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哲学の現在について

哲学の現在について。 ヒュームに代表される、「現象主義」って、認識論の到達点、真理?をめぐる哲学の最終的な結論だとぼくは思うのですがどうでしょうか? それ以降の哲学は、なんだか あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません。 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界を無視して、語り得ない、答えの出ないものについてあーだこーだと終わりのない堂々巡りの議論を続けているだけのような気がします…。 つまり、現象主義的な結論によって認識論は既に一つの決着を迎えていて、哲学の一つの大きな流れはもう終わっちゃってるのかなーと思うのです。そんで、あとは解釈や可能性を細々と提出するだけ、みたいな。 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。 以上、哲学初心者のぼくが哲学(というか、認識論?)の現在についてなんとなく思うことなんですが、哲学に造詣の深い皆さんはどう思われますか? 勉強不足で、かなりトンチンカンなことを言ってるかもしれませんが、その辺は大目に見て貰って、バカでも分かるよう優しめにご教授頂ければ幸いです。 長文失礼しました。 タグ:不可知論 懐疑主義 懐疑論 カント 独我論 心の哲学

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回答No.1

ウィトゲンシュタインは「哲学探究」で、哲学とは人のはまり込んだタコ壺からの出口を指し示してやることだ、といい、哲学は言語の用法をただせば、大半の問題は消える、と言っています。 ヒュームに限らず、これまでの哲学はすべて言葉の用法の間違いから由来しており、その間違いを正せば、哲学そのものがなくなるというものです。 ロックやヒュームは外界の「印象」とか「写し」を観念と言い、物事はその観念を組み立てた複合観念だと言いました。 また、バークリは「人間知識の原理」で、物とは観念の集合で、その向こうには何もない、と言いました。 つまり、私たちは富士山を見ているのではなく、富士山の形とか色とか、その種の感覚データ(センス・データ)を見ているのだということ。 富士山という物そのものを見ているわけではない、と。 (そうですかね? 私は感覚データを見ているのではなく、物そのものを見ているつもりですが・・・・) カントも「純粋理性批判」で、コペルニクス的転回を説明して、これまで私たちは対象に従いそれを認識してきたが、今後は私が対象に「投げ入れた」もののみを認識するのだ、と言いました。 つまり、認識のためには対象を、経験を必要としない、外的世界の存在を必要としない、と言いました。 いい換えると、認識というのは私の内的なものの外化・対象化でしかない、ということです。 いわば堂々めぐり、循環。 あなたがそれを「あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません」というのも、分かるような気がします。 なぜって、認識のために外的世界の存在を必要としない、内的世界があれば充分と言っているわけですから。 ロック・ヒュームの問題点は自我とか心という認識を統一しているものの存在を、どうしたら現象だけから導き出すか、ということです。 ヒュームは「私の内面を見回しても、感覚の流れしか見当たらない、自我とか心は感覚の束か?」という懐疑に陥りました。 それに対してカントは自我とか心という認識を統一しているものの存在は、先天的・ア・プリオリに存在するのだと、根拠なく言いました。 つまり自我が先天的であることは証明できない、あるだろう、認識が成立している以上、なければならない、と言いました。 つまり「要請」。 認識を合理的に説明するための、「要請」でしかなかった。 カントは経験的な意味の自我は存在すると考えていましたが、超越論的な意味の自我に関しては「可想体」とか「仮象」と考えていました。 つまりそんなものは存在しないかもしれない、ということ。 デカルトも自我とか心の存在に関してはネガティヴにしか語りませんでした。 物ではない、形がない、色がない・・・・・と言って、物体からその諸性質、属性を排除して言って「残余」を自我とか心と言い、自我とか心をポジティヴには語りませんでした。 よくデカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのだから、私が思う以上、私も存在すると言ったと勘違いしている人がいますが、でも私が思ったとしても確かなのは私が思っているという事実だけで、私が存在することも確かだと言ったものではありませんでした。 だからこそデカルトは「省察」で神の存在証明をし、その神によって私の存在を保証してもらおうとしたのです。 これを逆にいうと、神が存在しなかったら、私も存在しないかもしれない、ということです。 ところがどういうわけか、デカルト・カント以降、人間には心があります、自我がありますと学校で教えた結果、今では誰でも人間には自我とか心があるように思われるに至りました。 でも、それは間違いだったと私は思っています。 思考・意志・感情・感覚などの内的体験と言われるものは存在するでしょうが、自我とか心はそれらを総称した概念で、それらを統一するものと思われていますが、それは統一機能として存在するだけで、実体的には存在しないと思っています。 デカルトにしても、カントにしても、自我とか心の存在に関しては懐疑的だったのですから。

