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私は死なない

死後の世界がないと仮定するなら、 私にとって私の死を自覚できないので 私にとって私の死は無いという結論になりました。 別な言い方をすれば私は死なないとも言えます。 他人から見た私の死ではなく、私から見た私の死のみが問題です。 理屈は合ってますよね?

みんなの回答

  • miledoor
  • ベストアンサー率13% (25/180)
回答No.38

あなたにとって、死を認識する事も出来ない状態なら、それは死んだも同じでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

寝ているときも死んだも同然ですね。 ご回答ありがとうございました。

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回答No.37

こんばんは、shift-2007さん。 【 人間の死はどの時点で決定するのか?脳死者の取り扱いはどのように行うべきか? 】 ↑ 本質問の主題は、こちらですか? 確認です。

shift-2007
質問者

お礼

お題は回答する方によって変化しています。 ################### 私にとって私の死を自覚できないので 私にとって私の死は無いという結論になりました。 別な言い方をすれば私は死なないとも言えます ################### 上記の理屈に突っ込みどころが無ければ下記の文で突っ込んでください。 #################### ただ、他人の死はどう考えればいいのかってことですが、 肉体が死んだのだから『死んだ』と言いたい所ですが、本当のところは『不明』ってことじゃないでしょうか。 例えば、逆に考えて他者の自我をどうやって確認しましょうか。 声をかけて返事が返ってくるかでは決められませんね。 生体として生きているのであれば、他者の自我も生きていると定義する以外現時点では出来ないと思います。 このあいまいさゆえに肉体が死んだときに彼の自我も同時に死んだのか疑問が残ります。 今のところ他者の自我は他者には確認するすべが無いんじゃないでしょうか。 つまり他人の『私』(自我)は生死問わず『不明』でどうでしょう。 #################### よろしくお願いします。

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noname#80116
noname#80116
回答No.36

No.35です。 いまこの質疑応答は わたしのつもりとしては 一つに 人生をめぐって ちょっとした文句をかかげるとすれば 何かよさそうなものだあるか?です。 答えとして 《わたしは死なない》はおもしろそうだというものです。 もう一つ考えられることとしては 存在論です。存在とは何ぞやです。焦点は 死なら死にあたっているというかたちです。 ★ 結局『不明』って事じゃないんですか? ☆ 何が不明なのか ですが? ★ それとも私が死んだかどうかはbrageloneさんの記憶次第ですか? ☆ 死の判定は 医師の判断にもとづくと思います。 ☆ 記憶が どうこうという問題になっているようですが いまひとつ よく分かりません。存在をめぐる思想としては 人間存在は 記憶だけで成り立っているのではないというわたしの考えを すでに 提案しましたし。・・・  記憶のほかに 存在を成り立たせている意志行為にしても その歴史は けっきょく 記憶としてあるかどうかに還元されるのではないかというご指摘なのでしょうか。  そうだとしても 《死んだかどうか》と《記憶がどうであるか》とは 直接結びつける必要はないように思うのですが。  つまり 意志の行為は 死ぬことと直接には関係ないですし 記憶に残っているから有効なのだというわけでもなく 誰に知られなくとも 存在しているはづですよ。  焦点をはづしてしまったでしょうか。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 存在論は理解しました。 ただ、他人の死をどう定義しましょうか、ということに対しては ・医師の判断に基づく ということでよろしいのですね。 肉体だけでなく彼の自我も同時に死んだということでよろしいですか。

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noname#80116
noname#80116
回答No.35

No.33です。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 心臓が止まった遺体が目の前にあるとして、彼の中の『私』は死んだのでしょうか。 生きている或いは死んでいるとしてもその確認方法はどうしますか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 1.《心臓が止まった遺体》 これが 死という現実です。  2.このように他者の存在にかんする死の確認を たとえば《彼の中の『私』》という既知の部分――なぜなら それは 何よりもよく知られているから 例に取りあげるわけですが――を媒介として 確認するという話しでした。  3. 《彼の中の『私』》じたいは わたしの知識ないし記憶としてあるというものです。それが死ぬも 死なないも ないです。問題が別です。 ★ この記憶じたいについて それが《生きている或いは死んでいるとしても その確認方法はどうしますか》  ☆ 記憶を失ったり 記憶喪失に陥ったりすれば 同語反復ですが 記憶はなくなっています。それだけのことです。わたしという存在は まだ そこにいます。植物人間の状態であっても そうです。意志の行為事実としての累積が あたかも 一個の存在として 生きているといえば 生きています。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ちょっと分からなくなったのですが、 結局『不明』って事じゃないんですか? それとも私が死んだかどうかはbrageloneさんの記憶次第ですか?

