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人が 人のあやまちを赦すことができますか

  • 質問No.4097397
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 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

 このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。
 哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.21
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ベストアンサー率 22% (17/76)

そろそろ、ハエ取りツボから脱出する道を示す機が熟しました。

>赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

能力・権利・資格を問う必要はないのです。
「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で、そもそも個々人の能力・権利・資格を問う必要はなかったのです。個人的な発言のように見ていたことによる勘違いです。西洋の個人主義的な発想を感じます。遺族が「赦さない」というのは、独り言ではありません。「社会的に制裁を下してほしい」という対社会向けの表出発言です。

能力とか資格とかを手がかりに、袋小路(ハエ取りツボ)に入っていたのです。現代日本において、制裁や更正は、社会的に決めるのです。個々人の能力・権利・資格で決めません。ここは、質問者様と共通認識でしょう。だとすると、能力・権利・資格は関係ないと発言し、「赦す」も「赦さない」も、有効な言語使用方法だと認めるべきです。
補足コメント
noname#80116
 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 質疑応答として表わされた文章だけを読むと 存外しっかりした歩みをたどってきたと思いますが たしかに 全体観としての安定性がなかったことも実際です。
 今回のご指摘は いったい どうなりましょうか。

 まづ分かっていることは 
 ★ 能力・権利・資格を問う必要はないのです。
 ☆ になります。そして このあと
 ★ 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で〔ある〕。
 ☆ という思想は 筋として 共感したのですが 少し次のように修正を加えて 賛同しました。
 
  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。
  (2) 《赦す・赦さない》は それを 自由において 口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まる。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。
  (3) この(1)(2)は 加害行為に関して その処理を 社会的な制裁と更生処置にすべて ゆだねる前に 定まっている。
  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている。
  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関して あてはめると 分かりやすい。
  (4-b) ということは 結論から言って 社会は すでに 初めから その成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁・その更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。

 では  
 ★  「赦す」「赦さない」という表出は、〔それぞれその順序で〕「社会的制裁を免除する、免除しない」〔に対応する〕。
 ☆ と捉えると どうして いけないと考えるのか。
 これは まづ 直接の対応がないという意味であって 間接的に といいますか そもそも 社会を構成する人間としては 基礎における形での間接的には つながっているとも言わなければならないと思います。
 けれども 直接につながった形で対応するとなると 被害者が そもそも あたかもその制裁の権利を持って そのあと わづかに それを社会の制度にゆだねるという解釈になってしまうと思われるからです。
 そうだと どうして いけないと考えるのか。そうだと 別様の道をとおって 結局 私刑という選択もありうるということになりはしないでしょうか。つまり このほうの選択があるとなれば やはり 復讐の連鎖が 起きて それが あとを断たないことになってしまう。・・・

 ううーん。少し時間がかかってしまいました。まとまりが悪いかも知れませんが ここで 一たん お応えとしたいと思います。いかがでしょうか。
投稿日時:2008/06/14 18:22

その他の回答 (全50件)

  • 回答No.51

ベストアンサー率 22% (17/76)

同じことの繰り返しですねー。

>★ 本題から〔どのように なぜ〕反れ〔るのか〕
☆ これを 明らかにしてくださると そしてもしそのことに納得がいけば もうすべてが確定ということになると思うのですが どうでしょう?

Q「赦す」能力・権利・資格が人にありますか?
A「赦す」「赦さない」という表出発言が個々人の能力・権利・資格の問題ではなく、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を正当だと追認しましょう。

これで、終わりです。この回答に過剰な修飾をしたくないだけです。変化の話は、この質疑応答の関連質問なのでしょうが、当初の質問が完結しているので、蛇足に思えます。過剰です。論点がぼやけます。ゆえに、「その2」とか「続」とかで、別立てする方がよいという個人的な感想です。以上。
お礼コメント
noname#80116
 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。でも このご回答は やはり 次の二つの要素に分かれるとは思っています。 

  A. 基礎理論 もしくは 長期的な展望としての第二段階
 ★ 「赦す」「赦さない」という表出発言が個々人の能力・権利・資格の問題ではなく その「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して〔いるということ〕
 B. 〔不遜な言い方ですが〕過渡期としての便宜的な情況対応 もしくは 短中期的な将来としての第一段階
 ★ 社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの〔――「赦す」「赦さない」という――〕言葉の〔――自由な――〕使用を正当だと追認しましょう〔ということ〕

 つまり たぶん 《 B 》のほうは もっと具体的な事例として 繊細な部分に配慮したかたちで 表現し分けなければいけないように思いますが 《 A 》の理論は もうそれ自体で 普遍的な原則であるように考えています。したがって 《 B 》は 応用形態として 《 A 》に従属するとさえ思いました。

 でも これ以上は しつこ過ぎるでしょう。たいへんありがとうございました。ここで一たん締めることに致します。
 みなさんともども たいへん有意義なご回答を寄せていただき 感謝しております。それでは また 関連質問がありましたら よろしくお願いしたいと存じます。それでは。

 * お礼のポイントは みなさんすべてにと思っても うまく行きませんね。困ってしまうのですが そういうときは 恣意的な判断がよいのでしょうか。恨みっこなしで よろしくお願いいたします。
投稿日時:2008/06/22 21:51
  • 回答No.50

ベストアンサー率 22% (17/76)

>《加害行為に対処する仕方は 当事者やその近しい関係者の発言内容に・・・かかわらず 決められる》という想定です。《加害という行為であることの指摘と その行為をしないという生活への復帰》として決めてもよいのではないかでした。
つまり《可能性 / 潜在能力としての本性》などを吟味してみようという《その後》の――第二部以降の――模索と探究でした。と思うのですが いかがでしょう?

