パウロとペテロ、異邦人と割礼の者の関係についての質問

このQ&Aのポイント
  • ガラテヤ人への手紙において、パウロがペテロを批判している背景には、異邦人と割礼の者の関係があります。
  • パウロは、律法の行いではなく、キリストを信じる信仰によって義とされると主張しています。
  • パウロとペテロの教えについての議論は、後のキリスト教の教義形成にも影響を与えました。
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ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?

パウロの『ガラテヤ人への手紙』について質問いたします。 ───────── 2:11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 口語訳 『ガラテア人の手紙』 ───────── ケパとは、十二使徒の筆頭とされるペテロのことです。 割礼の者とは、ユダヤ人のキリスト教のヒト。 異邦人とは、無割礼の者、割礼をしていない者のことで、非ユダヤ人のキリスト教のヒト。 ペテロは、以前、ユダヤ人と非ユダヤ人が一緒にご飯を食べることを認めたし、ペテロも非ユダヤ人とご飯を一緒に食べた(《共卓》をした)。 なのに、エルサレムに戻ってからは、「これは律法違反だ、けしからん」と言い出した。 ペテロはおかしい、間違っている、イエスの教えを理解していない!! とパウロは批判しているようです。 なぜならば、 ───────── 2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 ───────── であるから。 そこで、お尋ねします。  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? また、 もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、 ここのところは、どうなるのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的な教義に基づかない、 「わたしは、カクカクしかじか、だと思います」 というご自由な回答も大歓迎いたします。 よろしくお願いします。

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回答No.6

 あらためまして こんにちは。  クリスチャンの方たちからの回答があまり来ないようですね。  幕間つなぎに わが《キリスト史観》をご披露してみます。        *  (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音1:1~5) ~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~    これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。  (たしかに すべては表現の問題であるとさえ言わざるを得ないかたちなのですが その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの見方です)。  (2) イエス・キリストを慕いつづけた歴史。  アブラハム(そのとき アブラム)は 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》            (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。             (イザヤ書 61:1-3)  (3) 慕われ求められたキリスト・イエスの登場。  その後 時はさらに飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たと言うわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは       ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成した。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記33) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  つまりおそらくこの質問の趣旨に関連しては この史観を ペテロら弟子たちもそしてパウロも――聖霊を受けたその非思考の庭にあっては―― まったく同じかたちで受け留めていると思われる。特別の差異はないと見るべきだと思われる。  そのほかに 世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。これだけである。

NemurinekoNya
質問者

お礼

大変、示唆に富む回答、ありがとうございます。 ご回答の中で理解しづらい箇所が一点ありましたので、その点についてうかがいます。 ☆《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 ◇なぜ、こう言えるのかが、よくわかりません。 非思考(非経験)の場において、宗教的に表現するならば、神と対峙することによって、  わたしが何であるか直観、直覚できる、 あるいは、  「わたしがある」ということが直観、直覚できる ということをおっしゃりたいのでしょうか? そして、イエスによって、見えるかたちで、イエスのイザヤ書の朗読を目にし、耳することによって示された?

その他の回答 (9)

回答No.10

 こんにちは。連投になりますが。  ちょっとした確認としてのように。  ◇ (No.7お礼欄) 《清くアカキこころ》は、悪意や《ウソ》を含まない心でしょう。ナイーブで個人的主観に基づくもの。これは、キリスト教的な《義》の心ではないですしね~。  ☆ クリスチアニズムとは違いますが――倫理規範としての《義》とは違いますが あるいはまた神との関係における《義》を言うとしても そこにはおそらく倫理学が介在すると思われますから違うでしょうが―― イエスが 《幼子》の心を言うときには この清く赤き心も 通底するものがあるかも知れない。と言っていいのですかね? どうでしょう。  ◇ 少なくとも、聖書についての見方の相違の溝は、日本人と西洋人は、永遠に埋められないのかもしれない。  ☆ そのあいだに ユダヤが入るかどうか。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▼ (箴言8:22-36) ~~~~~~~~~~~~~  22: 主は、その道の初めにわたしを造られた。    いにしえの御業になお、先立って。  23: 永遠の昔、わたしは祝別されていた。    太初、大地に先立って。  24: わたしは生み出されていた    深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。  25: 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが    わたしは生み出されていた。  26: 大地も野も、地上の最初の塵も    まだ造られていなかった。  27: わたしはそこにいた    主が天をその位置に備え    深淵の面に輪を描いて境界とされたとき  28: 主が上から雲に力をもたせ    深淵の源に勢いを与えられたとき  29: この原始の海に境界を定め    水が岸を越えないようにし    大地の基を定められたとき。  30: 御もとにあって、わたしは巧みな者となり    日々、主を楽しませる者となって    絶えず主の御前で楽を奏し  31: 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し    人の子らと共に楽しむ。  32: さて、子らよ、わたしに聞き従え。    わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。  33: 諭しに聞き従って知恵を得よ。    なおざりにしてはならない。  34: わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい    戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。  35: わたしを見いだす者は命を見いだし    主に喜び迎えていただくことができる。  36: わたしを見失う者は魂をそこなう。    わたしを憎む者は死を愛する者。」    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ことばは肉となった》などなどとは言っていないようですけれど この箴言の《わたし》は 8:33 の《知恵:フクマ―》のことだそうです。  《知恵》と《言葉:ロゴス》との違いが ヘブライイズムとヘレニズムとのあいだにはあるようです。  そうして  ◇ 日本の神話は、《ミュトス》ではあるけれど、《ロゴス》の部分が欠如している。  ☆ うんぬんとつづきます。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆☆ クリスチアニズムとは違いますが――倫理規範としての《義》とは違いますが あるいはまた神との関係における《義》を言うとしても そこにはおそらく倫理学が介在すると思われますから違うでしょうが―― イエスが 《幼子》の心を言うときには この清く赤き心も 通底するものがあるかも知れない。と言っていいのですかね? どうでしょう。 ◇はい。 このことを漠然と予想して、《清き赤き心》という言葉を使いました。 《幼子》の心は、無垢なる心、そのハタラキを比喩的に表現したものでしょうから。