fhdhdh44
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皆さん丁寧で分りやすいご解説有難うございました。 大変参考になりました。

fhdhdh44
質問者

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ご回答ありがとうございます。 ぼくは、心や自我などと呼ばれるものは実在せず、実在するのは個々の現象のみだと考えます。また、自由意志なんかも自我と同じく、現れてはいないもの(=非実在)だと「感じて」います。(つまり、受動的?な現象が唯一の実在であると。) 認識論の最終的な帰結としての現象主義(現象を唯一の実在とし、それ以外は不可知とするタイプの)って正しいんですかね? もちろん、理性的には判断はできないと思いますが、もっと別の、現象とか感覚のレベルでどうやらそのようであると感じています。 うまく説明できなくてごめんなさい。

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回答No.6

量子論の不確定性原理における「相補的不確定性」 の『相補性』を成す、時間軸と空間軸は、時間軸 =記憶=自我仮説として、空間軸=予測=空間仮説 として、時空的環境認識に止揚される。 今や認識論の主戦場は、理論物理に移っている。 そういう意味では、確かに哲学は終わっている。

fhdhdh44
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回答No.5

哲学の歴史は、多くの部分が観測できない部分を認識することで発展してきたと思います。 ところが、現代の科学は観察能力が飛躍的に発展し、赤方偏移から宇宙の年齢を測定し、ヒトゲノムプロジェクトではDNAの螺旋を観測できるようになり、大脳生理学では人間の思考でさえ観測できるまでになりました。 で、「観測できないものを認識する」議論、つなわち哲学の領域は益々狭まってきたのです。 知を愛する人=philosopherは、現代においては宇宙物理学や分子生物学や大脳生理学などの研究成果を学ぶことで、その欲求のかなりの部分が満たされます。 人類の観察能力が低かった時代に生きた哲学者たちの言説を辿る哲学史では、現代における知の欲求を満たすことが難しくなってきたのではないでしょうか。 科学の発達を待てない、または科学の発達を認めない人々によって哲学学はかすかに生き残るだけではないでしょうか。

fhdhdh44
質問者

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回答No.4

 1. たとえば 鳥が空を飛んでいる。この光景の知覚をとおして 人間が・あるいは人間を乗せる機械が空を飛ぶことをあたまの中に描く。  2. このことは――つまり のちには空を飛ぶ機械を人間はつくったわけですが――   ★ 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界  ☆ の中にあるのか。それとも その限界を乗り超えたのか。どうでしょう?  3. 《空を飛ぶ》という要素にかんしては 飛行機の場合にも《知覚像》が同じですね。だから 《限界》内。  ただし 飛ぶものが 鳥と《人間を乗せた物体》とでは 知覚像が明らかに違っています。  4. つまり 飛行機が空を飛ぶ映像は それまでいかなる人の感覚によっても知覚されていないし 出来ていなかった。だとすると 《理性ないし思考や想像のチカラ》が 介在していることは確かです。  5. この理性のあたかもマボロシを生むハタラキは 一方では だと言ってもじつは 鳥の飛ぶ姿についての知覚像から派生したものに過ぎないというのが 現象主義ですよね。  6. 鳥を人間ないし物体に置き代える幻想は では いまの現象主義的世界観を超えたのか。いや やはりそこにとどまっているのか。どうでしょう?  7. 少なくとも そこに起きている心的現象は 初めの感覚像の《トートロジー》ではないでしょうね。  8. 感性の上に――知覚作用なる感性を基礎として―― 心すなわち思考・想像ないし判断としての精神が それとしてのハタラキをおこなっている。とは捉えられます。  9. 世界の中で この人間の心なるハタラキをも 認識し得ましょうね。  10. 一般に知覚にもとづきそれらを概念化した認識は 元の知覚像を離れてしまうと 経験事象からどこかへ飛んで行ってしまったような観念を生み いわゆる観念論をも形成させます。  11. この概念と観念との違いをわきまえていれば 観念論もだいじょうぶなのではないでしょうか。  12. これらの認識論は 人間のこころの真実ですが いかんせんむろん主観の問題におさまります。いわゆる客観的な事実認識に近くあることは出来るかも知れませんが 絶対真理には言うまでもなく遠い。(遠いと言うよりも 絶対的な隔たりがあると見られます)。  13. それでも中で 誰もが互いに同じ主観内容だとみとめる認識もあるようです。飛行機の揚力の理論は 誰もが認めなければならないのでしょうね。それらは 科学的認識となり また必ずしも根拠が明らかでない場合にも 常識とよばれる共同主観になったりもします。  14. ★ 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。  ☆ でも 現象主義は その一派として 《真理》なるものの存在を認めないのではないでしょうか? 世界にあるのは 感覚をとおした知覚像およびそれの概念化としての認識に過ぎないと。  15.  ▲ (コトバンク:現象主義) ~~~~~~~~~~~~~~  https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E4%B8%BB%E7%BE%A9-60681  § 世界大百科事典 第2版の解説  げんしょうしゅぎ【現象主義 phenomenalism】  われわれの認識の対象は知覚的現れ,すなわち〈現象〉の範囲に限られるとする哲学的立場。  ヒュームにおいて一つの明確な哲学的主張となって現れ,現代の経験主義に受け継がれている。  実在論が意識から超越した実在を認めるのに対し,現象主義は意識内在主義の立場を取り,世界および自我を〈知覚現象の束〉として説明する。  現象には外的知覚による物的現象と内観による心的現象とが含まれる。  現象主義は現象の背後に意識から独立の超越的実在をいっさい認めない立場と,このような実在(例えば〈物自体〉)を認めはするがそれは不可知であるとする立場とに分かれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《内観による心的現象》をみとめる必要があるようですね。  《物自体》は けっきょくヘーゲルの《世界精神》と同じように 《絶対なる真理》のことであり端的に《神》のことです。つまり 現象主義にあっても 神を立てる場合もあると思われます。

