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パウロ様を淫乱者のように言うのは許せません

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.10

 No.3&8です。  それくらい 惚れ込む時期があっても いいのではないですか。  われわれは 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならないと言います。  性に溺れたアウグスティヌスは それでも 《閨の信実をつくした》と 自己申告ですが 語っています。裏切らなかったという意味です。  では 相手を裏切ったことがあると もうその人は更生できないかというと そうではないでしょう。過去が 人生全体を左右すると言うのは よほど悪いことをしたか もしくは そのように言う人のほうが よほど心根の悪い人だということでしょう。  そういう問題がありますので 要は 何ごとも 話し合いが 一番に来ます。応じないという人は また 放っておくしかありません。  女を男より劣った性質として見ているのは 人間として絶対的な男女平等のもとに 属性のごときものとして 女は 時間的なものごとについて 特に(つまり男より)よく管理する理性をすぐれて持っているという意味に解します。  わるい事例としては 上のように 裏切ったことに対して その時間・その現在としての時間に密着して 事に当たり考えをめぐらすという場合も入るでしょう。一生を見て判断するという別の見方も 大事でしょう。  権力には従えと言うとき たしかに従順をおしえていますが これによって その権力が腐敗したときには むしろさらに従順であるがゆえに 改革をおこなっていくことが出来るという一面もあります。    ヤコブを殺そうとしたという事件は 残念ながら 知りません。出典を明らかにして おしえてください。  祈りとは 預言を解釈することですよ。哲学に耐える言論を心がけましょう。

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    当方は、霊の映り込んだビデオや動画に関して ほとんどは作り物であるが、すべてが作り物というわけではない という見解でおります。 「作り物でない」という意味には、何かの見間違いや、現時点では何か特定できないもの、 または本物の霊であるものを含みます。 しかし、たいていのそういった映像は カメラが移動した瞬間の一瞬の端のほうや 手前にいる人物が動いた瞬間にその影にチラっと見えたり そのようなものが多いように思います。 これらが作り物であるとするならば そのような作り方のほうが都合がよいのはわかりますし、 見間違いであればチラっとしか映らないから、というのは納得しますよね。 では、そうではない(本物であるという意味で)場合に どうして霊(?)はそのような映り方をするのでしょうか。 ビデオをまわし始めたときからそこにいたり ある瞬間に突然現れたりしてもいいものだと思うのですが・・・。 そういう映像もあるが、私が知らないだけなのでしょうか。 もしくは、ほとんどが作り物であるということなのでしょうか。 冒頭に当方の見解を述べたのは 同じ見解の方からの意見がほしいという意味ではありません。 いろんな見解の人がいるということを理解し、 本物か、偽物か、霊は存在するか、しないか、などの意見を 押し付けるような回答は望まないからです。 いろんな見解の方からのいろんな角度からの意見を聞かせてください。 よろしくお願いいたします。

