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般若心経は間違った経典

bonbonnierの回答

回答No.28

Ano.15、Ano.18、Ano.25のbonbonniereです。 釈尊が説いた空の教え、および大乗経典についての大乗側からの位置付けについて誤解があるようなので説明させていただきます。 釈尊は『サンユッタ・ニカーヤ』12.15の中で、「「一切はある」というのは、カッチャーヤナよ、これは一つの極端である。「一切は無い」というのは、これは、もう一つの極端である。カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって、如来は法を説くのである。」と、有無の二道を離れた中道の道を説き明かします。この釈尊の中道とは、両極端を離れた中庸という意味ではなく、有と無の分別を超えた、すなわち、有無、正邪、善悪、自他等の二元対立を生むところの言葉の機能が一切止滅するところの中道=空の境地こそ、如来の説く道であると明かしているのです。 釈尊は、『スッタニパータ』1072において、「無所有(何もないこと)をよりどころに、他のものを捨てて、最高の「想いからの解脱」において、解脱し、そこにとどまり、何ものにしたがっていくこともないだろう」と、『スッタニパータ』で説かれる「最初の清浄行」である、すべての煩悩を滅尽した弟子たちに対し、第二の清浄行として無所有処定という禅定の修行に導きます。『スッタニパータ』874には「色形が滅する」原因は「多様な言語世界の名称が起こらない」ことであると説いています。私たちが、りんごと皿を見て、それぞれを実体あるものとしてバラバラに見る先天的な識別作用が止滅する空の境地に弟子達を導くのです。それは当該本にも紹介されている『マッジマ・ニカーヤ』第121経に説かれてるとおりです。「このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。」と説かれますが、ここにおける清浄な空性の境地とは、不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去の八不の中道の境地であることは明らかです。釈尊が四禅三明の悟りがあったことは、上座部、大乗仏教の双方一致した見解です。釈尊の悟りは言葉の識別作用が止滅した無所有処定という禅定よりさらに深い、非想非非想処定、無相心三昧定をも超えた三明の境地です。 http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html​ ゆえに、釈尊が悟られた縁起は龍樹の『中論』において説かれる戯論寂滅の不生不滅の中道の縁起なのです。釈尊の第一義諦としての不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去の八不の中道の空の境地を、世俗諦としての陽炎、蜃気楼のような術語と同一のものとして扱うのは、釈尊の空性の境地を貶めていることになるのです。この本の欠陥は釈尊が第一義諦の真理として使った空性の用語を世俗諦の真理としての無常と同じもととして捉えるという迷いに起因していることは前回申し述べた通りです。それは龍樹の空性という術語の無理解であると同時に、釈尊の空性の用語に対する無理解でもあるのです。 ゆえに第一義諦としての空性=八不中道という釈尊の説かれた空性という語に迷うゆえ、空=虚無という見解が生じることになります。あらゆる極端にとらわれない中道のあり方は、有無の二道の両極端を離れるものであり、したがって中道の境地が無という一つの極端にも染まらないのは当然のことなのです。 また、大乗経典について一言すれば、大乗経典は阿含部経典の注釈書でも、解釈書でもありません。大乗経典とは大乗修行者の覚体験から生まれたものあり、これこそが釈尊の真実の教えであると主張するものです。大乗経典が経の劈頭に「如是我聞」の語を置いたのは、無批判に阿含経を真似たというのではなく、彼等自身がその経の内容を仏陀から聞いたと信じていたからと考えるのである。それは大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。大乗経典が三昧の体験に基づいて説かれたものであることは多くの学者が認めているところである。そして三昧における「見仏」の体験が種々の経典に説かれている。例えば華厳経の「十地品」では、不動菩薩地の菩薩が三昧において、無辺の諸仏を見、これらの仏から教授を受けることが知られる。」(平川彰『法華学報・第四号』)というものです。 実際、般若心経の対告者である智慧第一といわれるシャーリプトラは、釈尊入滅の前に病没しましたので第一回経典結集のおりにはいようはずもありません。釈尊は対機説法として深遠な宗教的真理はシャーリプトラに対して行ったのであり、シャーリプトラ自身にしか理解できないとされた説法を、シャーリプトラが他の修行者に亡くなる前にすべて説いていたかははなはだ疑問の残るところです。増谷文雄先生のように阿含部経典に残る釈尊の教説よりシャーリプトラに語った教えの方がずっと多いはずだという見解もあります(角川ソフィア文庫 仏教の思想1 知恵と慈悲 <仏陀>)。 