NemurinekoNya
質問者

補足

「ユダヤ人は《しるし》を求めて、ギリシア人は知恵を探し求める」でしたね。 NO9の補足では、「知恵」が抜けてしまいました(ポリポリ)。 うっかりもの、粗忽者なので(ポリポリ)。

回答No.9

 こんにちは。  パウロと律法について かんたんにその姿勢を確認したいと思います。    ▲ (ローマ書 《正しい者は一人もいない〔と要約されるくだり〕》)~~~  3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。    律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。  ▲ (同書 《信仰による義》) ~~~~~~~~~~~~~  3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。    22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。     そこには何の差別もありません。  3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。     決してそうではない。     むしろ、律法を確立するのです。  ▲ (同書 《隣人愛》) ~~~~~~~~~~~~~~~~  13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。    人を愛する者は、律法を全うしているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 ◇だと思います。 セム的思考・・・、具体を重視する。 律法は具体的で、ひたすら、細分化してゆく・・・。 そして、 罪は贖いという具体によって消すことができる。 セム的な思考では、罪や悪は、たぶん具体・・・。 具体的なカタチとしてあらわれる。 ユダヤ的には、たとえば、国を失うというカタチであらわれる・・・。 現代のユダヤ教は、キリスト教の影響を色濃く受けているので、こうしたセム的特徴が薄められているじゃなかろうか・・・。 イスラームの方が、実は、ユダヤ教の本来の姿をとどめているのかもしれない・・・。 実は、ユダヤ教は、もっと泥臭いものだったのかもしれない・・・。 などと、今、ちょっと思っています。 実は~、イスラームには、 《ムアタズィラ》という哲学的神学があったんですよ。 神学よりも哲学を上位に置く思想があった。 ヘレニズム・ギリシア的な思弁で、クルアーンを解釈するものがあった。 こっちが正統神学であった時代があった。 アシュアリーという人が・・・。 ほいで、この流れが現在のイスラームへとつながっています。 ヘレニズム(ギリシア)的色彩が失われて、セム的な本来の姿に戻った・・・。 http://toiletteslipperinblues.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html みたいのが、イスラームの神学にあった。

NemurinekoNya
質問者

補足

補足です。 パウロの言葉でしたっけ、 「ユダヤ人は《しるし》を求め、ギリシア人は探す」 というのは。 コリント書だったかな、出典は? パウロの時代においてすら、 ユダヤ人は、《しるし》、具体的なカタチを示さないと、信じない!! イザヤ書ですら、神には手や足があるように記述する。 イスラームでは、神には手足がある、目もあるし、耳、口もある、とされている。 これは比喩じゃない。 セム民族は、具体的存在でないと信じない。 神さまは、具体的なチカラをもっており、それをカタチとして示さないと、神さまではない。 具体的なチカラを発揮しないような神さまは要らない!! な~んてね。

  • hhituji
  • ベストアンサー率30% (15/49)
回答No.8

NemurinekoNyaさん いつも難しい質問しますね。 クリスチャン側の代表としてまた頑張って答えてみます。 まず背景として、イエスが「律法」というものをどう考えていたかですが、 イエスは割礼や、食事の決まりなど、細かい律法についてはほとんど言及をしていません。 だから残された弟子たちに論争が起きるのですが、イエスがこれをどう考えていた示唆する発言はたくさんあります。 最初に結論だけ言うとこうなります。 イエスは「聖書」の権威を神の言葉として完全に認めていたが、「神の子」である自分だけその聖書の解釈を変えたり新しい律法を授けることができると考えていた。 それではイエスの発言を見ていきましょう。 まず最初に、割礼や食事の作法、異邦人の家に入ることなど、イエスはほとんど無頓着で、そのことについて特に意識してそれを破ったということはしていませんが、説教などでそのことについて言及されることはほとんどありませんでした。つまり、それほど大事なこととは考えていませんでした。 ただしイエスは次のような発言をしています。 「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。」(マタイ16:17) ここでいう「律法」とは聖書のことです。決してこまごまとした決まりごとのことではありません。当時、聖書は「律法と預言」と呼ばれていました。 つまり、イエスは聖書に書いてあることはすべて成就すると宣言したのです。 ただし、同時にこうも言っています。 「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ15:11) こんなことを言ったら、レビ記のほとんどの内容は意味のないことになってしまいます。実際、当時としてはこの発言はユダヤ教の聖職者を怒らせるのに十分な罪でした。 つまり、イエスは、聖書はすべて成就するが、私は神の権威において、その正しい解釈をあなたたちに示すのだと宣言しているのです。実際、律法の中で離縁状を渡せば離婚できるのに、人は離婚してはいけないと人々に行っています。そして、なぜ聖書にそう書いてあるかというと、モーセが当時の人々の反発を恐れてそう書いたのだというのです。 そんなことができるのは当時の考えでは神だけです。 話が長くなりましたが、これで二つの問いに答えられます。 まず、「イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよいということなのでしょうか?」 一言でいえばその通りです。ただし、直接言及されていないところは実質的に未来の人間(教会の長老たち)に解釈をゆだねられました。言葉は悪いですが、こまごまとした儀礼的な律法はイエスにとってその程度のものだったのでしょう。 「パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?」  パウロということです。ただし、ペテロの発言には背景があります。ペテロもパウロも12弟子も最初はこまごまとした律法に従う必要はないということで意見の一致を見ました。これはイエスの真意を正しくくみ取っていると思います。 しかし、そんなことをいうとユダヤ人は大反発して、布教どころではないのです。 なんといっても彼らは「律法」を神の言葉として過去3千年以上守ってきたのです。今更割礼をやめろなどといっても不可能です。実際、彼らは今でも世界各地で割礼を行う人がほとんどです。そういう民族なのです。 ペテロがエルサレムで布教するうえでは、多少の後退はあってもそうせざるを得なかったのでしょう。 さて、残りの疑問はさらに答えるのが難しいです。 「パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?」 どちらが偉いということはありません。どちらもイエスの教えを正しく理解しているし、意見の一致を見ています。ペテロはパウロの書簡集の内容をきちんと把握して認めていました。 「このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。」(ペテロ第二3:15) 彼らも誤りはあります。パウロだって、女性蔑視的な発言や、現在話題になっている同性愛の問題など、もしかしたらイエスが見たら訂正するかもしれない発言もあります。ただ、イエスの教えの核心部分は決して不一致を見たことはないのです。 だから、教義的にはどちらが偉いということは有りません。ただ、ペテロはイエスから直接任命された「教会の礎」です。ペテロは「岩」という意味で、イエスがなずけました。その意味ではペテロに先輩としての格があるかなという気が私はします。 「十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか?」 これが一番答えにくい質問なので、この答であっているのかどうかわかりませんが一応書きます。 12人の弟子はイスラエルの12部族をあらわしています。イエスはまずイスラエルに福音を伝えることを自分の使命だと自覚していました。12弟子はその象徴なのです。12弟子を従えた時、人々はすぐに気が付きました。弟子たちはイスラエルの12部族であり、イエスはそれをまとめる神をあらわしていることを。 旧約聖書では、人類の救いはユダヤ人から来ることになっています。ユダヤ人に福音が宣べられた後、12人の弟子はまさにその役割を果たしたのです。実際にほぼ全員世界中に布教に行っています。インドに行った人もいます。そして、ヨハネ以外の全員が殉教しています。つまり、12弟子は旧約聖書で預言された人類の救いの成就した形なのです。弟子たちもそのことを理解し、全員が命を惜しまず布教を行ったのです。 こんな感じでしょうか?質問の意図をよく理解していないかもしれません。