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回答No.34

>私には何一つ削れないように思います。 御質問の主旨から言っておかしいですね。 物事をちょっとでも忘れたらもはや「私」ではないとすると、「私」はいつも「私」ではないものになって消滅していることになり、そもそも「私」の死が事実上無くなってますね。 >完成されたものから一部を取り除いても問題ないような気がしますが、それをやったらそもそも完成しないんじゃないでしょうか。 「私」の完成や完全はあり得ません。完成すると私では無くなります。発生原因からの帰結ですし、また、思考や意思や言語表現などにさえも時間の要素があるのですから「私」の記憶が不可欠です。これも、完成や完全を不可能にします。0.01秒前の「私」の記憶は真の姿と一致するか確かめようが無い完成しているものでは無いのです。

shift-2007
質問者

お礼

忘れたというか、私が想像したのは子供のころにした、どこからどこまでが自分なのかってやつです。 手は、足は、胴は、脳は・・・・最後に残ったものが本当に自分なのか。そんな感じでした。 私の完成は私を名乗ったときに完成されたと考えています。 その後は子供と大人の違いでしかないので。 ご回答ありがとうございました。

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noname#80116
noname#80116
回答No.33

No.31です。 そこまで行くと shift-2007さん たとえばkrya1998さんがおっしゃっていた《まぁ西洋的頭のお遊戯ということでしょうか》という事態にならないとも限らない。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私が認識している他者の『私』の未知と既知の割合も定義できないし。 グレーゾーンが広そうなのでやっぱり『不明』でどうでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 割合が規定できないことと 《既知》が存在することとは 両立します。既知が存在するからには その部分だけとしても 《不明》ではありません。  この既知の部分が あたかも自分の《わたし》のようでもあるので 《生きている》と《死ぬ》とをこの人生において 認識することになっています。これは 現実です。 ★ 例えば、おなかの中の赤ちゃんに『私』はあるのでしょうか。 ★ 或いは人工呼吸器をつけている人の中に『私』はあるのでしょうか。 ☆ 自分がそれらの存在者に既知の部分を見ているなら 互いに人間どうしだということになります。記憶がなくなっていて その意味で『私』がなくてもです。 ★ それゆえに中絶や尊厳死が可能なのじゃないでしょうか。 ☆ いいえ それゆえに 中絶や尊厳死の是非あるいはその実施基準について 考え合いつづけているのです。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まあ、『死』が本能であっても本からの知識であっても記憶であることは間違いないんじゃないでしょうか。 そうすると、記憶は事実なのだろうかと疑いたくなりませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 人間は 記憶だけで成り立っているのではありません。意志があります。意志の軌跡つまり歴史が伴なわれています。つまり 全体として 存在です。そういう《わたし》です。  言いかえると 未知の部分が 他者については多くあるとしても 全体として存在であるという《わたし》は じつは やはり共通なのです。自分が《わたし》と自称するように 他者もそうすると 無条件に 認め合っています。これを《人格》と言います。  もっと言えば ただそこにいるという実際 これで 人格です。それが そこに〔生きたかたちでは〕いなくなるというのは 現実です。記憶としてであろうが記憶力が失われていようが 死は 現実です。 この《わたし》が 《わたしは死なない》と宣言するのです。もしくは 《わたしは既に死んでいる / わたしは日々死んでいる / わたしは涅槃(消滅つまり死)に達した》などなどと表現コンクールのごとく やはり宣言します。  これらの虚構でも けっこう ちからを持つことがあります。いい方にはたらけば 多少なりとも それは 愛です。虚構や未知の部分あるいは灰色の部分 すべてをひっくるめて 人間であり世界であり現実です。  哲学とは こういうことを扱うのではないでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 少し話が細部に入り込みすぎて、全体が見えなくなってきましたので再度確認したいのですが、 心臓が止まった遺体が目の前にあるとして、彼の中の『私』は死んだのでしょうか。 生きている或いは死んでいるとしてもその確認方法はどうしますか。