fhdhdh44
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  • hekiyu
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回答No.3

西洋哲学はキリスト教と結びついて、 存在論が中心議題になります。 我々は、世界はどうして存在するのか、 存在する意味は何か、神はどうして我々や 世界を作ったのか、つまりなぜ存在させたのか ということです。 その後、哲学は神を離れ、人間が主体の哲学に なっていきます。 その現れが認識論です。 そして、現代は、哲学することそのものに対する 懐疑、考察が中心になっています。 ”あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません。 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界を無視して、語り得ない、 答えの出ないものについてあーだこーだと終わりのない 堂々巡りの議論を続けているだけのような気がします…。”      ↑ 言語哲学のことでしょうか。 これは、哲学することそのものに対する 懐疑、考察の典型ですね。 ”つまり、現象主義的な結論によって認識論は既に一つの決着を迎えていて、 哲学の一つの大きな流れはもう終わっちゃってるのかなーと思うのです。 そんで、あとは解釈や可能性を細々と提出するだけ、みたいな。 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」 にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。”     ↑ 哲学することそのものに対する懐疑となると、 これはもう科学の分野に重なります。 観察の理論負荷性、なんてのもそうです。 これは物理学では昔から指摘されてきたことです。 真理到達なら科学の方がはるかに優れています。 だからこそ、哲学の影が薄くなってしまったのです。

fhdhdh44
質問者

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回答No.2

こんばんは。あまり哲学にはくわしくないですが、自分の思ったことを書いてみます。 哲学というと、すぐ欧米の思想を思い浮かべがちですが、僕は日本人には日本人なりの哲学があってしかるべきなのでは、と思います。哲学というのは、もともと、みんなが疑問に思っているが、どうしても解けないような社会的、かつ心理的、集団的問題に対し、できる限り論理的に接近していこう、という試みなのではないでしょうか?欧米の人たちは、彼らなりに悩み抜いて、一つの結論のようなものに到達したのだと思います。彼らがそれで納得しているのであれば、それで十分なのだと思います。 しかし、我々にとって、それは、日々の様々な問題に明確に向き合えるための、助けになっているのでしょうか?哲学が様々な社会的問題を解決するとは、さすがに思いませんが、少なくともそれは、様々な問題に悩む人たちへの、問題を自分の力で解決していくための「ヒント」になっていなければならないのではないでしょうか?そうでなければ、ただ遠い国の思想を受け売りし、それを繰り返しているだけの、テープレコーダーのような存在になってしまうと思います。 哲学というのは、もともと「今ある問題」に取り組むべきものなのではないでしょうか。過去を知ることは悪いことだとは思いませんが、そのほとんどは、すでに過ぎ去った問題です。我々は、もっと近いところから始めるべきだと思います。大きな問題、怒濤のように荒れ狂う変化に対応していくためには、まず、もっとも身近な所から見つめていかなければならないのです。

fhdhdh44
質問者

お礼

ごめんなさい。質問者様じゃなくて回答者様でした・・・ 大変失礼しました。

fhdhdh44
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 質問者様がおっしゃっているのはもしかすると「哲学」というより「思想」の領分なのかもしれません

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