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人が 人のあやまちを赦すことができますか

 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。  哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

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回答No.21

そろそろ、ハエ取りツボから脱出する道を示す機が熟しました。 >赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 能力・権利・資格を問う必要はないのです。 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で、そもそも個々人の能力・権利・資格を問う必要はなかったのです。個人的な発言のように見ていたことによる勘違いです。西洋の個人主義的な発想を感じます。遺族が「赦さない」というのは、独り言ではありません。「社会的に制裁を下してほしい」という対社会向けの表出発言です。 能力とか資格とかを手がかりに、袋小路(ハエ取りツボ)に入っていたのです。現代日本において、制裁や更正は、社会的に決めるのです。個々人の能力・権利・資格で決めません。ここは、質問者様と共通認識でしょう。だとすると、能力・権利・資格は関係ないと発言し、「赦す」も「赦さない」も、有効な言語使用方法だと認めるべきです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  質疑応答として表わされた文章だけを読むと 存外しっかりした歩みをたどってきたと思いますが たしかに 全体観としての安定性がなかったことも実際です。  今回のご指摘は いったい どうなりましょうか。  まづ分かっていることは   ★ 能力・権利・資格を問う必要はないのです。  ☆ になります。そして このあと  ★ 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で〔ある〕。  ☆ という思想は 筋として 共感したのですが 少し次のように修正を加えて 賛同しました。     (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。   (2) 《赦す・赦さない》は それを 自由において 口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まる。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。   (3) この(1)(2)は 加害行為に関して その処理を 社会的な制裁と更生処置にすべて ゆだねる前に 定まっている。   (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている。   (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関して あてはめると 分かりやすい。   (4-b) ということは 結論から言って 社会は すでに 初めから その成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁・その更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  では    ★  「赦す」「赦さない」という表出は、〔それぞれその順序で〕「社会的制裁を免除する、免除しない」〔に対応する〕。  ☆ と捉えると どうして いけないと考えるのか。  これは まづ 直接の対応がないという意味であって 間接的に といいますか そもそも 社会を構成する人間としては 基礎における形での間接的には つながっているとも言わなければならないと思います。  けれども 直接につながった形で対応するとなると 被害者が そもそも あたかもその制裁の権利を持って そのあと わづかに それを社会の制度にゆだねるという解釈になってしまうと思われるからです。  そうだと どうして いけないと考えるのか。そうだと 別様の道をとおって 結局 私刑という選択もありうるということになりはしないでしょうか。つまり このほうの選択があるとなれば やはり 復讐の連鎖が 起きて それが あとを断たないことになってしまう。・・・  ううーん。少し時間がかかってしまいました。まとまりが悪いかも知れませんが ここで 一たん お応えとしたいと思います。いかがでしょうか。