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noname#79626
noname#79626
回答No.32

いやあ大したものですねえ・・・ これだけの人を向こうに回して八面六臂ですね。 とても真似できません。 大胆不敵というか好奇心の塊と言うのか・・・ さて、「他者の中の私」ですが、 そもそも「自己」とか「私」というものは抽象的な概念でしかありませんよね。この質問をするなら「他者の中の私」以前に抽象的な「他者」とはというところまで遡らなければなりませんね。 他者とは実体のない概念ですが、一方で、身近な他者というのも存在し、 それはその人の「姿」であり「声」であり「温もり」であり「匂い」であり、実態のあるものです。 そういう存在の内の「私」は否定し得ないでしょう? そしてそういう実態を伴う他者の死は大きな喪失感を与えるものです。 彼、彼女の姿、声、歩き方、服装、考え方、笑い方・・・その全てが失われるのが死です。 現実から離陸し、思索の空間を逍遥するのはいいとしても、 あまりに抽象的になり過ぎるのも逆に何ものももたらさないと思います。 現実の「生」を豊かにし、拡大し、深めるための思索でなければ、 本当に単なる不毛な言葉遊びになります。 現実にフィードバックされない思索は不毛ではないでしょうか? PS 概念としての「私」とは詰まるところ自己という存在からの類推でしか在り得ないでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

元々、他人様の『死』を定義するつもりは無かったので、無理がありますかね。 私にとっては『死』の一側面として処理できるのですが、ほかの人には受け入れがたいかもしれませんね。 >他者の死は大きな喪失感を与えるものです。彼、彼女の姿、声、歩き方、服装、考え方、笑い方・・・その全てが失われるのが死です いやごもっともです。 ていうかpokochan2さんからこんな言葉を聞くとは・・・・ またよろしくです。 ご回答ありがとうございました。

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noname#80116
noname#80116
回答No.31

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 他人の死はどう考えればいいのかってことですが、 肉体が死んだのだから『死んだ』と言いたい所ですが、本当のところは『不明』ってことじゃないでしょうか。 例えば、逆に考えて他人の中の『私』をどうやって確認しましょうか。 声をかけて返事が返ってくるかでは決められませんね。 生体として生きているのであれば、他人の中の『私』は生きていると定義する以外現時点では出来ないと思います。 未だに脳内にそれは見つかっていないようですが。 今のところ他人の中の『私』は他人には確認するすべが無いんじゃないでしょうか。 つまり他人の『私』は生死問わず『不明』でどうでしょう。 だめ? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 残念ながら この論理は だめです。(えらそうに言って ごめんなさい)。 他者の発見は 至難のわざです。なのですが――つまり 他者については その人の中に わたしが《わたし〔の考えや くせや 嗜好や〕》を見つけているだけなのですが―― 逆に捉えようと思えば  他者とわたしは 互いの間に そのように部分的にでも 共通の事柄を見出し合っているということにもなります。 すなわち 《他人の中の『私』は生きている》とも言えると同時に 《わたしは 他者のことは いっさい何ひとつ 分かっていない》とも言えます。つまり 後者を存在の中核だと考えるのならば 人は 他者からは分からない部分の《わたし》が おのおの 生きている。これが 現実だということになります。 もし ここまでが妥当であるとすれば 《他人の『私』は生死問わず『不明』》については 次のように分解して 言い直さねばならないでしょう。   他者についてわたしが理解した部分=つまり《他人の中の〈私〉》は   わたしが承知している限りで わたしにとって《不明》ではない。また  それとして 生きている。   他者についてわたしが理解し得ていない部分=つまり《他人の中の〈私〉  ではないすべての部分》これは 言うとすれば たしかに 《生死問わ  ず『不明』》ということになる。   ただし 部分的にでも共通の内容を見出しているとすれば その部分  によって わたしから見て他者は そして他者から見てわたしは 生き  ていると表現されるであろうし もし動かなくなり冷たくなってしまっ  たなら 日本語では《死んだ》ということばで表わすのだとなる。    もしここまでも妥当であるとするなら 《死ぬ》という事態は 部分的にでも 現実であるとなります。死についてのおそれ(つまり 死ぬのは いやだという感覚)は 現実だと思うのですが?

