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読点が多すぎる文章について

読点は文章を読みやすく、また、語句のつながりを明確にする目的で筆者が適宜入れるものだと思っています。 また、一方、「筆者の側から読み手にわかりやすく」という観点は、「筆者の側の驕りである」という側面もあることから、例えば、「会葬御礼」や「役員変更のお知らせ」などフォーマルな文章では、先方に失礼のないよう、一切読点を使わないという習慣もあることを知っています。 読点を入れすぎた文章は、読みにくいばかりでなく「相手に失礼である」と、私は考えているのですが、私のこの考え方は間違っているのでしょうか?

  • funoe
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  • a-sa-ki
  • ベストアンサー率9% (2/21)
回答No.1

考え方は自由、ですね。 それも規制される世の中に進んで… と、置いておきまして 私は詠みにくいのは分かりますが、失礼であるとは考えません。 例えば、文法的なのは無視して、感情的に文を作った場合、句読点無しでは伝わりにくいかもしれません。 感情文大いに結構。 そんなことで私の場合は、失礼だとは思いません。 ただ、社交・社外文書等で目上の方に提出する文なら失礼だと思いますが。

funoe
質問者

お礼

ご意見、ありがとう、ございます。読点が、多すぎると、文章が、読みにくいことについては、どなたにも、同意いただけることで、今回の、論点では、ありません。 例示したようなフォーマルな文章では読点を使わない習慣があるそうです。そのことを知った際、「読み手は、読点といった補助を必要としない方々であるため、余計な補助をするのは失礼であり、敬意として句読点を省く」と聞きました。2番さんご指摘のように、文語体表現の名残りがあるのかもしれません。 このことから、逆に、読点の多すぎる文章は礼を失するものと考えてしまっていたのですが、どうやら、考えにすこし、飛躍(悪い意味の)があったようです。考えを改める必要があるのかもしれないと思い始めています。 (でも、このコメントの最初の文って、読みにくい以上の違和感ありませんか)

その他の回答 (2)

noname#33452
noname#33452
回答No.3

そうですね。 私は、わりと濁点は、多い方だと思います。 ただ、ネットでは、必ずしも文字の大きさが決められない、相手によって、小さい場合もあるので、全く濁点や改行をつけないよりは、いいと思っています。 濁点を全くつけないのは、相手に読ませる気がない、失礼である、と思っていますが、濁点が多いのは、書く人のセンスなので、失礼かどうかは、また違っていると思いますよ。 お礼・補足コメント希望で、ポイントはご自由に。

funoe
質問者

お礼

ありがとうございます。 1番さん、2番さんのお礼にも書きましたが、誤解していた部分を訂正できました。 過剰な読点の使用がマナーとして失礼だから違和感を覚えていたのではなく、過剰な読点の使用は文章をわかりにくくし、つまりは、書き手の読み手に対するサービス心が感じられないことに不満を持っていたのだと気付きました。 皆さんのご意見はどれも有意義でしたが、ポイントは先着順とさせていただきます。ご容赦ください。ありがとうございました。 (うっかりの書き間違いと思っていますが、議論しているのは読点で濁点ではないです。)

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.2

>「筆者の側から読み手にわかりやすく」という観点は、「筆者の側の驕りである」という側面もあることから、 「読み手にわかりやすく」というのは、「驕り」ではなく、誤解の無いようにという事だと思います。 語順の問題もありますが、読点を打たないと修飾語の関係から違った意味に取られる可能性があるということがあります。こうした、誤解の起こらない場合は、敢えて読点は打たないというのが、読点の基本的な考え方だと思います。 また、フォーマルな文章に句読点を打たないというのは、そもそも明治まで句読点を打つという習慣がなかったということに由来していると思います。決して、驕りと取られるからではありません。文語調は、漢文の読み下しを基としているので、読点を打たなくても漢字と仮名から文意を判断することは、十分に出来るからです。 読点の入れすぎは、読みにくいということには、同感です。

funoe
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 1番さんのお礼にも書きましたが、、「読み手は、読点といった補助を必要としない方々であるため、余計な補助をするのは失礼であり、敬意として句読点を省く」と理解していたため、過剰な読点を失礼と感じていたのですが、「読点を使うこと」と「過剰に読点を使うこと」を自分自身で曲解していたようです。 皆さんのご意見のおかげで自分の考えの誤解に気付けました。 ありがとうございます。

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