NemurinekoNya
質問者

お礼

hhitujiさん、こんばんはです。 そして、回答、ありがとうございます。 ☆いつも難しい質問しますね。 ◇いえいえ、前回の質問で寄せられている回答を読みながら、ふと思いついた単なる思いつき程度の疑問です。 考えたり色々と調べるのが面倒そうなので、皆さんのお知恵の上前をピンハネしようと悪だくみしているだけですって(笑い)。 キリスト教の書籍を読んでも、わたしの思いついた疑問の答えは見つかりそうにありませんしね。 ☆「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。」(マタイ16:17) ◇『マタイによる福音書』は、律法主義的な色彩が濃いですよね。 堅苦しいので、わたし、好きじゃありません。 読むのは、《マルコ》と《ルカ》です。 ですから、わたしのイエス像は、《マルコ》と《ルカ》によっています(ポリポリ)。 中でも《マルコ》による部分が強いです。 ☆まず、「イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよいということなのでしょうか?」 一言でいえばその通りです。 ◇キリスト教的には、そうなるのでしょうね。 ユダヤ教的な日常の細部までいたる細々としたオキテのほとんどは、ナラワシ、慣習的なもので捨ててもいい。イエスの示した新たな律法に合致しない部分は、むしろ捨て去るべきなのでしょう。と同時に、イエスの律法に背かないものならば、時代時代の要請にしたがって、ナラワシ、慣習の部分は変わってもよい。それは否定されない。 などと生意気なことを思ったりしています。 ☆どちらが偉いということはありません。どちらもイエスの教えを正しく理解しているし、意見の一致を見ています。ペテロはパウロの書簡集の内容をきちんと把握して認めていました。 ◇なるほど、なるほど。 ペテロとパウロは、本質的な部分、核心的な部分では相違していなかったけれど、 ペテロは、パウロよりも現実的な対応をした・・・。 急進的なパウロとは異なり、ペテロは漸進的な態度を示した、ということになりますでしょうか。 ☆こんな感じでしょうか?質問の意図をよく理解していないかもしれません。 ◇いえいえ、そんなことはありませんよ。 ご回答、ありがとうございました。

回答No.7

 こんばんは。No.6です。  ☆☆(回答No.6) 《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  ◇(お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なぜ、こう言えるのかが、よくわかりません。  非思考(非経験)の場において、宗教的に表現するならば、神と対峙することによって、   わたしが何であるか直観、直覚できる、  あるいは、   「わたしがある」ということが直観、直覚できる  ということをおっしゃりたいのでしょうか?  そして、イエスによって、見えるかたちで、イエスのイザヤ書の朗読を目にし、耳することによって示された?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すみません。何を考えていたのか すっぽり議論が落ちていました。  そして 答えをあたえてくださったも 同然だと思います。  人間としての《わたし》たちにとっての存在論は けっきょく自分のことについて触れて規定するわけですから むつかしいという考えがあって 存在論ということに触れたはいいが 議論を抜かしてしまったのでしょうか。  《わたしはわたしである》。これで よいとも考えているからでしょうか。  例によって ワタシが一なら 1=1 であったり その一なる存在を――もし仮りにあやまったなら―― つねに自乗して 1^n=1  というふうなかたちであったりして われに還りどこまでもこの一をうんうんと推してあゆむ。生きる。――こういった存在論も 念頭にはあったのですが 議論からすっぽり抜け落ちてしまいました。  ところで 次の(8)(9)について どうお考えになるか。それが 知りたいのですが いかがでしょう?  ☆☆(回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 取り敢えずは ユダヤ人とヨーロッパ人とそして日本人との比較になると思います。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ~~~~~~~~  ☆☆(回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 取り敢えずは ユダヤ人とヨーロッパ人とそして日本人との比較になると思います。 ~~~~~~~~ と質問がありましたので・・・。 ヨーロッパ人と日本人の思考の方向性を分けるのは、 ───────── 1:1初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 ヨハネによる福音書 ───────── だと思うのですよ。 《ロゴス》!! 日本の神話は、《ミュトス》ではあるけれど、《ロゴス》の部分が欠如している。 古事記は、時系列的に《ミュトス》するけれど、歴史を物語るけれど、「なぜ?」の部分は欠如している。 「日本には、《歴史》や《歴史書》はあるけれど、西洋的な意味での学問としての《歴史》や《史観》がない」と言われますよね。 日本にまったく《史観》がなかったとは言いませんよ。 平家物語のような、《諸行無常》・《おごれるモノは久しからず》的史観はあることはある。仏教的な史観はあることはありますけれども、これは結局、個人の行いや動機に還元されて、そこで終わってしまう。 清盛が悪いことをしたから、その報いを清盛の子孫が受けなければならなかった。東大寺を焼いた、これが、一族の滅亡への道のりをさらに加速させた、で終わってしまう。 悪いことをしてはいけないという初歩的な道徳の次元で終わってしまうですわ。 そして、 「悪いことをすると、のちのち、ひどい目にあう。いいことをすれば、将来、いい結果が待っている」 という歴史観(?)、今もなお日本では健在でしょう(わらい)。 ほいで、 『日本の《ことのは》は《ミュトス》的なものなのではなかろう?』とちょっと思っています。 (ちょっとした思いつきの次元です・・・) 《ロゴス》は含まない。 《清くアカキこころ》は、悪意や《ウソ》を含まない心でしょう。ナイーブで個人的主観に基づくもの。これは、キリスト教的な《義》の心ではないですしね~。 それと、『思考の癖、方向、Vectorの向きがちがうのではなかろうか』とも、漠然と思っています。 日本的知性は、外へ外へと向かってゆく。拡散してゆく。ひたすら、広がり続ける。 対して、 西洋的知性は、内へ内へと向かってゆく。中心に向かって突き進む。 こうした、思考の癖、Vectorの向きの違いもある、と思います。 日本人にロゴス的思考能力が欠如していると言うのではないですよ。その向きが、日本人と西洋人とでは、異なっている。 話を戻しまして、 日本人にとって神話は《ミュトス》的なもの、 西洋人にとって神話(聖書)は《ロゴス》的なもの。 これは、決定的な差異だと思いやす。 少なくとも、聖書についての見方の相違の溝は、日本人と西洋人は、永遠に埋められないのかもしれない。 歴史観の共有もありえないのかもしれない。 日本人は、聖書の予言を信じませんし、予言[書〕を読み替えて理解しようとしますし、 西洋人は、将来、これは言葉どおりに実現される、と確信している。 また、 日本人は、歴史に極力、史観を持ち込まないようにし、ひたすら史実に忠実にあろうと努めていますしね~。 そして、 お隣のK国さんは、歴史にファンタジー・願望を持ち込む!! 韓国起源説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AA%AC イエス、アブラハム、モーセは、じ・つ・は、韓国人!! 神さまも韓国人!! 宇宙を創造したのも韓国人!! この驚愕の歴史的事実、ご存知でした?(わらい)。 日本人とK国のお方は、永遠に分かり合えないかもしれないのかもしれない、 と思いはじめています。 歴史観についての質問を、 bragelonneさんが新たになさったので、 この件については、少し考えて、もう少しまとまった形の回答を、そちらの方にしまいと思います。