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回答No.20

 ★「なんてことするんだ。赦されないぞ。誰か助けて。病院で治療してもらいたい。」て思うでしょう。  ☆ ここで 《赦されないぞ》は どうでもよいということです。言ってもいいし 思ってもいいし 言わなくても思わなくてもいい。それだけのことだと思うんですけど。 そのとおりです。どの場合も各人の信条を尊重すべきです。よって、赦すことがそもそも不可能と限定してはいけないのです。   >また わたしの別の質問で 《〈左の頬をも向ける〉とき 抵抗は排除しますか》があります。わたしの考えは 相手に その不法行為のことをきちんと分からせる / そのために 左の頬をも差し出すということです。《刺された》なら そこまでの力はないでしょうが まづは治療のほかには その殺人鬼の人間への復帰を願うことです。社会的な取り決めによる制裁 これも 規則に従って 加えられるのですよ。その違法行為の問題と 個人としての赦す・赦さないの問題とは 別だという認識です。そして後者は 問題として 消えてゆくのではないかという憶測です。 この考えに賛同する人々にとってだけ、有効です。残念ながら、「赦せない」人には強制できません。「赦す権利も資格もない」なんて葬儀会場で言われたら、遺族が睨みますよ。心無い言葉の人だと思って。 >☆☆ ・・・その加害行為をとがめたくなるし 実際 咎めてもいいと思われるとき しかも 〈赦す あるいは 赦さない〉という行ないは 社会的には 意味を持たない性格のものだということにならないか。☆ という見通しです。咎めるのです。違法行為ですし 迷惑ですから。《左の頬を差し出す》そのことによって 咎める形もあるのだと思われます。 虚構世界の言葉に感じます。単なる一被害者の仲間入りです。 >★ 遺族が、「赦せない。」というのも現実的で、肯定すべき使用方法だと思います。  ☆ と同時に この咎め=非難は さらに広範な和解としての《加害者の更生・復活》の促しへと 方向づけていくという寸法です。《更生しなきゃ 承知しないぞ》ぐらい 言ってもいいのではないですか。 言ってもいいです。また、「赦せない」もまだ有効です。人間は均一思想集団ではありません。地域性、時代性のような背景、脈絡の下、さらに千差万別で、多様で、みんな違っていることが前提です。その中で何度も何度も確認して、硬化してきた基盤があります。質問者様の考えも硬化して万人の前提になれば、このように力説する必要すらありません。力説していることが、現時点では無理筋の証明です。寛容って、現実には困難ですね。均一思想はファシズムに通じます。こっちの方が怖いです。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん もう 今や わたしたちは 同じ地点に立っているように思われます。もう そう言っていいのではないでしょうか。  引っかかりは 二点くらいでしょうか。  《思想の強制は いかん》と《過渡期の捉え方如何》です。  たとえば《死刑の是非》論が いま現在 継続中です。過渡期だと思うのです。  けれども すべては 民主主義の適切な話し合いの過程をとおって 決められていきます。これで もう お応えになったと思うのですが どうでしょう?  ★ 質問者様の考えも硬化して万人の前提になれば、このように力説する必要すらありません。力説していることが、現時点では無理筋の証明です。寛容って、現実には困難ですね。均一思想はファシズムに通じます。こっちの方が怖いです。  ☆ このとおりです。おっしゃるとおりです。文句はありません。  * 《自己が 自己のあやまちを赦す》というとき おそらく 一般には その事の大小 軽重によって 《赦し得るから 赦した》というところでしょうが その大小・軽重は どこで線引きするのかになります。  もし重・大のほうは 社会的な取り決め(法律)によって 処理するというのであれば これも やはり 個人の内面においては――感情や気持ちは別として(なぜなら 現代社会では それらだけに基づいて 行動しようとは 人は基本的には 考えなくなっている)―― 赦す・赦さないの理論は もう構築しなくても よいようになっている。のではないでしょうか?  * 今回 みなさんによって 鍛え上げられたとも言えますし むしろ この質疑応答の場じたいが このような問題をめぐって 探究を開始していたのではないか こう思えてきます。もう少し 時間をおきます。   * qsxdrfvgyhさん こうしてやり取りしてきて ソクラテスではありませんが 対話は 大切ですね。また 大きな収穫をもたらしてくれるではありませんか。

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noname#194289
noname#194289
回答No.19

許すとかするとか許さないというのは本来頭の中の話ですから、個人の問題です。しかし複数の個人が集まっている場で許すとか許さないという話をすると結局力関係で決められることになります。つまり個人のことなのか、複数の個人が作っている社会の問題なのかで答えは全く異なるように思えるのですが・・・

noname#80116
質問者

お礼

 kaitara1さん ご回答をありがとうございます。  ★ つまり個人のことなのか、複数の個人が作っている社会の問題なのかで答えは全く異なるように思えるのですが・・・  ☆ おっしゃるとおりで ここは 《個人にとって 外側における領域》の問題です。個人の内面が どのようにコミュニケーションの場で表現されるかの《社会の問題》です。  ちょうど まったくちょうど 直前のご回答へのお礼・補足として書いた文章が ぴったり kaitara1さんのご回答に対しても お応えになると思いますので 掲げます。  ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  では それを 外に表現するとは どういうことか。  次のような内容となって現われるのではないか。  たとえ極悪人でも 生きること・生き改めること・更生することを 願うこと これではないかと。  ・また わたしたちが その加害者の更生することを見守っていくこと  ・その更生が叶わないなどということを むしろ ゆるさない(許可しない)ということ  ・その加害者の――状態にもよるでしょうが――社会復帰を見守ること  ・否 社会復帰を完全に為し得るように 心冷たくでもよいから 加害者本人を 受け容れること  ・ついでに言うなら 一般に人は互いに 互いの差異を認め合うということ  ・そこから 異者の受容ということ・・・  ・・・これらのことを 人びと一般が 心がけること。   ・そして行政は その実現に向けて 制度からも援助するということ・・・  このようなことを 考えるに到りました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いかがでしょうか。つまり そのとき 《罪》という言葉も同じくそうなのですが 《赦す》という言葉も 要らなくなっていると考えるのです。どうでしょう?