各関係者の発言内容にかかわらず決められるという視点に、特に「決める」という点に私としては拒絶反応が出てしまいます。個々の能力や権利も資格も問わずに、当然に、「赦す」「赦さない」という表出発言ができる上で、各関係者の発言内容は、社会の中で常に吟味され、支持と不支持の反応の積み重ねがあり、相応しい発言としてさらに変化していくだけで、画一思想の方向付けで「決まっていく」とは考えていません。

私は日常性を超克した純粋理念があってその光に導かれていくという発想をしていません。日常性を最大限尊重し、千差万別の発想も尊重し、徐々に生まれた変化の集積として、振り返った時に、後付けで方向性を語れるに過ぎないという発想です。予想外・偶然の支配する世界観です。理性万能の必然的世界観ではありません。

変化の可能性は、現時点で語れるものではなく、変化は反省的に語れるので、今は沈黙すべきと思います。私たちが語れるのは、今までの経緯と問題点であって、将来の可能性の芽を育てるだけです。しかし、それは本題から反れますので、別の質問とすべきかと推察します。
補足コメント
noname#80116
 qsxdrfvgyhさん そうなんですか。つまり おっしゃるところから察すると わたしがかろうじて垣間見たヰトゲンシュタインの《言語ゲーム》の要領ではないのですね?

 つまり もしその要領だとすれば 前回のわたしの解釈は qsxdrfvgyhさんとの微妙な違いとして 次のように やっとわかったように思ったという内容だったのですが。すなわち

 ★★ 本問題の核心は、「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を追認するだけの話です。
 ☆ この一文を 二つの性格あるいは段階に分ければ よいのだと思いました。

 A. 基礎理論 もしくは 長期的な展望としての第二段階
 ★ 「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して〔いるということ〕
 B. 〔不遜な言い方ですが〕過渡期としての便宜的な情況対応 もしくは 短中期的な将来としての第一段階
 ★ 社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの〔――「赦す」「赦さない」という――〕言葉の〔――自由な――〕使用を追認する〔ということ〕
 
 ☆ すなわち したがって今度は 問題は (A)の基礎理論が
 ★ 日常性を超克した純粋理念があってその光に導かれていくという発想
 ☆ であるかどうかにかかっているということになりそうです。つまり
 ☆☆ 決める・決められる
 ☆ という表現がいけなかったかと思います。ただ たぶん収斂していくと すでに今 わたしは 見通すものですが もちろん
 ★ 個々の能力や権利も資格も問わずに、当然に、「赦す」「赦さない」という表出発言ができる上で、各関係者の発言内容は、社会の中で常に吟味され、支持と不支持の反応の積み重ねがあり、相応しい発言としてさらに変化していくだけで、画一思想の方向付けで「決まっていく」とは考えていません。
 ☆ という内容は まったく同じ考えです。違いは 自負にあります。qsxdrfvgyh さんとて (A)の原則をうたっておられるからには 自負も確信もお有りではないかと思うのです。民主主義です。

 ★ 私たちが語れるのは、今までの経緯と問題点であって、将来の可能性の芽を育てるだけです。しかし、それは本題から反れますので、別の質問とすべきかと推察します。
 ☆ たぶん わたしが――気は短くなく 長いのですが 早いものですから―― 強引すぎて それに対して他方 qsxdrfvgyhさんが――気が早くなく遅いというわけではないでしょうけれど―― 慎重のうえに慎重を期すという態度でいられるのではないでしょうか。
 
 * どうでしょう? もしよろしかったら――かなり長引いていますが 長引きついでに―― 
 ★ しかし、それは本題から反れますので、別の質問とすべきかと推察します。
 ☆ というときの
 ★ 本題から〔どのように なぜ〕反れ〔るのか〕
 ☆ これを 明らかにしてくださると そしてもしそのことに納得がいけば もうすべてが確定ということになると思うのですが どうでしょう?

 * ヰトゲンシュタインも 《無根拠》ということを言っていると読んだのですが もしそうだとすれば けっきょく 基礎理論の(A)は 同じくその《無根拠》ということを言っていると思うのですけれど。・・・つまり 《原則は つねに 民主主義の自然史過程に従う》という歴史観です。つまりただし 働きかけは それとして おこなうということにもなります。それは 《話し合い》であり それだけですが。
投稿日時:2008/06/22 20:52
  • 回答No.49

ベストアンサー率 22% (17/76)

No.21で、見晴らしのよい頂上に達し、「赦す」「赦さない」という表出発言が個々人の能力・権利・資格の問題ではないという結論であったのに、また7合目くらいに戻って脇道に反れて森の中で道が消えたような印象の議論を続けていたのですね。

問題解決の頂上に達する道は複数あるとは思いますが、ほかの道ではあまり成功していないようですね。「赦す」「赦さない」という表出発言を「現代日本の社会的な役割」において理解するだけでいいと思うのですが。「無私」も「禁欲力」も「善や神」も「煩悩即菩提」も「絶対他力」も必要ありません。

本問題の核心は、「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を追認するだけの話です。空理空論を弄して、現実の日常言語の使用感覚に反した問題提起を放っておいてはいけないという危機感から私は前回、回答しました。

ですから、遺族が「赦さない」というのは当然正当な発言であるし、キリスト者が「赦します」という発言も正当です。それぞれの生活様式から出た発言はそれぞれ尊重されます。どちらが正しく、どちらが間違いだと言えません。

