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出征先はどのようにして決められたのでしょうか?

先の大戦での疑問点があります 南方へ出征された人は戦死が多かったらしいですが 中国大陸などへの出征は終戦後復員された人が比較的多いと聞きました 朝鮮半島へ行くだけで済んだ人も日本国内に留まれた人もいますね いわばどの戦地へ送られるかが生死の分かれ目だったことでしょう ではこの人は南方へ、この人は中国大陸へとか召集された人たちは 行き先(出征先)をどのようにして決められたのでしょうか? 若くて志願する者(やる気のある者)は激戦地へって感じだったのでしょうか?

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みんなの回答

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.5

出征先については、他の方が書かれている通りですが、それに伴って面白い話があるんですよ。 旧陸軍第14師団は宇都宮で編成された部隊ですが、満州に駐屯していました(後にパラオに移動)。満州に駐屯していたときに餃子を教わり、終戦後に帰郷した兵隊さんたちが餃子を広めたという話があります。 また戦後ラーメンが全国に広まったのも、中国に駐屯し復員した兵隊さんが中国で教わったラーメンを商売として始めたからなんだそうですよ。 戦争により食文化が広まるというのは結構あることでして、今や韓国料理に欠かせない唐辛子は秀吉が朝鮮出兵の際に朝鮮半島に日本から伝えられたというのは有名な話です。

ogikuboman
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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

出征先は運であります。 一般兵は、本籍地でまず召集されます。 外征のある場合、一部が抽出され外征します。(残った部隊が、教育などを継続する、留守師団となります) わかりやすい例で 関東軍 関東軍は○○師団がいる。というわけではなく、内地から交代で師団が駐剳(ちゅうさつ)しましたので、時代によって、師団が変わります。 たまたま、関東軍の主力になっていた部隊は、1942年くらいの段階では、対ソ抑止力として、実戦はありませんでしたが、南方の激化と共に、抽出され南方に送られました。 抽出単位は、連隊レベルでしたので、この人がとかあの人がというレベルではありません。

ogikuboman
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回答No.3

徴兵は戸籍地で行われます。戸籍名簿に従って徴兵検査(その名残が成人式)が行われ、甲(身長152cm以上・視力1.0以上)・乙1(視力0.8)・乙2(視力0.6)・乙3(視力0.1)・丙(身長が低い)・丁(目が悪すぎる及び病気その他で体力がない)・戊(諸事情により正しい数値が測れなかったので再検査)となっています。 入営は戸籍が所属する連隊区(全県にはありません。関東では埼玉と神奈川にはありませんでした)で行われます。 入営後3ヶ月間基礎訓練を受け、前線に送られるわけです。その部隊が南方に行くか北方に行くかは参謀本部によって決まります。関東の部隊はニューギニア・インパールなど過酷な場所に行った部隊が多いです。(一方で歩兵3連隊のように大東亜戦争中は戦闘に一度も参加しなかった部隊もある) 尚、朝鮮半島は日本国内ですので勘違いのないように

ogikuboman
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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

帝国陸軍の連隊は各都道府県ごとに配置されており、兵士はその地域(連隊区)から集められました。 どこに出征するかは、その連隊が所属する師団がどこに派遣されるかで決まりました。そしたその連隊が出征したあとには留守部隊が残って新兵を教育していました。 戦争が激しくなってくると、その留守部隊から新たな部隊を編成していきましたが、個々の兵士がどこに出征するかはその部隊がどこに派遣されるかで決まりましたので、個人的な条件で出征先決まることはありませんでした。(ただしこれは一般兵士のことで将校は違いますが。)

ogikuboman
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  • roroko
  • ベストアンサー率38% (601/1569)
回答No.1

今晩は。 うろ覚えですが、出征先が決まると言うより、出征する連隊の構成が同郷人を主に集めたものだと言う事です。 つまり、個々の適正と言うより、師団長や、連隊長の政治力が物を言ったのではないかと思います。 但し、所謂、共産主義者等の反政府の疑いがある人なんかは、最前線に送られたと聞いたことがあります。 また、終戦直前になると、遠方へは、同郷の連隊が行っていても、派遣が不可能になり、近場の連隊に行く事になったようです。 間違っていたら御免なさい。

ogikuboman
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