  • 聖書の使徒10:10~28質問があります。

    全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなんですか? 使徒 10 「10 しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり, 11 天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。 12 そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。 13 そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。 14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。 15 すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。 16 こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。 17 さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。 (略) 28 こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。 パウロが空腹の時に起こった出来事で、神が清めた地のあらゆる生き物を食べるようにと主の幻が三度起こったと書いてありますが、ペテロは食べませんと答えていますがなぜ、ペテロは食べないんですか? 神が清めたものと書いてありますが、全ての食物が清いとされたのは、このイエスが死んだ後の出来事の前のイエスが生きていた時の言葉で、 マルコ 7 「18 それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。 19 それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。 20 さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。 21 内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。」 ここで、すべての食物は腸から下水に流れるが、害になる推論は人から出る、だから食物は清いとイエスが言っています。確かにここでイエスはすべての食物を清いとされたと書いてありますが、 使徒10では、ペテロは汚れているものは食べないと言っています。 そのあとペテロは自分が見た幻は何を意味するのだろうかと内心ひどく思い惑い、幻について思い巡らした後、「神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。」と言っていますが、マルコですべての食物が清いとイエスが言ったことはすべての人は清いという意味なのであればマルコの福音書は間違っているということですか? それともこの事自体が、ペテロから害になる推論が出ている証明になっているんでしょうか? マルコの福音書が間違っているのであれば、旧約聖書で禁止されている食物はペテロの言葉にならって食べないことが正しいことになるのですが、すべての食べ物が清められたのであれば、ペテロから既に害になる推論が出始めている証拠になるんですが、どっちなんでしょうか? しかし、パウロは食物のことで、 コリント第一 8 「13 それで,食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません。わたしの兄弟をつまずかせないためです。」 ここでもまだ、食べる者が滅ぼされるのか、食べない者が滅ぼされるのか正しい教えがはっきりしません。どっちが滅ぼされるんですか? また、ここでパウロは真理を悟ったのだとしたら、 ヨハネ16 「13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」 で、真理の全体に案内されたのはこの時ということですか?しかし次を読むと、 ガラテア2 「14 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」。」 で、ケファ(ヨハネ1:42ペテロはケファ「岩」と呼ばれるでしょうにより)が真理にしたがって歩いていないのをパウロは見たとありますがいつ真理の全体に案内されたんですか? 真理の全体に案内されたのがいつかによって、 ヨハネ16 「32 見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。」 で、使徒が自分の家に散らされてイエスを独りだけにする時がいつまでなのかを解く大事なところだと思うのですが、 もし十二使徒から枝別れしてしているが、キリストの根から吸っている者達だとしたら。正確に伝えられなくても兄弟だとしたら、イエスの新しい掟である、兄弟が互いに愛し合うことが守れなくないですか?誰かが一番正しいんでしょうか?それとも全員間違っているから神のみが高められて聖書が完成されるんでしょうか? ローマ10 「15 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。」 ここで、良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろうと書いてありますが、 使徒はなぜ足を洗ってもらう必要があったんですか?もし、害になる推論が出て来ることが足を洗ってもらう意味だったとすると、足を洗ってもらえさえすれば使徒は全身清いものであるとイエスが言っているのにすべての食物が清いのかすべての人が清いのかにこだわる意味はあるんでしょうか? そう考えると、(神を見るとイエスに見える者、イエスを見ると神に見える者)=神とイエスは同じ者に見える事の何が滅ぼされる要因になるのか、どうしてもエホバの証人のこの部分が理解できません。 (正確な知識で無ければ滅ぼされる、自分達は正確である)つまり自分達以外は滅ぼされるという教えがどうしても納得できません。パウロに沿うなら三位一体でカトリックがつまずくなら私も神とイエスは同じ者であると言うほうが愛が優先されていると思うのですが、本当にどこかの人間の山の一つが高められるんでしょうか? 啓示2 「2 『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。 3 またあなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。 4 とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。 5 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めなければ[そのようにする]。」 で、あなたは使徒であると言いはするがそうでない者を見出すが、あなたは愛を離れたとあります。 イエス以外、人間は誰も神の家に立てなかったことが証明されて神の山(天は玉座、地は足台、神に人間の建てた家に住めというのかという聖句がまだ未解決)のみが高められ栄光を帰す日が来るんでしょうか?人間の中から王を立てることも間違っていて、もう正確なことを知るにはイエスに来てくれという以外にどうしようもないと思うのですが、どこかの人間の山だけは正確に伝えているんでしょうか?足を洗ってもらう以外全身清い者が、害になる推論が出ている者であるがキリストに属している者の場合、この者達に敵意を示しているエホバの証人が滅ぼされることになるんですが、イザヤ48によると、 全地に散らされたイスラエルを島々から再び集めると書かれている部分で、イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちだが、わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだと書いてありますが、まずここでどっちが真実によらず義によらず語り告げていいるかではなく、最たる例としてでも神の名の為に助けられる者がいるということで、この者達は真実を語り告げていないが助けると神が言っているのにどうやって、何を根拠にキリストに永遠の命を求めて信仰を働かせている者を裁けるのかということです。敵対している者同士おのおの自分は当てはまっていないと考えるでしょうが、この聖句に当てはまっているものも神は助けると書いてあるのは間違いないと思います。神が助ける事に決めた者に敵意を示せるだけの理由は何なんでしょうか? まず、全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなのかからですが、いつ使徒達は真理の全体に連れて行かれたのかを教えてください。