そして、これらの発言は独り言ではなく、対社会向けのメッセージですから、その発言は社会制度の中で毎回毎回検討され、支持されれば残って社会の基盤となり、不支持となれば修正を余儀なくされます。遺族が「赦さない」という発言が今後正当でない時代や地域があるかもしれませんが、それは現時点では可能として言えるだけです。

言語ゲーム/劇をあえて持ち出す必要もありません。蛇足でした。「発言の社会的な役割」という視点だけ、分かっていただきたかったということです。そろそろ、質疑応答は終わりにしていいのではないでしょうか。そのように思います。
補足コメント
noname#80116
 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。さらに明解な解説をいただいた恰好です。

 なるほど なるほどと読み継いでいって 一点だけ 引っかかったところがあります。これを率直に述べてみます。
 まづ あらためて 復唱することから入ります。
 ★ 本問題の核心は、「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を追認するだけの話です。
 ★ 遺族が「赦さない」というのは当然正当な発言であるし、キリスト者が「赦します」という発言も正当です。それぞれの生活様式から出た発言はそれぞれ尊重されます。
 ★ これらの発言は独り言ではなく、対社会向けのメッセージですから、その発言は社会制度の中で毎回毎回検討され、支持されれば残って社会の基盤となり、不支持となれば修正を余儀なくされます。
 ☆ このとき 一点 ただ一点のみ つまりは 《変化》ということ この点に その後なお こだわっていたのだと思います。

 ★ 遺族が「赦さない」という発言が今後正当でない時代や地域があるかもしれませんが、それは現時点では可能として言えるだけです。
 ☆ ここで言おうとしていることは げんみつに言えば(念のためですが) 《加害行為に対処する仕方は 当事者やその近しい関係者の発言内容に もはや いわば かかわらず 決められる》という想定です。《加害という行為であることの指摘と その行為をしないという生活への復帰》として決めてもよいのではないかでした。
 つまり《可能性 / 潜在能力としての本性》などを吟味してみようという《その後》の――第二部以降の――模索と探究でした。と思うのですが いかがでしょう?

 つまりは もし qsxdrfvgyh さんのご見解(の基礎理論)を逆手に取って述べるならば 《〈語りえぬもの〉を指し示す》ためには 不易の理論(即実践)の追究も 現在この今 必要になるのではないかというものですが どうでしょう? 森が見えておらず 木ばかりを見ていますでしょうか。

 わたしの推測では 《「発言の社会的な役割」という視点》が 《劇》――《言語ゲーム》としての いい意味での《劇場社会》――のことではないかと 思い浮かべたのですが。そして たぶん 《不易》のことは どこまで行っても 《なぞ》ですが そのような指し示すべき何ものかの想定のもとに なお今後の変化の可能性を問うてみておくのも 問い求めるに値するのではないでしょうか。
 
 と言いましても ここで 一たん 質問は終えたほうがよいように思っております。しばらく 放っておきましたが 締めるのは いつでもできると思ってのことでした。一日二日をおきます。 
投稿日時:2008/06/22 17:12
  • 回答No.48
primeapeです。
今日私の勤めるおもちゃ屋さんで万引がありました。
被害金額60円のお菓子で、小学3年生です。
警察に通報して保護を要請しました。
罰がどうこうではなく専門家に任せるのが心の傷を癒す上で安全だからです。
ちなみに所管の警察はこのような場合は学校には連絡しないのを基本的方針としています。
子供は警察に連絡すると聞いてしきりに私に「ごめんなさい」を連発しながらないていましたが、落ち着いた呼吸のタイミングを見計らって「ソレその通り。おまわりさんにもごめんなさいって言えばいいんだよ」っと言ったらとたんに落ち着きました。(半べそは続きますが)
警察官は冷静で子供の動揺を誘わない対処をしました。
すぐに子供を連行したのでその後の対処は知りませんが、安心して任せられるので関心もありません。
何時間かして今度はお母さんが子供をつれて挨拶にきました。
大人同士として、ソレを聞いている子供がこれ以上傷つかない会話に誘導しました。先方が居るのでそれが精一杯です。
親子の帰り際に、私の行いの基本方針に基づき「許す許さないの話ならね、おまわりさんもお店の人もはじめっから許しているんだよ。そうだったでしょ」(納得したのでしょう)母親はもう一度ごめんなさいって言いなさいと子供に言いました。子供はここで始めて言いにくそうに「ごめんなさい」と言いました。許されていることが理解して口にする「ごめんなさい」は謝罪ではないんです。ふてくされでもしなければこのあいさつは屈辱です。子供の内面は詳しくうかがい知ることはありませんが、内在する悪意は論理(この場合は成り行き)の前には恭順するんです。
ちなみに悪と糾弾される行いをした人物がなかなか謝るきっかけが無いのは、「既に許されている」「神の声を聞ける」との信仰心も絡んでいる筈です。

60円のお菓子の万引。
ここに罪の大小で計ると話がややこしくなります。
許す理由が必要になります。
そうすると万引は本当なら反省しない点ではよっぽど死刑の対象に見えるんですよ。
お礼コメント
noname#80116
 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ふむふむとお話を聞いておりましたが 解決 というよりは 和解 というよりは 同じ仲間だという気持ちが芽生えたようで よかったですね。
 (たぶんわたしなら 一般に子どもとの対面や あるいは犯罪の場面にぶつかることが ほとんどないので どうするかと考えたのですが たぶん 事務的に対処するだろうと思ってしまいました。顔見知りなら また別ですが。つまり たっぷり どこまでも 時間をかけるでしょうけれど)。

 ★ ちなみに悪と糾弾される行いをした人物がなかなか謝るきっかけが無いのは、「既に許されている」「神の声を聞ける」との信仰心も絡んでいる筈です。
 ☆ この箇所が よく分かりません。《絡んでいる筈です》が 一度は 最低限度のお詫びの言葉を表明しなければいけないとは思うのですが?