  • kurinal
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回答No.5

こんにちは。 「義とされるか」!?」 「「理解していない」!!」 ・・・で、結局、何がどうすると、どうだ、ってのさ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ~~~~~~ 「義とされるか」!?」 「「理解していない」!!」 ~~~~~~ ですから、こうして質問しています。 あえて二分法による類型的な表現をするならば、  パウロの立場:信仰義認  ペテロの立場:行為義認 と考えることが可能だと思います。 ルターが、ローマ・カトリックに反旗を翻したのも、この義認論の相違であったとされています。 ですから、 信仰によって義と認められるのか、 律法の遵守という行為によって義と認められるのか、 と質問しています。 「《義》が何であるか」がわたしにはわからないので、質問をしています。 皆さんのお考えを教えてくださいとお願いしています。 お知恵を貸してください、とお願いしています。 ですから、 教えてくださいよ~(ペコリ)。

回答No.4

モーセの本名と、イエス復活の謎について知りたくなり、2年半前から古代ユダヤ教、原初期のキリスト教史に興味を持ち、マネトーの断片、ヒクソスの歴史、エジプト史などの周辺もかなり精力的に調べました。知りたかった2点について自分なりの結論を得たので、この点に関する興味は1年前から薄らぎはじめ、半年くらい前からこれらの記憶も忘れつつある者ですが、たまにこちらのカテゴリーをのぞいています。 ちなみに私は、限りなく無神論者に近い不可知論者です。イエスの実在は信じていますし、あの時代に女性や異邦人へあたたかいまなざしを向けた人物として尊敬はしていますが、同時に、彼はあくまでも古代ユダヤ教の改革者ではあってもその枠内にとどまった人物でしかなく、磔刑により確実に死亡し、当然蘇生することもなく、終末は近いという預言も外してしまった人物だと考えています。まぁ、それだけ人間的魅力にあふれて、周囲の人は心を寄せたのでしょうが。 さて、ご質問の、パウロとケパ(ペテロ)とのけんかのことですが、 原始キリスト教史では有名な「アンティオケア事件」のことですね。この事件はその少し前にあった「エルサレム(使徒)会議」と分けては考えることができないことは、博識である質問者様には先刻御承知のことと思います。 >I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか? これもまたいうまでもありませんが、パウロの視点からは、ペテロがアホでポンツクや、ということになります。なぜならこの事件の前のエルサレム会議の既決事項をペテロは守っていませんから。したがって後にパウロの考えとルカ福音書を主に聖書を作りあげた教父たちも、パウロの意見と同じとみて良いでしょう(もちろんエイレナイオスは他の3つの福音書も大事だよぉとは言ってますが、マルキオン派やグノーシス主義に対抗する手前、その当時のエイレナイオスには多数派工作が必要だったんでしょう)。なぜならエルサレム使徒会議での決定事項を守っていないのはペテロですから。 しかし一般の儀礼的側面から考えると、パウロのように原則や規範の絶対遵守、非妥協的姿勢の貫徹よりも、ペテロのように多少の逸脱を許容しつつも無用の争いを避けた姿勢はある面で大人の対応とも言えますし、全面的に否定されるべきものでもないと思います。 それではイエスが存命であったなら、彼はペテロとパウロのどちらを支持したでしょう? 律法の完成のために伝道していたイエス、サドカイ派の形式主義的、権威主義的姿勢を嫌っていたイエスなら、はてさてどちらを…… という問いに対して質問者さんが考えついた内容が、この御質問の答えじゃないでしょうか。 次のご質問、 > II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか? 現在の一般的解釈からすると、キリスト教が世界宗教となった原動力は、パウロ>…>ペテロでしょう。また教義の面からもその考えが今に伝わっているのはパウロのほうです。しかし女性に対して後退した考えを表明したパウロについて、イエスがなんというのかは分かりません。 > III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? パウロがいなければ、ペテロ以外の人物ももう少し非キリスト教徒にも有名になっていたのでしょうけれど、影が薄いですよね。イエスが処刑されたときは、全員逃げまくっていますしねぇ。おまけにマグダラのマリアの福音書に書かれている使徒たちは、イエスの死後、彼の罪に連座されて殺されるのを恐れ、宣教に出かけるのにもビビってますからねぇ。まぁ、イエスの期待とは異なり、ちょっと出来の悪いイエスのお手伝い、でもパウロみたいに頭がカチンカチンの頑固者ではなかった気のいいオッチャンたちでいいんじゃないですか。 後段のご質問、新しい律法に関しては、少なくともパウロはそのように考えていましたし、エルサレム使徒会議の席では、割礼、共卓については非ユダヤ系キリスト教徒については、古代ユダヤ教の律法を押し付けないことにしていました。 最後のご質問、 >パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが エイレナイオスやアウグスティヌスやそれ以外のカトリックを基礎づけた教父たちにとって、理論的淵源はパウロだったとみて良いでしょう。でもその当時の一般の平信徒たちにとっての人気、という観点からはどうだったんでしょうか。 ペテロは生きていた当時のイエスの隣にいましたし、中風の患者を癒したり、死者を蘇らせたりなどの奇蹟の伝説もあります。いかにも人気がありそうです。それにガチガチの教条主義者ではなく、アンティオケア事件のようなチョンボもしでかす愛すべき人物でしたし、そのうえイエスの実弟ヤコブがその地位につくまで、エルサレム教会の指導者だったとも言われています。パウロとは異なる面での実績を積んでいますし、それは衆に抜きんでています。 こう考えてみてはどうでしょう。 イエスがユダヤ・ナザレ株式会社の創業者だったとしたら、ヤコブはその同族の2代目社長。ペテロは初代とともに辛酸をなめつくした専務取締役で、2代目が育つまで社長代理を務めていた、と。じゃあパウロは何かというと、エルサレム本社からアンティオケア支社に責任者として派遣されたバルバナが現地採用した幹部候補生、ですね。この幹部候補生がとんでもないタマで、弱小の会社を世界的コングロマリットに仕立て上げる素地をつくったってわけですが、なにかにつけて聖なる血統が尊ばれていたあの時代、福音書の中にその名前もないうえ傍流ともいうべき現地採用者には、限界があったんでしょうね。イエスの実弟ヤコブはエルサレムで殺された後で正統性が一番濃いのは、福音書の中でイエスの隣に座っても不思議ではないと思われていた使徒筆頭の立場のペテロだったんでしょう。