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  • keepfaith
  • ベストアンサー率49% (77/155)
回答No.18

こんにちは。 まず、「人の過ち・罪を赦す」ことと「人を赦す」ことを分けて考える必要があると思います。 おっしゃるように「人が人(自他共に)の罪、あるいは過ちを、赦すことは、不可能」です。わたしたちは皆不完全で、能力も権限もないですから。(ですから、完全となられ、何の罪も犯されなかった、そして創世の前から、父なる神様にその任務を託された、(実はわたしたちも前世でその場にいて賛同したのですが)イエス・キリストがわたしたちに代わって全人類の罪を購ってくださり、わたしたちは「悔い改め」を条件に[この罪というのは、法律には触れないような道徳的・心の罪も含まれます]を赦されるわけですから。)「悔い改め」には、罪を償うことや、その罪を捨てること、もうしないこと、も含まれます。 わたしたちにできるのは、そして求められているのは、「人(自他共に)を赦すこと」です。人を赦さないと自分も赦していただけないともありますし。七を七十倍するまで、つまり何度でも、人を赦すようにと聖書にもあます。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉もありますよね。 残酷な犯罪に巻き込まれたような場合のように、非常に難しく、時間のかかることも多いでしょうが。人を憎んでいると、心に平安がないし、幸せになれませんよね。 ご理解のお役に立てば幸いです。

noname#80116
質問者

補足

 keepfaithさん ご回答をありがとうございます。  keepfaithさんのご所説と同じことを 世俗の事柄あるいは日常生活の問題あるいは人と人とのコミュニケーションの場では どう表現することになるか このような問いになっています。  ということで どんどん進みますが まづは 但し書きをしなければいけないでしょうね。  いくら世俗の事柄だと言ったって そこでこそ つねに 内面主観は やはり生きているのであって そのときにこそ なぞの秘跡は 輝くのだということ。ですよね? そして しかも――しかも です――この内面の思いは 人に対して社会に向かって 表現されます。表現されてこそ 輝きが輝きとなります。  《罪を憎む》とは どういうことか。《人を憎まず。人を 四九〇回赦す。人を愛する》とは 何のことなのか。ここから出発したあとの問題になります。そして そのあとは いささか乱暴に扱っているかとも思います。大胆です。  こういうふうに考えたのです。《人(他者)》ではなく 自己について考えてみました。《自己が 自己を赦す》とは 何か。結局のところ わけもなく 赦すことになるのではないか。《悔い改めとは 自分の中で おこなうことである》と同じように《赦す》も そうだ。では それを 外に表現するとは どういうことか。  次のような内容となって現われるのではないか。  たとえ極悪人でも 生きること・生き改めること・更生することを 願うこと これではないかと。  ・また わたしたちが その加害者の更生することを見守っていくこと  ・その更生が叶わないなどということを むしろ ゆるさない(許可しない)ということ  ・その加害者の――状態にもよるでしょうが――社会復帰を見守ること  ・否 社会復帰を完全に為し得るように 心冷たくでもよいから 加害者本人を 受け容れること  ・ついでに言うなら 一般に人は互いに 互いの差異を認め合うということ  ・そこから 異者の受容ということ・・・  ・・・これらのことを 人びと一般が 心がけること。   ・そして行政は その実現に向けて 制度からも援助するということ・・・  このようなことを 考えるに到りました。    理論として言えば こうです。  《われわれは 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎むべきではなく 人ゆえに欠陥を愛すべきでもない》。  おっしゃるように《罪を憎んで人を憎まず》です。ただ《罪》あるいは《憎む》が《赦す・赦さず》にかかわるとしたなら それ などの語を 用いたくないのです。それら自体は 内面にとどめるべき思惟です。  そこで 主観と主観との関係において どう表現するか。現実の加害行為とその思想 これの欠陥は どこまでも・どこまでも 徹底的に憎み 言論において批判すること。と同時に その人・その人間存在それ自体は すべからく受け容れざるべからずという結論です。社会的な承認・認容・受け容れの確かな基礎がなくては 何にもならないのではないか。・・・いかがでしょうか。  ★ 人を憎んでいると、心に平安がないし、幸せになれませんよね。  ☆ あえて言いたい。これでは なまぬるいと思います。あるいは 内向きであり 内向きに過ぎると考えます。  というのが この質問の趣旨と志向性です。いかがでしょうか。  (初対面なのに 同志のごとく 気軽に気安くしゃべっています。あしからず ご了承くだされば幸いです)。