 * このQ&Aは 《現代思想の最前線にある》と大見栄を切ってしまったので みなさんに引かれてしまったかも知れません。今後どうしましょう。思案しています。 
投稿日時:2008/06/20 10:22
  • 回答No.47

ベストアンサー率 21% (117/533)

故宮崎勤は、これで赦し赦されたのか・・・

この結末はまぎれもなく我々自身である。

法務相も、担当弁護士も、精神科医も、そして故宮崎自身も出演者に違いないし、
マスコミも裏方で活躍しているが結末を演出したのは我々である。

大げさに言えば、疲れ切って血に飢えた国民の劇場型ホラーといったところ。

残念なことにこんな結末でないと我々は関心がない。

故宮崎勤は、これで赦し赦されたのか・・・答えは否だろう。

有効な対策が打てなかった我々はまた彼に敗北する。
我々が彼に勝利して初めて彼が赦される日が訪れるのである。
補足コメント
noname#80116
 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 nabayoshさんの《無私》(わたしの解釈では =自然法≒仏性)の境地 あるいは arayata333さんの他者との共通感覚を備え問題にも対処していく強靭なやはり境地 これらなどを考えると 理論即実践という立ち場も さらになお強化して進むべきだと考えるようになりました。
 つまり bananasandさんもおっしゃる《禁欲力の涵養》です。《加害にいきつくような欲求をいくら思ってもよい。しかし これをしない》というむしろ自然本性に備わったというべきような禁欲力のことです。
 むろん 加害行為の予防そして加害者の社会復帰等々のための社会的な仕組みを作っていくことも とうぜん 帰結されるであろうし 実現させていかなければならない。・・・

 というのは 今朝の新聞で その広告の見出しだけを見たのですが

 ・小泉元総理 変節! 《国交正常化なくして拉致解決なし》
  《拉致交渉の崩壊》全深層
  ・・・増元・家族会事務局長が困惑 《斎木さん(アジア大洋州局
   長)がいつもと違う》
   (週刊文春 最新号 広告の見出し)

とありました。もしこうだとしたら この《変節》ということに注意が向かったのです。
 どういうことかと言いますと 仮りに方針を変えるとするなら 《方針転換である。理由は これこれの事情である》と説明すること(もっと言えば 関係者や国民にその提案を あらかじめ おこなって 共に諮るということ) ここが 抜けているのではないか。あるいは このように 週刊誌や新聞に いわゆるアドバルーンを挙げて 簡単に世論の操縦を図ろうとするやり方。
 ということは 国民は 変節ぶりに腹を立てたり やがて時が経てばおさめたりして もしそれだけであるのなら 何も考えない。そのような情況に生きていて 《お言葉を返したら 和を乱す》とだけ思い込まされている。この閉塞感を だれも おかしいとも思わないし いやだと言わない。・・・
 ここで 宮崎勤につながります。宮崎とは別の人間ですが 同じ新聞の広告欄に並んでいた見出しには こうありました。

 ・ネットで《神》と崇められる 《アキバ通り魔》
  ・・・《加藤ありがとう。勇気を与えてくれて感謝してる》
  ・・・《加藤は俺たちの十字架を背負って死刑台に上がる!》  
   ――今 通り魔《礼賛》の書き込みは増える一方――
  (週刊新潮 広告見出し)

 つまり つながるかどうか 断定できませんが ひとつには 結局やはり《禁欲力》と鍛えること・その境地を 互いに 切り開くこと これが 求められているのではないかと ご回答を読みつつ 思った次第です。
 
 * 簡単にいえば 《ものごとについて考える》という単純なおこないの実行だと思うのですが。互いに その考えを練りあっていかねばならないでしょうね。(このQ&Aの宣伝のようになってしまいました)。
投稿日時:2008/06/19 06:53
  • 回答No.46

ベストアンサー率 23% (256/1092)

>《無私》には あまり いい印象をわたしは持っていないんです。

なじみの私を捨てなければならぬ、と思うからでしょう。
そして捨てなければならぬ、と思っているのもまぎれもない私だったりします。
努力、努めると繰り返していますが、努力したり努めたりしている間はやっぱり私というのはそこにあるのではないでしょうかね。

>どうでしょうか。おそらく 焦点は こうだろうと思われます。つまり 被害を受けたとき その加害行為について 加害者を責める・咎める・そして犯さないようにしたまえと言うことが 《赦す・赦さない》を考える筋から出たものでしかないのか。腹は立てているのですが 微妙ですね。

無私の観点に寄り添えば、何が被害で何が加害かもわからなくなるでしょう。そんなことを言ううちは私というものがあるわけですから。
私というものがあるとすぐ被害だの加害だのと考えがちですが、人間万事塞翁が馬、被害だと思ったものがよいものをもたらすこともありうるということを考える時に、すぐさまそれを被害加害と断じるのはいかがなものかとなるわけです。
一見失敗だと思ったものが怪我の功名を発揮することだってあります。
そうすると、被害・加害という考えもとっぱらうしかなくなるでしょう。

私がなければ被害も加害もないとなってしまうと、罪もなければ赦すも赦さないもない。赦すも赦さないもない、というときに、ひょこっと頭を出している「赦し」があることに気づくことになります。
つまり、赦すも赦さないもないということは言い替えればどうでもいいということであり、それ自体が赦しの性格を帯びていることになるのです。