NemurinekoNya
質問者

お礼

丁寧でわかりやすい回答、ありがとうございます。 回答を拝見しまして、  パウロ・純粋⇔ペテロ・鷹揚  パウロ・原理主義⇔ペテロ・〔現実〕容認主義 などの対比が可能なのかもしれない、と考えたりしました。 パウロは、純粋なだけに、ヒトの心を惹きつけますが、 実際に、付き合うとなると、 「言っていることは正しいのだけれど、現実が全然見えていないかも・・・」 となって、 一見、優柔不断に見えるペテロの方に向かうようになるかもしれない、 と考えたりもしました。 パウロは、もともと厳格な律法主義者ですから、パウロの立場は「古い律法の否定」という新たな律法主義のようなものかもしれないですね。 パウロの方が、実際は、窮屈なのかもしれない・・・。 自由から遠のくのかもしれない、 などなど、 すこし考えたりしました。 回答、ありがとうございました。

回答No.3

 No.1です。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  厳密には、異邦人との共卓とは異なるのかもしれませんが、  異邦人と共卓をすることを避けるようになったペテロ(ケパ)の姿勢は、  イエスの立場に反するのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《律法》の遵守あるいは厳守という問題については あいまいなままになっているところがあるかと まづ 思います。  姦淫の女が現場で捕まえられたら 石打ちの死刑だとあります。  ▼ (レビ記/ 20章 10節) 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。  ☆ ところが ヨハネ福音書(8:1-11)では 《あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい》というイエスの発言によって その刑をまぬかれた模様です。  姦淫ばかりの例を出してすみませんが 王のダヰデは 人の妻を横取りした上に その軍人の夫を戦地に遣って死なせた。ところが 言ってみれば お咎め無しです。  ですから 律法の遵守という問題については まだよく分からないと思っています。  その上でですが 律法は 基本的な内容については 守るべきものだと考えます。新約の時代になってもです。  それは けっきょくアブラハムが その長子のイサクを神への生贄としてささげるからであっても 人をころすことは よくないことではないかと確認したという問題が モーセの律法条文の書かれる以前にあったと考えます。  ひとは人をころさない。自分をも他人をも。という書かれざる心のうちの律法が――自然法というべきものとして―― アブラハムの信仰から得られた理論として 持たれていた。と見ます。そして このような基本内容は 成文法となった時代と制度のもとでも まもるべき信仰のあり方だと見ます。  この生命の尊厳といった基本内容とは別に 社会のナラワシや法律条文にかんしては 時代とともに変わり得るとも考えられますから 特別の遵守命令を受けているとは 見ません。  いのちのとうとさは けっきょく 存在の掛け替えの無さであり 具体的には 人それぞれの自由意志の尊重のことだと見ます。逆に言うと 意志が 人間存在の中軸となっていて これをないがしろにすることは 暴力――あらゆる暴力の初め――である。と捉えます。  この基礎内容は ナラワシにしても律法にしても 守るべき――オシエと言えば唯一のオシエたるべき――事柄であると捉えます。  隣人を愛するのは このように自分のおよび相手の意志をとうとぶということを基礎内容とすると捉えます。つまり隣人愛も 唯一のオシエと言えばそうですから。  ○ 共卓  ☆ は どうなんでしょう。同じユダヤ人のあいだであっても 罪びととのそれや あるいは 異邦人とのそれについて どう捉えればよいでしょう。  たぶんそれらは 《規制緩和》してもだいじょうぶだという了解は もうすでにイエス派の中ではみとめられていたのではないでしょうか。  しかも その了解どおりにじっさいに実行するか・実行できるかとなると――石打ちの死刑が その実行があいまいにされ得たのなら まして あたらしいナラワシへ進むことについては―― まだまだ あいまいなままにしていた。と 単純なかたちで 考えられて来ます。《理論》の問題ではなくなっているように見られます。  ▼ (ルカ福音 5:38) 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。  ◇ 《酒》が《律法》のたとえであるとするならば、 / 古き律法は捨てさるべきものなのではないですか?  ☆ いまわざと変な用語を使うとしますと 《核心的内容》――いのちのとうとさ・自己のおよび相手の意志の尊重――にかかわる部分は 律法というオシエやキマリをも守る。それ以外は 人びとの考えに従い 取り決めあっていけばよい。  というかたちで 《あたらしいワインをあたらしい革袋に入れる》のがよいと考えます。  ◇ わたしには、そもそも、異邦人、無割礼の者との共卓が問題になることの方が、問題なのでは、という思いがします。  ☆ なのですが ふるい人びとは その考えに合わせてそれなりに そしてあたらしい人も 慣れとしてのクセからそれなりに 問題となるコトを つづけたりするものと思われます。  《過去の歴史を反省しない者》との共卓――止むを得ずでしょうか 第三者の家では避けずに そうしましたが――をこばみつづける人もいるようですから 理論の問題をすり抜けてのように 長引くことがあるのかも知れません。  その人のお父さんは 《米軍慰安婦の管理隊長》であったという記事(週刊誌の見出し)を見ました。  でも あたらしいワインを飲む意向だと思われ 未来志向なのだと察せられるのですが どうでしょうか。

