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読解とは

読解とは、文章全体を文法と各単語が持ついわば辞書に記載されている意味、さらに各文の有機的繋がりから正しく理解することであると思います。しかし、言語の文字情報になっている以上、表現されている以外の書き手の具体的意図やイメージは失われていますね。 一方、読み手側では、あくまで言語のみでの論理的理解と、具体的イメージの想像(文字情報を基に読み手が映像を再構築すること)とでは違いが大きいのではないか思うわけです。前者は文章に忠実で誤解はない理解ですが、創造性に乏しく書き手の真の意図等を把握することが出来ない可能性が大きいのに対して、後者は発展的で創造的な読み方と言えそうですが、読み手の過去の記憶により大きな誤解を生む可能性が大きくなると思うのです。 さて、読解とは、理想的に脳がどの様な処理をすることなのでしょうか。

みんなの回答

noname#184205
noname#184205
回答No.2

ずいぶん堅苦しく考えておられるようですが、基本的には間違ってはいないと思います。 ただ、「言語のみでの論理的理解」は読解とまでは言えないでしょうね。 文章に限らず創作物によって何かを表現し、そしてそこから何かを理解しようとする場合、誤解や誤差が生じるのは当然の事です。 作者が側に付いていちいち解説してくれるのでない限りね。 これは、作者の文章力や読者の理解力も要因でしょうが、文化的基盤の違いが大きな物でしょう。 では何によってそれを補完できるかといえば、その作者の著作物をより多く読む事、暮らした時代や国などの歴史的文化的背景を知る事、同時代の著作物、特に交友のある人物の物、などを知ることでそれを埋めていく事は出来るでしょう。 以前何かで読んだのですが、英語圏の文学を本当に理解するのには、聖書やシェークスピアの理解が必要だそうです。 しかし研究者でもない限り、そこまでやるのは難しい事ですね。 勉強や研究でなければ、子供の頃に読んだ本を、大人になって読めば違う物が見えてくるように、解釈の違いを楽しむというのも有りだと思いますよ。 まあ勉強などでも、たった一つの意味を正解としてしまうのは、あまり感心しませんが。 さて読解とはですが、今風に言うなら、脳内で作者のバーチャル像を作り、その思考をシミュレートする事、なんていかがでしょうか。

bananasand
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >脳内で作者のバーチャル像を作り、その思考をシミュレートする事、なんていかがでしょうか。 素敵な読解ですね。共感します。まさに、文学、芸術での読解ですね。 読解とは何かを考えるとき 「猿も木から落ちる」 と読んで、文字通り一般概念の猿が一般概念の木から、物理的に落下することを表していて、これで一応の読解は完了だと思うんですね。 少なくとも間違いだとは言えませんね。 しかし、諺として 如何に得意なものでも失敗する事があるという事 を表している訳ですね。 文章全体から解釈するのでしょうが、猿が木から落ちるという現象は直接意味しておらず 間接的な諺の意味を採用しなければならないのですから、高度になればなるほど読解の概念が曖昧になってきますね。 とすると、確実に文章を把握するためには、文字データを脳がどの様に処理することが理想なのかと思うんですね。

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.1

冒頭のあなたの説明はまちがっています。 そのような杓子定規な「読解」では文章の行間を読むこと によって真の理解を得るというような本当の意味での読解 は成り立たないでしょう。 学校の国語教育でのテストで細かいところを弄り回す弊害 が如実に表れていると失礼ながら読解しました。

bananasand
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 なるほど、行間を読むことが真の理解を得ることが読解ですね。 具体的に如何に読めば行間を正しく読むことができるのか その方法を教えて頂きたくお願い申し上げます。

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