実践形式と言われても、実践というもの自体が「私」のもとにあるものなわけでして。
強いて言うなら、赦そうが赦すまいがそんな大差はないということを自覚するというくらいでしょうかね。
(自覚というのも私がなきゃ存在しないわけで、そのへんのところが隔靴掻痒なわけですが)
実践を伴おうが伴うまいが、といったことになると思います。
補足コメント
noname#80116
 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。

 ふむふむと読んでいきますと 二点に 注目・留意します。
 1.いくら理論と言っても《無私》には 飛躍のし過ぎはないか。
 2.けれども《無私》は おおむね(最も広く解して) 《自然法》のことであったり 《仏性》のことであったりするようだ。
 3.《赦す・赦さない》という始点に立っていると見える要素があるが それは 最終的に《いわば自然史的に 自分の努力や意識としては覚えもないほどに 〈赦し〉を 自身に得ているし 自身が人に対してもおこなっていると気づく》というのですから もう問題ないでしょう。

 (1)(2)合わせて 次のように考えます。

 まづ 《自然本性 / 自然法》としては 次の二つの理論に限りなく近づきます。そのあたかも彼岸から ここに戻ってくるという問題が発生しているようなのだと思いますが そう考えるのは まちがいですか?
 ● yy8yy8azさんの掲げる《煩悩即菩提》の理論(No.46など)
 ● keepfaithさんの掲げる《赦し》の基礎理論〔――たとえば 《おっしゃるように「人が人(自他共に)の罪、あるいは過ちを、赦すことは、不可能」です。わたしたちは皆不完全で、能力も権限もないですから》と捉えての超越者の理論――〕(No.18)
 つまり 《無私》の理論です。
 
 そのとき《飛躍しすぎ》がありはしないかというのは こうです。加害を受けたとき――つまりは 被害か加害か分からなくても 身体にしろ精神(名誉など)にしろ その存続を傷つけるような性質の力を被ったと〔感じた〕とき―― その場で 《人間万事塞翁が馬》という達観によって 何もなかったと受け取ることは わたしたちの欲する現実だとなるでしょうか?
 そこまで 《無私》が 貫徹されることは 果たして 人間の現実なのでしょうか。

 ★★ 更生という考え方自体が既に「悪あり、善たるべし」という「赦さない」から始まっている。
 ☆ というとき まづ 《悪あり 善たるべし》というのは なるほど わたしにこだわった当為論ですね。微妙なのですが 《善あり。つねにこの善に還るべし》とすれば その性格は変わります。つまり 《〔生まれてきたというその存在じたいとしての〕善あり。〔その損傷としての悪から発する行為に対しては つねに 初めの〕善に還るべし》ということですが これは たとえ当為論であっても 相対的な経験行為としての生活の営みおよび態度の問題として まったくふつうの事態であるのではないでしょうか? つまり 《無私――むしろ その動態としての現在かつ過程――》の理論です。
 しかも そのように言うときには 特別な意識として 《赦す・赦さない》の問題は かかわっていないと思うのです。いや 無意識では かかわっているのではないかと言っても おそらく そのように対処していくなら 互いに すでにもう 永遠に 無意識のうちに収められてあることになるでしょう。

 《初めの善に還るべし》というのは 《善に還らないと承知しないぞ》と言っているわけですが そもそも同じく このことは 《はじめ(原理)》の理論としては 《〈無私〉のことを ちょこっと あたまの片隅にでも 想起したまえ》と その心を伝えているだけだと言えるはづですが いかがでしょう?
 だとすれば nabayoshさんの理論〔即実践〕との違いは その加害=被害の現場で 抵抗感にもとづいて 反応をするかしないか / 反応を示してもよいと考えるか これを 達観して 控えるか の差だけとなるでしょう。このようではないでしょうか?
投稿日時:2008/06/18 11:22
お礼コメント
noname#80116
 みなさんへ。

 《フェアユース(公正利用)》という概念および法律のことを知りました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 米国では 《1976年著作権法では、「批評、解説、ニュース報道、教授(教室での利用のための複数のコピー作成行為を含む)、研究、調査等を目的とする」場合のフェアユースを認めている。》→《wiki:フェアユース(公正利用)=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B9 》
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 今朝の新聞に出ていたものです。
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・著作権制限、年度内に結論 政府知財計画・
 政府の知的財産戦略本部(本部長・福田康夫首相)が18日に決定する「知的財産推進計画2008」の概要が明らかになった。教育や研究など公正な理由があれば無許可で著作物を利用できるよう著作権を制限する「フェアユース(公正利用)規定」の導入検討など、著作権法の見直しについて2008年度中に結論を出す方針を明記した。→http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080618AT3S1702617062008.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そこで 提案なのですが あたかもこの精神にのっとって この質疑応答でも 他の回答者の投稿内容について 自由に議論してもよいというものです。もしだめでも 質問者が 触れている事柄であれば そのように間接的に取り上げてもよいという趣旨のことです。
 それによって 探究が促されるのなら 問題はないと思うのです。

 * なお この質問は 人間と社会に関するほとんどすべての主題を扱っているようで 長引くかも知れません。しかも 寄せられているご回答群を見れば 現代思想の最前線にわたしたちはあると思われます。
 どこかで一たん締めきるかも分かりませんが どうぞ奮って つづいて ご投稿ください。
投稿日時:2008/06/18 13:15
  • 回答No.45

ベストアンサー率 17% (89/501)