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  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.17

>人が 人のあやまちを赦すことができますか それは、事の大きさによると思います。 我が娘が非道な殺され方をした、犯罪者を100が100人赦さないと思います、人間はまだその域に達してないと思います、赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないと思います。 ただ宗教的な経験をした人は少し違うでしょうが。 ですからその問題は神に任せる問題だと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ri-zyuさん ri-zyuさんは 人の話を何にも聞いていないのですね。    これだけ 回答者とのやり取りをしてきているのですから 質問の趣旨をゆがめるというのは よほどのことでなければ できません。  たしかに  ★ つまり その能力を持ち合わせていないと思います。 / ただ宗教的な経験をした人は少し違うでしょうが。  ☆ とおしえてくださるのなら 質問に対して 《いや そうではない。赦す能力は 人間にあって 開発することができるのだよ》と言おうとしていることが分かります。  分かりますが では これまで 延べ十六回やり取りしてきた質疑応答の努力は いったい何だったんでしょう?  それでも せっかくのご回答ですから ri-zyuさんの論理に沿って こういうふうに問い返してみましょう。  ☆(1) 或る娘が非道な殺され方で殺された この《犯罪者を100が100人赦さないと思います》というとき 《ただ宗教的な経験をした人は少し違うでしょうが。》のその人は 《百人》の中に まだ現在では 入っていないということでしょうか?  ☆(2)《ですからその問題は神に任せる問題だと思います。》というとき そうすると 何のよいことがあるのですか?

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回答No.16

もっとはっきり設定しましょう。質問者様が刺されたのです。見知らぬ殺人鬼です。その時、「赦しますなんて死語だし、赦さないも死後だし、そもそも自分を赦すのと同様に、殺人鬼も赦すべきだし、でも、赦すって死語っだたなあ。いや、まだ、死語とは言い難い。有効だ。いや、しかし、赦すとか赦さないの次元に人はいないのだ。範疇が違い、なじまない考えだ。加害者の更正を応援しよう。ああもう、だめだ。さようなら。」というような非現実的な想定です。そんな台本はありえません。 普通の人は、「なんてことするんだ。赦されないぞ。誰か助けて。病院で治療してもらいたい。」て思うでしょう。遺族が、「赦せない。」というのも現実的で、肯定すべき使用方法だと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん たしかに 検証すべきですし おっしゃるような問題としての審査をとおらなきゃいけないだろうしすると思うのですが まづは 基本的な理論になります。    設定にもとづけば。  ★ 、「なんてことするんだ。赦されないぞ。誰か助けて。病院で治療してもらいたい。」て思うでしょう。  ☆ ここで 《赦されないぞ》は どうでもよいということです。言ってもいいし 思ってもいいし 言わなくても思わなくてもいい。それだけのことだと思うんですけど。    また わたしの別の質問で 《〈左の頬をも向ける〉とき 抵抗は排除しますか》があります。わたしの考えは 相手に その不法行為のことをきちんと分からせる / そのために 左の頬をも差し出すということです。  《刺された》なら そこまでの力はないでしょうが まづは治療のほかには その殺人鬼の人間への復帰を願うことです。社会的な取り決めによる制裁 これも 規則に従って 加えられるのですよ。その違法行為の問題と 個人としての赦す・赦さないの問題とは 別だという認識です。そして後者は 問題として 消えてゆくのではないかという憶測です。  ☆☆ ・・・その加害行為をとがめたくなるし 実際 咎めてもいいと思われるとき しかも 〈赦す あるいは 赦さない〉という行ないは 社会的には 意味を持たない性格のものだということにならないか。  ☆ という見通しです。咎めるのです。違法行為ですし 迷惑ですから。《左の頬を差し出す》そのことによって 咎める形もあるのだと思われます。  ★ 遺族が、「赦せない。」というのも現実的で、肯定すべき使用方法だと思います。  ☆ と同時に この咎め=非難は さらに広範な和解としての《加害者の更生・復活》の促しへと 方向づけていくという寸法です。《更生しなきゃ 承知しないぞ》ぐらい 言ってもいいのではないですか。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.15