NemurinekoNya
質問者

お礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。 bragelonneさんのお考えがよくわかりました。 ☆その人のお父さんは 《米軍慰安婦の管理隊長》であったという記事(週刊誌の見出し)を見ました。 ◇ことの発端は、確か、韓国の京郷新聞の11・6づけの記事。 お父さんが米軍慰安婦を××していた、という、お父さんの書名入りの公式な記録が見つかって、この件を、野党の議員が国会で追求した、と報道された。 2chでは、11・6の時点で、この話題について結構、賑わっていましたよ。 (最近、結構、2chのニュース・書き込みを覗いたりしています) NHKをはじめ、新聞などの、日本のマスコミはいっさいこの件について報道しませんでしたけれども。 韓国の大手新聞社の日本向けのサイトを見ても、 韓国では、この件については、あまり問題になっていないようです。 日本叩きの口実がなくなるので、K国の皆さんは、この資料を黙殺し、信じようとしていないようですが。 10月の半ばくらいからですかね~、 韓国の大手新聞社は、露骨な反日記事が減り、日本と仲良くしよう、という論調に変わっています。 「韓国は先進国だ」と言わなくなった(笑い)。 「これ以上、日本との仲が悪くなると、韓国経済は破滅しちゃいます。お願いですから、日本と仲良くしてください」と悲鳴をあげています。

  • mmky
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回答No.2

 I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか? ○パウロが正しいですね。  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか? ○教学的理解程度でいえばパウロが上ですね。一方、信仰の程度でいえば十二使徒が上なのですね。 これは、パウロはイエス昇天後の弟子であり生存中は信じてなかったのですね。これは明らかに信仰の失敗ですから肉体を持つイエスに帰依した十二使徒のほうが信仰の成功者だからですね。 宗教には信仰の門と知恵の門があり、パウロはイエスの前で信仰の門には入れなかった一人ですね。目に見えない神は信じるが目に見える神は信じないという人物だったということですね。ここにパウロの原罪の根があるのですね。ペテロはイエスの前で信仰の門に入っていますからペテロは信仰の成功者ですね。ただ教学的にはパウロより劣っていたことは間違いないですね。このあたりが宗教の難しい面であり信仰と教学の二面性の綾ですね。  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? ○IIと同じですね。ユダヤ教徒、キリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒などでありながら神が地上に下生したときに帰依できない愚か者と比較すると十二使徒の偉さがわかりますね。イエスの時代に生まれたる者も多かったはずですがその時は無視し、いわんや石を投げ、後の時代に転生し、いかに教学で優れたとしても、また司祭や教皇となっても十二使徒にかなうはずもないですね。仏教やイスラム教でも同じですね。 「生きて神を見るは幸いである、永遠の王冠が頭上を飾るだろう。」とあるように肉体を持った神に帰依するほどの徳はないのです。逆に言えばそれほどに人が生きた神に帰依することは難しいことなのです。常識や既存の法律に縛られた自分自身をすべて捨て去らない限りできないからですね。ペテロにも混乱はあったということですが帰依の事実は覆されないということです。 イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? ○その通りですね。モーゼの法律からイエスの法律に変わったということですね。変えるということは並みたいていのことではありませんね。キリスト教の浸透には、実際には300年以上かかっていますが、最初の人たちの話ですから多少の混乱は許容しないといけませんね。 天上界から神が下生するということは今までの法律は反故にするという天の意志なのです。21世紀もまた同じですよ。20世紀までのすべての法律を反故にするという天意があるのですよ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