三回目の投稿、yy8yy8azです。回答ANo.31に対する返答の問いが、メフィストーフェレスの台詞のようでしたので、成り代わって、あのように表現しなおしてみたのです。でも早合点でした。ごめんなさい、訂正します。
「煩悩はいとしい」以下の四行は、神の視点で言っているのですね。そうですと、これは‘煩悩即菩提’を言い表していると思えます。(煩悩イコール菩提と言っているのではありません。念のため)
蓮の花は沼の中で咲くということが、例え話としてよく知られています。あるお坊さんは渋柿も太陽にあてて干すと甘柿になる、という話で煩悩は菩提となりうることを説明しています。
補足コメント
noname#80116
 この欄をお借りして 覚書です。
 宮崎勤の死刑執行をめぐって 断片的ですが それでも 参考資料のきっかけになるかと思いました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・無差別殺人への抑止効果?・

 ・・・宮崎死刑囚の場合、今月8日に東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件のような犯罪の抑止効果を狙った『見せしめ』との見方が出ている。
(日刊スポーツ6月18日http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20080618-373365.html

   *   *   *

 〔とくダネ!〕
 高木美保は、「人間を殺すことで解放感を持つ人がいるんだろうなと、信じたくはないけど、思わざるを得ない。宮崎も反省しないまま死んでいった。こういう人間はもう、死刑にするしかないのか。あるいは死刑の抑止力がないのか。もしかして終身刑にして科学で分析でもしたら、再発防止になるのかと考えたりする」

 デーブ・スペクターはにべもない。「だめな人間がひがみのかたまりになって、それしか正当化できない。分析してやる必要あるかどうか。遺族にしてみれば、3食付きの宮崎の19年は長すぎる」

 小倉智昭は、「そういうことを放送するだけで、第2、第3の事件を生むんじゃないかともいわれる」

といったが、宮崎のまいたタネはいまも増殖している。社会がそれを育てているのは確かだ。
http://www.j-cast.com/tv/2008/06/18021979.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
投稿日時:2008/06/18 13:32
お礼コメント
noname#80116
 yy8yy8azさん ご回答をありがとうございます。
 ここでは 疑問はとことん追究してまいりますので 自由に ご回答をお寄せください。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 釈尊は、自分の体験した覚りの世界は、衆生には到底分かっては貰えないだろうと、一旦は思ったのですが、人々もなんら私と変わるものではないのだから、仏性を育ててほしいと思ったのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いま この内容をめぐって 実践応用編という課題に入っています。
 自然法という概念があります。この思想では まさしく《仏性》があると見ます。そんなものは 人によりけりだという反対説もあります。
 また ご存じのように 聖道門と浄土門がありえます。甘柿に成るのは 飽くまで人間の能力とそれにもとづく努力によるという場合と 人間の能力だけでは成れないという大前提があって 人間の持つ能力の限りで努力はするという場合(つまり 実際には 信仰の立ち場)とです。
 一つ二つあるいは三つ前のご回答のあたりから こういう問題に入っています。
 そしてまた 《煩悩即菩提》という理論を 自己も人びとも実践するとして そのとき 被害を受けてしまったなら その加害者をどう 取り扱うか これが主題です。
 同じ実践を 加害者も おこないたまえと とうぜん 言っていく。その効力を現実のものとするための社会的な仕組み これを どう構築するかという課題にも 入っています。
 どうぞ ふるって ご参加ください。
投稿日時:2008/06/18 01:24
  • 回答No.44

ベストアンサー率 23% (256/1092)

撤回と言うか、ちと補足しといた方がいいかな、と思い。

ナメられるナメられないは、更生を求めるなどの赦さないを根底にした人からは問題になりますが、根っからの赦しに基づく立場からは、いくらナメられようと問題にはなりません。

小人は権利だの資格だの更生だのという。大人は・・・
お礼コメント
noname#80116
 直前のご回答から つづいてです。

 ここでは 特にお応えしなくても よいようですね。

 前回の問題ですが ううーん まだまだ もやもやとしていますね。明らかな様相を見せてきてはいません。どうですか。

 自然法 その肯定派と反対派 そして 自力の道か他力の道か それぞれ ふたつに 自由に 分かれるのでしょうか。
 とりあえず 考えを休めます。
投稿日時:2008/06/18 01:03
  • 回答No.43

ベストアンサー率 23% (256/1092)

まだ続いている、というより、どんどん新たな展開になっていくありさまを眺めると、そろそろまたちょっかいというかおせっかいなことを言ってみたくもなるものです。
また一言ですよ。

>《更生せい!せんと承知せんぞ!》

こんなポーズを取ったら相手にナメられますよ。
「けっ、怖くねえよ」って感じです。
「別にお前に承知されようがされまいが構わねえよ」とかね。

更生への期待というのが含まれるうちは「赦し」なんかじゃないですよ。
更生という考え方自体が既に「悪あり、善たるべし」という「赦さない」から始まっているものではないですかね。
つまり、「赦し」ってのは更生するかしないかなんてどうでもいい、ということからはじめないと不純なんですよ。

私刑やら私赦の話をヒントとして出しましたが、「私」という立場から外れないと「赦し」なんてものに到達するかは怪しいもんですよ。
そうするとやっぱり「赦し」は「無私」から生じると考えるわけなんですがね。
ほら、「権利」とか「資格」ってのも私的なものじゃないですか。
補足コメント
noname#80116
 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 更生への期待というのが含まれるうちは「赦し」なんかじゃないですよ。
 更生という考え方自体が既に「悪あり、善たるべし」という「赦さない」から始まっているものではないですかね。
 つまり、「赦し」ってのは更生するかしないかなんてどうでもいい、ということからはじめないと不純なんですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを聞いて そうとうやばいと思ったら 少しは 次につづくご回答において 和らげられた恰好です。
 でもこの引用箇所は 動かないですよね。