また、私たちに残された阿含部経典の内、漢訳の中阿含と雑阿含は説一切有部所伝、長阿含は法蔵部所伝、増一阿含は所伝部不明、論蔵はほとんど説一切有部のみなのであり、パーリの三蔵(経・律・論)は上座部所伝と、私たちに残された阿含部経典は、ある部派に偏っています。二十ある部派の中には、大乗仏教に近い部派もありその教えはまちまちです。勢力の小さい部派が保持していたであろう釈尊の教説も私たちにとっては大事なものであったはずです。したがって、般若心経に説かれたことが真実の教えであるかどうかの判断を、阿含部経典に求めても意味のないことなのです。したがって、般若の三昧における覚体験を信じる立場であるなら、その真理の正当性の根拠は、その教えの論理的整合性にこそ求められるべきであります。 釈尊は法を問うものに対しては諸法無我を説き、事象を問うものには諸行無常を説きました。原始仏典には「五蘊は無我であり、苦であり、無常である。」と繰り返えし説かれますが、般若心経はアートマン(=我)が存在しないことを説くための経ではありません。当時の仏教徒にとって無我とは自明の真理なのでありことさら無我を説く必要もないのです。 「色」には広義、狭義の両義があり、般若心経で説かれた「色蘊」とは身体と環境を含む一切のものです。それを自身の五体を構成する物質であるとのみ解釈するところに、「色即是空」を自身にアートマンが存在しないことを説いているものであると誤って捉え、「「色即是空」は「諸法無我=諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである」(ダンマパダ279偈)から導き出すことができ、仏典に根拠がある仏説です。異論ありません。 「空即是色」は、仏典に根拠がありません。」という誤った見解になってしまうのです。「三世実有法体恒有」が実在するとした存在を空である、すなわち無常=縁起的存在であると否定する目的がそこにあるのです。 したがって、仏典に根拠を求めるなら「滅する性質のものは諸々の事象である」に求めるべきであります。すでにお気づきのように、パーリ語原典からの忠実な翻訳によれば(石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学』サンガ)通常の翻訳とは逆になります。したがって、「滅する性質のものは諸々の事象である」=「諸々の事象は滅する性質のものである」となり、したがって論理的な不整合性はまったくないことは明らかです。 したがって「空即是色」は論理的にまったく矛盾のない教説です。また、「色即是空」と「空即是色」を般若の修行者の時間の流れの観点から、「空即是色」を空を覚知した後の現象界を俯瞰する智、すなわち空を後得智として見る立場もあります。その場合は、「空即是色」とは、空であるから色が色として成立するという意味になります。第一義諦の真理として「空即是色」を解釈すれば、空は八不中道の戯論寂滅の涅槃の境地であるゆえ、すべての色は、本来的なあり方としての八不中道の涅槃の境地として存在している、生死即涅槃(無住処涅槃)となります。世俗諦の真理としては、すべての色は他の色の因縁に縁って性起する縁起的存在であり、したがってすべての色そのような縁起的存在として存在していることになります。論理的な不整合性は微塵もないというべきです。 このような「色即是空」の理解で「空即是色」が理解できようはずもありません。自らが信じる教えを自分では何も知らない他のものと比較しても、比較自体がまったく無意味になります。教えの素晴らしさを訴えたければ、無意味な比較など行なわずそのまま訴えればよいだけです。 また仏教の目的は釈尊が苦の根本原因が、私たちの意識をもってしては思議することすらできない「無明」という生命の奥深くに巣食う存在であると覚知したことに、仏教の出発点があります。「生きる苦しみを解決するための実践」とは「無明」といかに対峙するかの実践でもあります。ここをないがしろにして人格向上というような観点でのみ仏教を捉えるのは釈尊の真意ではありません。無論、釈尊の教えを自らの人生にどのように生かすかは、各個人の自由です。 大乗仏教の出発点は関係性(縁起)の目覚めにあるといわれます。他の存在に生かされ、また自分という存在が他の存在の幸福への因とも縁ともなっているということ。この自覚の上に自分の回りの人を尊重し、暖かく接するとき、次第次第に自らの生命の我執は失われ、そのことはまた自らの活動する日常空間をさらに広げ、やがてはすべての存在がひと続きであるという自覚にも達するものかと思います。無論、「色即是空」という聖者の世界にはほど遠いものでしょうが、真実の自己に出会うための般若心経であると思います。仏教学者の横山紘一先生は毎日こころの奥底に響けとばかりに、大声で般若心経を唱えているそうです。深層心に蓄積された仏の教えは三世という生命の中において、いつかまた仏の教えに出会える仏因となる、あるいはそこに説かれていることがいつの日か自らの命の中で芽をふくとの考えからだそうです。 結論として釈尊が説かれた空性の意味である空性=中道=不生不滅の縁起が理解されていないのなら、般若心経に対する著者の意見は全く無視してよいものであることは、確信をもっていえると思います。

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