丁寧でわかりやすいご回答、ありがとうございました。

回答No.1

 こんにちは。  ◇ III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか?  ☆ 解説書を読むと 当時において〔も〕 遠くは預言者の系譜として 文書としての律法(ないし聖書)をおしえるサドカイ派やパリサイ派の人たちのほかにも 《口伝律法》を民衆に巡回しておしえる《ラビ(教師)》が多くいたと言います。(以下 〈聖書と口伝律法とラビ〉 in  河合一充編著『ユダヤ人イエスの福音――ヘブライ的背景から読む』 2012 によります)  このようなあたかも私度僧のごとき教師たちの一人であったと言います。つまり イエスがです。  《十二》というのは ユダヤ民族の支族の数に合わせたのかも分かりません。(この点は わたしの推測です)。ほかにもいたと言い 金持ちの息子などは 弟子としてついて行けなくなった場合が書かれていますね。  つまり 名だたる教師には 弟子も多くいたということだそうです。それが ふつうだったのだと。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) イエス・キリストについて 《おしえ》は 主要な問題にはならないと考えます。  (い) 万人にとっての神――《無い神》をふくむ――を指し示したことが いちばんだと見ます。  (う) 《真理とめぐみ》をもたらしたと言いますが 真理とは そのじんるいにとっての《全体としてひとつの神》のことです。その神への 心の明け これが 《道》であり 《生命》であると。(《向こう岸(彼岸)へと筏で渡る》というのとも ちょっと違う)。  (え) 《おしえ――または パウロの言う《文字》――》は要らないとおしえた(!?)。  (お) 生まれながらの きよらかなおそれ これのみだというオシエを人びとに押しつけた(!?)。それにしたがうならば 幼子のように 元気が出ると告げた。これが 《めぐみ》である。  (か) 真理はきみたちを自由にする。  (き) メグミ( grace )というのは タダで(無料で)( gratis )そなわっているという意味でもある。その幼子のごとき心のあり方が すべてであると語った。とにかく元気が出るのだと。出ないのは 信仰ではない。  (く) これらのことを パウロは――そのことをわたしは アウグスティヌスをつうじて理解したのですが―― 語っている。  (け) 十二使徒の一人ひとりについては分かりませんが ペテロは そのパウロの信仰説明について分かっていたであろうと推察します。夢の中で 大きな風呂敷が出て来て その中にいろんな動物だかが入っていた。つまり どの言語のどの民族も ひとしくキリスト・イエスの指し示した・万人にとっての神のもとに生きるということを ペテロは知っていた。  (こ) ただし ペテロは そのあたらしい信仰のかたち――特には従来の儀式やナラワシから自由であることとしてのあたらしいかたち――に慣れていなかった。  (さ) もしペテロは 一般にそうであるように弟子たちの代表として語られているとするのなら ほかの弟子たちも 同じくあたらしい信仰のかたちを知っていた。ただし 昔取った杵柄が忘れられなかった部分が多かったのかも知れない。  ◇ イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい / ということなのでしょうか?  (し) 《律法》は 集団として生きる場合の交通法規です。  (す) 中身として 個人にとっての信仰と同じものであるとしても・ですから《良心》の問題として捉えることにも対応しているものであるとしても 交通信号のように ほかの人びともそれを守るというかたち――つまりは そのようなものとしての社会的な約束ごとないし取り決め――としてはたらくのだと考えられます。  (せ) つまりは 交通法規を守るというのは 人やクルマの流れがすんなりと行くようにという・或る種の仕方で外形的な意味合いを持つ側面と そして 人間どうしの交通つまりコミュニケーションとしての良心や信義の関係という側面とがあると思われます。  (そ) あたらしいかたちの信仰にもとづくなら 基本的に言って・一般的に見て 心の内面についても外面においても 律法を守るという姿勢は受け継ぐと言っているものと受け取ります。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、  ここのところは、どうなるのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 楽しみに取っておきたいと思います。寄せられる回答をたのしみにしています。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 共卓問題についてのbragelonneさんのお考えを伺いたいと思います。 ───────── 5:27そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。 5:28すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。 5:29それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。 5:30ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。 5:31イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 5:32わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 口語訳 ルカによる福音書 第五章 ───────── と、『ルカによる福音書』にはあります。 厳密には、異邦人との共卓とは異なるのかもしれませんが、 異邦人と共卓をすることを避けるようになったペテロ(ケパ)の姿勢は、 イエスの立場に反するのではないですか? ───────── 5:36それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。 5:37まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。 5:38新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。 5:39まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。 口語訳 『ルカによる福音書』 ───────── 《酒》が《律法》のたとえであるとするならば、 古き律法は捨てさるべきものなのではないですか? わたしには、そもそも、異邦人、無割礼の者との共卓が問題になることの方が、問題なのでは、という思いがします。 bragelonneさんのお考えを教えてください。 よろしくお願いします。