 たぶん 一言でいえば この《更生せい。せんとうんぬん》の標語の表わすところは 感覚的な反応のことだと思います。押されたなら そこに 無理なく 抵抗感が現われます。そういうたぐいの心理現象をも加味して 出てきた表現ですね。
 では――つまり もしそうだとしても 元に戻って―― 《「赦し」ってのは更生するかしないかなんてどうでもいい、ということからはじめ》た理論に立てば どういう反応になるのか。
 どうでしょうか。おそらく 焦点は こうだろうと思われます。つまり 被害を受けたとき その加害行為について 加害者を責める・咎める・そして犯さないようにしたまえと言うことが 《赦す・赦さない》を考える筋から出たものでしかないのか。腹は立てているのですが 微妙ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私刑やら私赦の話をヒントとして出しましたが、「私」という立場から外れないと「赦し」なんてものに到達するかは怪しいもんですよ。
 そうするとやっぱり「赦し」は「無私」から生じると考えるわけなんですがね。
 ほら、「権利」とか「資格」ってのも私的なものじゃないですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ《権利とか資格》は 《社会的に決めあった公的なものを 私的にふりかざす》という意味で 《私的なもの》ですね。
 そして 《無私》には あまり いい印象をわたしは持っていないんです。表現の問題にすぎないとも思われるので 印象と言いましたが どうでしょう。あなたの得意な論理を用いるなら 《無私》であろうと努めることは 《公的な態度や姿》を描いてのことでしょうが その努力と意志において 《無私を拒む私》という場合と同じく 総じて 私的なものだと見られるかも知れません。
 努力してやっと成れる/ また 努力してのみ 成れるというのなら 私的であっても その道を踏まなければならないでしょうが。
 これは 《自然法》の問題ですね。自然本性に すでに 《無私》につながる境地があるかどうか。そして いづれにしても 自力によるか他力にゆだねるか この問題にもなるのではないでしょうか。

 かくなる上は 
 ★ 「私」という立場から外れないと「赦し」なんてものに到達するかは怪しいもんですよ。
 ☆ というときの実践形式を 明らかにしてもらわなければならないと思われます。つまり 理論が その理論のままでは 実践の形態を思い描かせにくいというなら そのときは ちょっと待てよということになります。則天去私は 努力過程のことですからね。

 次のご回答にて あらためて まとめます。
投稿日時:2008/06/18 00:57
  • 回答No.42

ベストアンサー率 30% (35/113)

ANo30のarayata333です。

私には遠慮なさらずに、とのお言葉に甘えて この際そちらを悪者にしたてて、重箱の隅をつつきます(笑)。

代3部にも入ったとのこと、 しかし2部も3部も1部がしっかりすれば、おのずと決まってくる点も大きいとの見解を自ら崩されているわけではないので、 一部にあたるだろう蒸し返しとなるかもしれませんが、 かならずしも全体の論議の進行も妨げるものではないだろうと そのへんもあまり心配せずに書いてみます。

私の一番の関心は第3部です。 実践編です。

だから、トラウマにならないように忘れる事の必要性というのは、その失敗をむしろできるだけ早く深く分析して次にはどうしたらいいかを考えたら過去のことは忘れるという手法のことです。 ほんとは3部に関わる方法論の肝心な部分を言ってます。

更生方法に重要な一部ですね。

ここに、ものすごく関心があります。 長所とか価値感とかに気がつかせてあげる(友としてです。)ことがその前提としてあります。

これ文学的倫理的な愛とか、相手への想像力とかからではないです。

言葉による文学も、声をだす演劇さへも自然な相手への偽善のない愛とか真心からの愛とか あるいは愛という言葉がすでに汚れてるなら「ふつうのそういう優しさ」を理論的(第一部)には掴んでいません。

近代演劇のそのへんの本質は、仮定(もし)の想像力による演劇の世界の探索にあると言われています。  もし私が(私自身が)その状況をその場にて生きていたらという「もし(仮定)」の想像力によって、 演技の世界を追及してゆく世界です。

しかしこの方法では 善と悪の因果の心の部分は理論的にはいくら追求してもいつまでたっても大きな壁があるようなものです。

表現の世界で言えば 歌や絵や、音楽の世界、そして目や声の世界の何かの客観的な評価法が確立されないと、理論としてそれを掴むのはたしかに困難です。

つまり“その実現は困難なところでもある”というのが私にも結論としてないわけではないのです。  ただし、私の場合は、そういう心の世界、心から人が人のあやまちを赦すことができる心の世界はありえるという理論も あるという希望も持ってます。

bragelon様は、ほんとうに文学的倫理的世界に限界の壁を感じていますか?

神という概念を、この論議に必要としないのはなぜですか?

神の概念を持ち出すとこの問題は複雑になると思っているかもしれませんが その定義が過去においては複雑だったかもしてなくても、本気で考えたら複雑なんかじゃなくて心や頭を整理するのに役立つということには気がついていないからなのじゃないですか?

すこし、このへん書きますね。

神というとたしかに神話とかの想像力の中の神様が連想されてそのことまで話し出すと話はほんとうに複雑になってしまいますけど、  

bragelon様なら 次ぎの事解りますでしょうか?