こんばんは、 相変わらず頭の中でばかり考えるのですね。 >赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 brageloneさんの今までの人生を振り返ってそうだったんですか。 自分自身に問うてみた結果がそれなのですか。

noname#80116
質問者

お礼

 そうですね。  ご回答の中身を測りかねています。    ★ 相変わらず頭の中でばかり考えるのですね。  ☆ この意味が分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 brageloneさんの今までの人生を振り返ってそうだったんですか。 自分自身に問うてみた結果がそれなのですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづは この設問の考えが どのように得られたか それを明らかにせよ さすれば 答えてやるぞという意味でしょうか。  

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  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.14

もう一言(おそらく八言くらい)。 「赦す赦さないには権利や資格など要らない」 >そうですが これは いわゆる私刑 リンチですね そのような振る舞いに及ぶときの考え方ではないですか。 うーん。それは一面しか見えていない。 私刑の対概念があると思うんですよ。仮に「私赦」という造語を作っておきましょうか。 「私赦」という振る舞いに及ぶときの考え方としてもいいんじゃないでしょうか。 まあ持ち出しやすいところから例を出すなら、イエスですよ。 「あなたの罪はゆるされた」なんて自分勝手に言っちゃう。 これに対して律法学者は「あなたは神でもないのに(つまり、資格もないのに)人をゆるすのか」とやるわけです。 この構図ですわな。 イエスの場合は自分は神から遣わされたのだということで資格を主張し、じゃあしるしを見せてみろと資格証明を人々が求めるという流れになっていますが、まあそんなことは今はどうでもよろしい。 「私刑」が問題視されると同様に「私赦」も問題視されるものなのか。 「おいおいダメだろ勝手に赦しちゃよお」ってなことを考える人がいるからなんでしょうが、そういう人って「他人が勝手に赦すことを赦さない人」なんですわ。 いやこの権利や資格というやつのうさんくささ。 権利とか資格って空虚な概念ではないかね?

noname#80116
質問者

お礼

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。  なかなか おもしろいです。非常におもしろいです。  ★ 私刑 および 私赦  ☆ けっきょく こうじゃないですか? つまり 表現の問題に帰着するのだと。  私刑は 現実に物理的に ひどい結果をもたらしますが その表現は 無効です。いくら 有力であっても 理論的には効力無しです。  私赦は どうか。個人の内面において――良心・信教の自由と呼ばれる自由があてはまる心の内面において―― 有効であると信じられる表現行為です。  ★ 「あなたの罪はゆるされた」なんて自分勝手に言っちゃう。  ☆ しかも この内面のことを 人に向かって 表現するのも自由だということになっています。  かくなる上は もはや 赦す・赦さないという概念は 内面と内面との呼応関係としてか あるいは結局同じことで 大きく虚構を前提にした上で 表現にも出して 互いに対話をし合うという場合にのみ 有効となるのではないですか。  一人の個人の内面で 《私赦》するのが 無効だということでなくとも そのとき 有効性は 隠れている。つねに隠れている。そして それでいいし そういうあり方が 本来の表現だとも考えられます。  と言っても われわれ人間は この本来の隠れた赦す・赦さないの表現行為において 実際には 葛藤を繰り広げているというのが 関の山であるかも知れません。  とすると イエスの場合のように その私赦の外的表現によって 相手が 即座に その表現内容が実現するのなら いいけれど そうでない場合には 社会的な有効性という次元(もしくは形態)で たとえば やはり加害者の更生と社会復帰 これを 目指していくというのが 赦す・赦さない問題の彼岸であり悲願であったものだと思われます。此岸に引っ張ってくれば 寄ってくるでしょうか。  ★ いやこの権利や資格というやつのうさんくささ。 / 権利とか資格って空虚な概念ではないかね?  ☆ この罪とか道徳とか 戒律とか 七つの大罪だとか そして 《権利だの資格だの》あるいは《権威》だのと言っているあいだは 遠いかも知れません。 