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    全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなんですか? 使徒 10 「10 しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり, 11 天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。 12 そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。 13 そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。 14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。 15 すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。 16 こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。 17 さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。 (略) 28 こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。 パウロが空腹の時に起こった出来事で、神が清めた地のあらゆる生き物を食べるようにと主の幻が三度起こったと書いてありますが、ペテロは食べませんと答えていますがなぜ、ペテロは食べないんですか? 神が清めたものと書いてありますが、全ての食物が清いとされたのは、このイエスが死んだ後の出来事の前のイエスが生きていた時の言葉で、 マルコ 7 「18 それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。 19 それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。 20 さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。 21 内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。」 ここで、すべての食物は腸から下水に流れるが、害になる推論は人から出る、だから食物は清いとイエスが言っています。確かにここでイエスはすべての食物を清いとされたと書いてありますが、 使徒10では、ペテロは汚れているものは食べないと言っています。 そのあとペテロは自分が見た幻は何を意味するのだろうかと内心ひどく思い惑い、幻について思い巡らした後、「神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。」と言っていますが、マルコですべての食物が清いとイエスが言ったことはすべての人は清いという意味なのであればマルコの福音書は間違っているということですか? それともこの事自体が、ペテロから害になる推論が出ている証明になっているんでしょうか? マルコの福音書が間違っているのであれば、旧約聖書で禁止されている食物はペテロの言葉にならって食べないことが正しいことになるのですが、すべての食べ物が清められたのであれば、ペテロから既に害になる推論が出始めている証拠になるんですが、どっちなんでしょうか? しかし、パウロは食物のことで、 コリント第一 8 「13 それで,食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません。わたしの兄弟をつまずかせないためです。」 ここでもまだ、食べる者が滅ぼされるのか、食べない者が滅ぼされるのか正しい教えがはっきりしません。どっちが滅ぼされるんですか? また、ここでパウロは真理を悟ったのだとしたら、 ヨハネ16 「13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」 で、真理の全体に案内されたのはこの時ということですか?しかし次を読むと、 ガラテア2 「14 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」。」 で、ケファ(ヨハネ1:42ペテロはケファ「岩」と呼ばれるでしょうにより)が真理にしたがって歩いていないのをパウロは見たとありますがいつ真理の全体に案内されたんですか? 真理の全体に案内されたのがいつかによって、 ヨハネ16 「32 見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。」 で、使徒が自分の家に散らされてイエスを独りだけにする時がいつまでなのかを解く大事なところだと思うのですが、 もし十二使徒から枝別れしてしているが、キリストの根から吸っている者達だとしたら。正確に伝えられなくても兄弟だとしたら、イエスの新しい掟である、兄弟が互いに愛し合うことが守れなくないですか?誰かが一番正しいんでしょうか?それとも全員間違っているから神のみが高められて聖書が完成されるんでしょうか? ローマ10 「15 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。」 ここで、良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろうと書いてありますが、 使徒はなぜ足を洗ってもらう必要があったんですか?もし、害になる推論が出て来ることが足を洗ってもらう意味だったとすると、足を洗ってもらえさえすれば使徒は全身清いものであるとイエスが言っているのにすべての食物が清いのかすべての人が清いのかにこだわる意味はあるんでしょうか? そう考えると、(神を見るとイエスに見える者、イエスを見ると神に見える者)=神とイエスは同じ者に見える事の何が滅ぼされる要因になるのか、どうしてもエホバの証人のこの部分が理解できません。 (正確な知識で無ければ滅ぼされる、自分達は正確である)つまり自分達以外は滅ぼされるという教えがどうしても納得できません。パウロに沿うなら三位一体でカトリックがつまずくなら私も神とイエスは同じ者であると言うほうが愛が優先されていると思うのですが、本当にどこかの人間の山の一つが高められるんでしょうか? 啓示2 「2 『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。 3 またあなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。 4 とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。 5 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めなければ[そのようにする]。」 で、あなたは使徒であると言いはするがそうでない者を見出すが、あなたは愛を離れたとあります。 イエス以外、人間は誰も神の家に立てなかったことが証明されて神の山(天は玉座、地は足台、神に人間の建てた家に住めというのかという聖句がまだ未解決)のみが高められ栄光を帰す日が来るんでしょうか?人間の中から王を立てることも間違っていて、もう正確なことを知るにはイエスに来てくれという以外にどうしようもないと思うのですが、どこかの人間の山だけは正確に伝えているんでしょうか?足を洗ってもらう以外全身清い者が、害になる推論が出ている者であるがキリストに属している者の場合、この者達に敵意を示しているエホバの証人が滅ぼされることになるんですが、イザヤ48によると、 全地に散らされたイスラエルを島々から再び集めると書かれている部分で、イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちだが、わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだと書いてありますが、まずここでどっちが真実によらず義によらず語り告げていいるかではなく、最たる例としてでも神の名の為に助けられる者がいるということで、この者達は真実を語り告げていないが助けると神が言っているのにどうやって、何を根拠にキリストに永遠の命を求めて信仰を働かせている者を裁けるのかということです。敵対している者同士おのおの自分は当てはまっていないと考えるでしょうが、この聖句に当てはまっているものも神は助けると書いてあるのは間違いないと思います。神が助ける事に決めた者に敵意を示せるだけの理由は何なんでしょうか? まず、全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなのかからですが、いつ使徒達は真理の全体に連れて行かれたのかを教えてください。

  • 旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • 獄門教について教えてください

    過去の研究会に参加した人の助言を抜粋して掲載しよう。 なかなか勇気ある人だった。 > 少々、お付き合いしましょう。 キリストはギリシャ語で、本来はメシヤです。 さてメシヤなるもの、ユダヤ人の間ではダビデ王の子孫で、失われたイスラエル王国を復活させるものと信じられていた。 そこにイエスが現れたわけだが、彼はユダヤを超越して、敵をも愛せと説いた。 当時のユダヤ人の敵は、占領者であるローマ人です。 そしてイエスは、己の説いた教えの如く、自分が犠牲になって自分の教えを体現した。 その教えを広めたのは使徒パウロで、かくてイエスはユダヤ人の間のイスラエル王国の復活者から、全人類を自らの犠牲で神にとりなすキリストへと進化したわけです。 え、今のキリスト教が似ても似つかないって? それは、言ったらお仕舞いのお約束ってわけで。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー よく聞く話を説明しているのだけど、この中で謎がある。 >? その教えを広めたのは使徒パウロで、かくてイエスはユダヤ人の間のイスラエル王国の復活者から、全人類を自らの犠牲で神にとりなすキリストへと進化したわけです。 疑問は、単純明快になぜそこまで極端に飛躍した解釈があったのか? 蠟魔教会がマインドコントロールとして自己正当化したのではなく、納得できる論理があったのか? その点をお願いします。

  • パウロ様を淫乱者のように言うのは許せません

    こんにちは。 質問と回答を読ませていただいていましたら、パウロ様を淫乱者 のように書いている回答がありました。 聖パウロ様をそのように言うのはどのような根拠があってのこと でしょうか。聖パウロ様は私たちキリスト教をよく知る者たちに とって恩人でありこの肉による世界から霊による世界へと導いて くださる尊い使徒です。その方を淫乱者のように言うのは絶対に 許せません。 どのような根拠によってそのような冒涜をパウロ様に加えようと するのか教えていただければさいわいです。 どうぞ偽物の生き方ではなく本物の生き方へと戻っていきます ように。そしてみなさまが神の赦しによって成長しますよう平安 が訪れ尊い忍耐に満ち溢れますますように。

  • キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか

    キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか  このところわたしは《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。答えは出ない・出せないというこたえを いまのところ得ました。得たのですが そのことと 次のローマ書の文章が絡まっているように――たぶん 個人的なくせからのようなのですが――思われます。  まづそのパウロの言うところをだれか解釈してくれませんか。  ▲ (ローマ書 10章) ~~~~~~~~~~~  5 モーセは、律法による義について、    「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5)   と記しています。  6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。    「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」      (参照:申命記30:12)    これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。  7 また、    「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」      (参照:申命記30:13)    これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。  8 では、何と言われているのだろうか。    「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」      (申命記30:14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ モーセの律法の義にしろ イエスのあとの信仰の義にしろ それほどむつかしいことではなく 誰もが実践できると言っているようなのですが 果たしてそうなのですか?  言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか?  答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか?  表題のことが 主題になるのではないかと思ったのですが それが定かなことだというのではありません。つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。