昔の一般人には理解は難しいものでしたでしょうね。だから簡単な方便がはやって今に至っているのですね。現代でしたら進歩と調和を同時に考え行うということで理解できると思います。現代人のほうが釈尊の教えや死生観を理解できるのではないでしょうかね。

sono-higurashi
質問者

お礼

1 >>釈尊は天国「仏国土」も地獄も知った上で天国に生まれ変わる方法を説いている 私は天国「仏国土」も地獄も知りませんから、この点は大違いなのが分かりました。mmkyさんは、ブッダは輪廻説の保持者という立場でしょうか、今のところ私もそう睨んでいます。 2 >>修行僧にはより高みを、つまり自身が魂を救う医者になるようにと説いている 私は自分のことに精一杯で他者は傍観していますから、この点でも大違いなのが分かりました。 3 >>この世もあの世も一乗ということですね。 論理に従えば、あの世の存在を認めない人間は「この世もあの世も一乗」という理屈になります。よってこの点はブッダと私に違いがありません。 4 >>現代人のほうが釈尊の教えや死生観を理解できるのではないでしょうか 天国という褒美や地獄という脅迫、輪廻などを除き、字面の上だけなら釈尊の教えはほぼ理解できそうです。紀元前4~5世紀とあっては、流石のブッダもやれ天国だ、やれ地獄だと口にしていたのでしょうか。どうも、そうらしいです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

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