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回答No.13

赦すということは、今のままでいいですよということでそこからどう 変わっていくかも自由ですということだと思います。 赦さないというのは、赦すためには条件が必要だということ。 自分の気に入ったようにならなければ赦さない。 赦すことができないというのは、気に入らないことがあればそれを支配 して自分の思い通りに出来るというと思い込んでいるからだと思います。 支配欲が強ければ強いほど赦せなくなり、厄介なものを抱えるように なるでしょう。

noname#80116
質問者

お礼

 hamakkotarouさん ご回答をありがとうございます。  ここまで来たところで 《自分は 自分の至らなさをゆるす》という事例が かなり 効くと思うようになっています。  ★ 赦すということは、今のままでいいですよということでそこからどう / 変わっていくかも自由ですということだと思います。  ☆ この内容は 上の事例に当てはまっていると思います。  ★ 赦さないというのは、赦すためには条件が必要だということ。 / 自分の気に入ったようにならなければ赦さない。  ☆ これは そうなのですが――つまり《赦さない》ということを表明することができますし その決意をつらぬくことも 自由に できますから そうなのですが―― 自分も 大小の差はあるでしょうが あやまちを犯すというとき もし自分が自分のあやまちを赦していたとすれば ここに提出する《条件》は あって無きがごとしになります。  相手も そのことを見透かすかのように のらりくらりと応対して この条件をずらそうとするかも知れませんし やがて条件のことさえ忘れるのを待っているかも知れません。  そのとき むしろ この条件は 加害者である相手が 更生すること そして事情がゆるせば さらに社会復帰を果たすこと これのほうが 最も良い内容であるのではないでしょうか。  つまり 赦す・赦さないの問題は そういう条件へと道をゆづることになるように思うのです。後者(条件のほう)が 社会的な有効性を発揮することになるでしょうし 前者(赦す・赦さない)は 個人の主観内面において――たしかに その心が重要なのですが―― 和解の方向へと持っていくときの心の整理になるかと考えられます。  心が重要だという意味は けっきょく 社会的な有効性としての 加害者の復活 これが いちばんの薬になるのではないでしょうか。 