shift-2007
質問者

お礼

不明の中身は確かにあいまいですね。 例えば、おなかの中の赤ちゃんに『私』はあるのでしょうか。 或いは人工呼吸器をつけている人の中に『私』はあるのでしょうか。 共通の事柄を見出す事は事実上無理な気がするのですが。 それゆえに中絶や尊厳死が可能なのじゃないでしょうか。 私が認識している他者の『私』の未知と既知の割合も定義できないし。 グレーゾーンが広そうなのでやっぱり『不明』でどうでしょう? 確かに恐れは人間に限らず犬や猫にもありますね。 ただそれを『死』と結び付けているのは多分人間だけじゃないでしょうか。 まあ、『死』が本能であっても本からの知識であっても記憶であることは間違いないんじゃないでしょうか。 そうすると、記憶は事実なのだろうかと疑いたくなりませんか。 ご回答ありがとうございました。

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回答No.30

>やっぱり『私』の正体は記憶なんでしょうかね。 「我思うが故に我あり」さえも思考である以上記憶が不可欠だということです。記憶が、単に引き出しに入っているだけでは『私』とはいえませんね。パソコンで言うところのHDDではなく今現在メインメモリで動作している記憶がないと『私』にはならないでしょうね。 私が私であるためだけにはギリギリどこまで人間を削ることができるんでしょうね。 視覚は真の私か--違う。消去。 過去の思い出は真の私か--違う。消去。 言語は真の私か--違う。消去。 とやっていくと、「我思うが故に我あり」の「我思う」の言語を除いた部分だけ、つまり、今現在を認識する脳の一部だけとなりますね。 そうすると、変化つまり時間感覚を消失して永遠を自覚してしまい、しかも、自他の区別がつかなくなりますからもはや私では無くなりますね。ここで、我と思うためには我以外が必要とされそうですが、我以外というものは我ではないというパラドクスに陥ってしまいます。 でも、この地点から「私」がスタートしているんだと思っています。 無から無限大のエネルギーが放出された宇宙創生の矛盾と似てますよね。特異点なんですね。たぶん。 したがって、「私」は、死に際して「私」にとって永遠の中にあり、「私」は「私」にとって死なない存在であるが真となります。

shift-2007
質問者

お礼

>私が私であるためだけにはギリギリどこまで人間を削ることができるんでしょうね 私には何一つ削れないように思います。花から花びらをとったら花でなくなってしまうようなそんな感じ。 完成されたものから一部を取り除いても問題ないような気がしますが、それをやったらそもそも完成しないんじゃないでしょうか。 なんとなくそれをやっちゃいけない気がします。理由はないですけど。 >「私」は「私」にとって死なない存在であるが ここまでが理詰め説明できる限界かもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

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noname#82286
noname#82286
回答No.29

補足ありがとうございます。 >このQAでもわかるように、私が死ぬかどうかを決めているのは他人様という事が不思議だなーと思います。 という事でした。はやいやはや質問者さんは大変ですね~w人を殺したがる回答者の対処にw とりあえず対策法だけ書いておきます 定義1死というのは人間が相対的に認識した現象に過ぎない。 定義2現世と死後は連続している 定義3死としたがる人は「死を○○と定義する」という戦法を使ってくるが決して○○の内容は主体性の破滅を意味する内容になっていないはずである。 定義4主体性が次元なので次元側を破滅させることはどう考えても無理である もしおかしいなという回答を見たら上記の定義を思い出してもらいたい。 偏屈な若者のアドバイスでした。w

shift-2007
質問者

お礼

うお、さすがにそこまで強気でいられるか自信が無いのですが、参考にさせていただきます。 特に定義3は、私もそれはどうなんだろうと普段から疑問でした。 ご回答ありがとうございました。

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