神様が存在するならば 神様だけが悪魔なんだということをです。

他に悪魔も悪人も 悪は存在しないということをです。

わたしの場合 それは考えたわけじゃないです。(もし、私の言ってる意味がわからない場合にはとうとう気が狂ったと思われかねないことを書いてますが(笑)、遠慮無くといわれましたので(笑))

考えたのじゃなく ある時本気で酒の勢いで泣き叫んでました。 血をはいてのた打ち回って神様をののしってました。 「おまえこそ悪魔だ。 いや唯一、おまえこそだ。 うわあああああ。」こんな感じです。
絶叫です。 シャウトです(笑)。 シャウトそのものでした。

気がついたら気持ちよくなってましたけどね(しんだわけじゃないです。)

でも絶望をくぐってみれば、 あるのは希望への道だけでしたね。

神様って この世にいないのと同じです。 これ解って、このことほんとに解って、解った上で、 私の場合は実際にも存在して 実は悪魔でもない神とは何なのかを考えています。

また 感謝はすべきとも感じてます。  今ではひざまずきひれふすような心でです。      

あのシャウトがあった後、 長い間私は 神とは恐怖の対象でした。 忘れること生きてる限りできるだけ忘れることそういう存在となっていまいした。   でも おそらくようやくそこから自律できたのでしょう。

ようやく、怖くはなくなりました。 こんなに長くかかったのは、私の脳がバカだったからでしょう。  でも、bragelon様はどうなのですか?

神のことを語らないということは、わたしにとって音楽や絵や歌の本質を語らないということになります。 目や声については語らないということを意味します。 

たしかに 神という言葉を使わなくてもそれらのことやその本当の評価基準を語らうことはできます。

でも、それを使うと文学的表現の限界や演劇や人間の想像力や倫理道徳の限界もよりはっきりわかりやすくなることを考えれば、 なにも神という言葉を使わない手は無いと思います。 ここでは真実だけを書きましたから解らない人には全く解らないだろう表現となっているかと思いますが、
ほんとに解りやすいさまざまなその言葉の使い方はあると思います。(真実をけして曲げたりはしないそれがです。)   ほんとはそのへん自由であるわけですが(笑)、 bragelon様を悪者にして 信頼を前提に、つつかせていただきました(笑)。

言いたいことは 四川省の子供達にも音楽を という標語です。

生涯 恐怖の夢でうなされるかもしれない、その子供達にもトロイメライがどんなに美しい音楽か聞いて欲しいということです。 まだその耳が新鮮な間に聞いて欲しいということです。 そしてまだその目が新鮮なうちに すぐそばに咲いてる合歓(ねむ)の花を忘れないように心にきざめるようにしてあげたいという闘いの同志を求めるだけだということですね。(悪魔なる同志をここに求めて←かなり文学的かな。)

以上です。
補足コメント
noname#80116
 arayata333さん こんばんは。じっくり読ませますねぇ。ご回答をありがとうございます。

 (1)わたしの人生におけるわたしと神との関係・その生きた歴史
 (2)トラウマを忘れるというのは トラウマから逃げるのではなく そうではなく それとの格闘のあとのいわば自然史としてだ。 
 (3)《野の花を見よ》 そのいわば ことだまとしての交感( correspondance )を聞け。

 これらを総合して 《理論 即 実践》を主張なさったと受け留めました。
 これにお応えするには 大論文を書かなければなりません。通りすがりの応答では 持ちません。(この質問じたいが そういう性質を はじめから持っていたようで みなさんともども 決して 通りすがりでここまでやってきたのではありません)。
 (2)と(3)は あえて 割愛しましょう。感覚的にも分かる部分があるでしょうし どんな議論にも基礎となっているでしょうし これからも そのどの議論にかかわってでも 触れることができるでしょうから。
 あえて(1)に挑んでみます。これも むろん どの議論にもかかわっていますが それとしてまとめて述べておかないと 議論はいつも断片的になってしまうと思われるからです。

 ★ 神様が存在するならば 神様だけが悪魔なんだ / 他に悪魔も悪人も 悪は存在しない
 ★ 神様って この世にいないのと同じです。
 ☆ 曽野綾子が――かのじょの思想をわたしは必ずしも支持していないのですが・そして次の発言については 中立の態度でいますが―― 《クリスチャンは そして 神に召されたクリスチャンだけが 極悪人になれる》というような趣旨の発言をしています。
 arayata333さんの命題ともども どちらも 微妙ですが その種の文章(判断)については わたしは 次のような解釈の中に位置づけています。
 この世は 閉じているのではない / 《開け》がある / その窓をとおして いろんな表現が 神にかんしても 与えられる。人は そのことばの世界 あるいは 心の世界を 持ちうるのだ。 
 そこでは しかも 言葉を超えて 感性として体験として すべてが真実であり この世にあるのは その主観真実に過ぎない世界だけであると思える。その現在が 永遠の現在として 推移する。・・・

 そうとう長い議論になると思っていたのですが 案外 ここで 一たん休みました。これはこれで ひとまとまりであると考えるようになりました。とりあえず すでにここで ボールをお返しするのも いいかと考えました。どうでしょう?
 要するに 《風は 気ままに吹く / わたし(神)は〔双子の弟の〕ヤコブを愛し 〔兄の〕エサウを憎んだ / わたし(神)は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ》という現実です。窓をとおして流れてくる声あるいは風の音ですが それでも これらの文句も やはり 《なぞ》を含むと思われます。《なぞ》でありつづけるとも思います。・・・
 で そこでの問題です。その時点で問題つまり前向きの課題が 現われます。わたしには現われたのでした。
 飽くまで 《なぞ》は あります。このなぞを敷き詰めた大地に立って その上で 経験領域のことばだけで 社会のことがらは 語っていこうという趣旨です。窓は つねに 開いています。《神》という言葉を できるだけ使わないだけです。語る内容は けっきょく同じです。

 このようなお応えになりました。受け取っていただくなら幸いです。
 次のご回答では 《更生》という言葉からして 抹香くさいというご批判をもらっています。うんぬん。
投稿日時:2008/06/18 00:18
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