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回答No.12

No.6です。話が全然かみ合わない印象です。 >なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか  あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。(たぶん これが 一番の根拠です)。 普通の人間(全人類かも)には、赦しは不可能で、超越者のみ可と解釈できますね。(1) >あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。  つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく 《分かりました こちらこそ ごめんなさい》と詫びたという場合です。 殺し殺される想定では、ないようですね。殺し合いでない場合には、赦し合うことは可能と言っていますが、被害者死亡ですから、ずれてます。遺族は被害者本人ではありません。(2) >このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか? ここで急に、場合分けせずに、全般的に赦しは不可能に戻っています。不当に拡大(飛躍)しています。(3) >お尋ねの件は こうです。すなわち 赦すという言葉を口に出しても 一向に構わないのですが 《思考の上で・哲学の理論として そもそも 人は 人を赦すというおこないに直面する必要はない》という考え方を 提出しています。方向が 微妙に違うと分かっていただけると思うのですが。 赦すと言ってもいいけれども、赦すという行いに直面する必要がないという部分が意味不明です。微妙な違いが分かりません。結局、先ほど(3)のように不当に飛躍したように、「全般的に赦しは不可能」と言いたいのですか。言うことも、直面することも不必要ならば、脈絡は一貫しますが。(4)   >★ 殺人鬼の通り魔  ☆ この事例じたいについては いまのところ 《話し合い》を わたしとしては 用意しています。しかも 大きくは 加害者とも《話し合い / 和解》の方向へ行くというものです。  法治社会としての社会的制裁については 《別の親族》の発言どおりに 《それ相応に実行される》ことを予定しますし そのように執り行われるものと考えます。 (2)でも書きましたが、被害者は死亡しています。和解なんかありません。遺族は被害者本人ではありません。 >まとめとして。  赦すとか 赦せないとか 口に出して言っても なんら問題ありません。 問題は その赦すあるいは赦さないという行為が 言うならば まったく個人の内面主観の中でのみ 持たれるに過ぎないということが 現実になるのではないか これです。 「赦す能力も権利も資格もない」のに、赦すとか赦せないとかと言ってもいいけれども、その赦すあるいは赦さないという行為が現実になるのが問題だというのが、(4)と同様に意味不明です。 No.6の例示に隠された意図は、「赦す能力も権利も資格もない」のであれば、(1)のように全人類が赦すと言えないはずだと結論付けられ、さらに、(1)のように超越者のみ可ならば、「赦さないという能力も権利も資格も同様に全人類にない」と類推されるということです。 そして、赦すとか赦せないとかと言うべきでないとなれば、普通の日常言語感覚で、被害者遺族が「赦せない」と発言するのを当然と受け止める一般感覚を否定することになることを浮き上がらせたかったのです。つまり、「赦す能力も権利も資格もない」というのは、一般的な感覚とずれた発言だということを言いたいのです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん 表現し得ていないきらいがあります。それこそ おゆるしあれ。ご回答をありがとうございます。  この設問は きょう思い浮かんだ考えを載せたもので まだ 湯気が立っています。饅頭は まだ固まっていません。饅頭のかたちを現わしたところで お尋ねしています。  加害が殺人にまで達しているという場合もさることながら まったく  ★ 一般的な感覚とずれた発言だということ  ☆ です。もちろん この飛躍から出発しているのです。    少しづつ分かってきているのですが たとえば  ★ 普通の人間(全人類かも)には、赦しは不可能で、超越者のみ可と解釈できますね。(1)  ☆ に関しては こう説明することを得ました。つまり   《 人は 自分については けっきょく 赦します。存在を そもそも 大前提とするのならば 自分が自分を赦すというのは あまり意味を為さないかも知れない。すべて そこに落ち着くとすればです。  《 だとすれば 他者も まったく同じであろうと思われる。その人の内面において 同じことであるだろうし また こちらから その人に相い対するときにも その加害行為をとがめたくなるし 実際 咎めてもいいと思われるとき しかも 〈赦す あるいは 赦さない〉という行ないは 社会的には 意味を持たない性格のものだということにならないか。自分が自分を赦すという場合と けっきょく 同じような事例だからだ》。  ★ 赦すと言ってもいいけれども、赦すという行いに直面する必要がないという部分が意味不明です。  ★ 「全般的に赦しは不可能」と言いたいのですか。  ☆ それは 違います。言おうとしていることは 赦しには 人は なじまない。範疇がちがうという意味です。  ★ 「赦す能力も権利も資格もない」のに、赦すとか赦せないとかと言ってもいいけれども、その赦すあるいは赦さないという行為が現実になるのが問題だというのが、(4)と同様に意味不明です。  ☆ 感情・感覚あるいは発言 それらは すべて 自然であり 自由です。《赦す》は やがて 死語になるという意味です。自然史に任せます。  さて 存在が抹殺されるという場合です。  ★ 殺し殺される想定では、ないようですね。殺し合いでない場合には、赦し合うことは可能と言っていますが、被害者死亡ですから、ずれてます。遺族は被害者本人ではありません。(2)  ☆ 結論からいけば 被害者の生死に関係なく 被害者も生きる 加害者も生かす というのが 原則です。  惜しくも死亡に至った場合 それでも その被害を社会的に見て最小限にとどめる その生命および社会的生命を最大限に生かす このためには 加害者も生きるということを 大前提にしなければ 社会とその歴史にとって 意味を成さないのではないだろうか。加害者の生命の尊重が 必要不可欠だと考えるようになりました。  加害者の更生 そして 事情がゆるせば 社会復帰 しかも 被害者もその遺族も一般の人びとも この更生および社会復帰を 心が冷たくでもいいから 応援する・妨害しないということ。  そうでない場合には 人の生命を 究極的に 区別し 人間が 善と悪 優と劣に捌く(かつ裁く)ことになってしまう。さばいてよいのなら 被害者は 裁かれて当然の劣等な人によって 生命を奪われたのだから それは ありうることで 納得せねばならないということになってしまわないだろうか。・・・  これをさらに 一般化して 《人は互いの差異を 互いに認め合っていくということ》。《異者の受容》 これが 第一の課題であると結論づけるようになりました。  ご批判をたまわりとう存じます。

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  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.11

昔の人が言ったではないか。 「七回の七十倍 『絶望』しなさい」

noname#80116
質問者

お礼

 taco8chさん ご回答をありがとうございます。  ★ 「七回の七十倍 『絶望』しなさい」  ☆ そのあと 《赦す》能力など 人には ないと自覚するという意味ですか?  えぇっと それは たぶん 違うと思います。質問者が 自分の意見を言えばですけれど。  つまり すべて 終わりから始めるからです。少しづつ 彼岸に近づくという経験論法によっては 理性は 満足しないですし 実際 信仰にあっては 違うはづです。もし 赦す能力があるとするなら 一切を初めから赦していると思います。そこから 出発すると考えます。(と考えるようになっています)。  ですから 中途半端に《赦す》を持ってきても だめなのであって いっそのこと 概念として《赦す》は もともと 人には与えられていないという命題を得るようになったのです。  いかがでしょうか?

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