• 締切済み

覚悟を持ち得るには

 私はある覚悟を持てないでいます。  その覚悟とは、ある使命に命と今後の人生を賭けることです。 理由があり具体的なことはお伝えできませんが、自分以外の命を危険にさらすことなく、他者の命が不本意に不条理に消えるのを防ぐことです。その使命とは、誰かがやらなければならないことであり、しかし絶対的に不可能といえることであり、かつ行為自体は正しいと言い切れうることです。  私自身、自分の思うこの使命は正しいと信じていますし、人から間違っていると言われたことも一度もありません。(おそらく皆さんにお話しても内容を正しいと思われない方は至極少数だと確信します。ご回答頂ける際には正しいことだと判断した上でお願いします)ですが「何故私が」と、どうしても考えてしまいます。ほぼ間違いなく不可能なことなのです。「死にたくない。死にたくない。死にたくない。幸せになりたい。だけど、死なせたくない。皆が幸せであってほしい。」と心の中で二人の自分がいつも戦い続けています。必ず死ぬわけではありません。しかしリスクは桁が違います。私は死にたくありません。ですが、死なせたくもありません。  私は、過剰共感体質です。他人の心痛を他人のものとして、受け流すことができません。おそらく異常だと思います。新聞やニュース、実際に見たもの等、毎日の生活の中でたくさんの人が苦しみ、死んで、殺されたのを見ます。私はその苦しんでいる人、無くなった人、その家族等たくさんの立場に自分を置き換えて苦しみます。自覚的にではなく、気付くと胸がどうしようもなく痛くなっています。頭が痛くなります。当事者の視界で想像しています。車に爆弾を積み自爆するテロリストにも、そうされる軍人にも。一度、幻覚を見るようになったこともありました。戦争で怪我をし、栄養失調で異常に膨らんでしまった腹部と枝のような手足をした黒人の子供が、指をくわえながら、虚ろな薄くなってしまった眼で、私のほうを見続けていました。起きていても、夢の中でも、彼は私を見つめ続けていました。何も言わず見つめ続けていました。何も言う必要が無かったのでしょう。何年か経った今でもその顔は、はっきりと浮かんできます。理由はおそらく世界を少し知ってしまったからだと思っています。  私がこうしてパソコンにむかっている間にも、勝手に悩んでいる間にも、私はその自覚無しにおそらく世界のどこかで未だ見ぬ誰かの命を消す手助けをしてしまっています。私は今まで、一体何人の顔も知らない誰かを殺してきたのでしょう。いくつの家族を不幸にしたのでしょう。日本という国に生きる私は、その存在の存続そのものが「殺すこと」と同義であるのだと気付いてしまいました。  正直に言って、知りたくなかった。そんな咎に気付くことなく、ただ自分とその周りの命の幸せを願って生きていきたかった。ただ日々の平和を願い、生きていきたかった。  しかし、私は知ってしまいました。私は、それを無視するには心の器が小さすぎます。しかし、私は、私たちは、圧倒的に非力です。  ですが、やはり咎を背負ったまま、何の償いをすることもなく、何食わぬ顔をして生きていくことはできません。苦しすぎます。それは自分のことです。ですが、死にたくないのです。「何故私がしなければならないのだ」と考えてしまいます。どうしても考えてしまいます。  多くの人は自分の幸せを純粋に望んでいるように見えます。それを良とし、疑わない、世の中です。不都合なことは「存在させない」世の中です。私も突き詰めれば贖罪願望を満たすという幸せを願っていると言えるかもしれません。しかし、それは詭弁ではないでしょうか。「価値観の違い」と言う絶対の剣を、相手の喉元に突きつけながらの理論ではないでしょうか。それは卑怯ではないでしょうか。  本当はわかっています。「何故私が」ではなく、「誰かが」ではなく、「私は」だという問題であることを。他人や世の中を責める自分の醜さも、臆病さも、幼さも、本当はわかっています。こんな自分が一番恥ずかしくて、一番憎いです。本当に憎いです。  だから皆さん教えて下さい。自分で答えを見つけられない私に、どうか力をお貸し下さい。どうすれば、覚悟を持ちえられますか。 長文読んで頂きありがとうございました。

みんなの回答

  • tama1206
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回答No.23

「人から間違っていると言われたことも一度もありません。」  この一文を見て・・・  引く人、社会勉強足りないな、と思う人、なに肩肘張ってるの?  とおもう人、いろいろ感じると思います.  首相や自治長、医師、教師だって間違えることもある.  大事なのは「その後どうしたか」です.  間違っていると言われたことがないのは  言われないようにしているか、あなたが周りから受け入れられてない  だけです.  間違いや失敗は人間を成長させます.  もっと広い視野を持ち、間違えたり失敗したりして  右往左往することを楽しんでみては?  意外な自分が発見できるかもしれませんよ.  iphone生みの親である、ジョブス氏  ips細胞ノーベル賞の山中教授  楽天 星野監督(優勝)も  間違いと失敗を重ねてあのようなサクセスを得ることができたのです.  参考にして頂けたら幸いです.

回答No.22

 キーワードは、生きている実感。存在感。 この世に生まれ、この世に受け入れられていると言う生存感なのでは? ご自分の生存感を必死で求められているように思えます。違っていたら、ごめんなさいね。  確かな生存感が、人様への共感、人様への支援でしか感じられない心理構造なのかもしれませんね。でも、不自然な共感や使命感では、相手の心に沁みません。  昔、記憶も定かでない頃、ご自分の生存感を失ってしまうような、喪失感を伴う何かの事件があったのだと推察します。その後、小さな共感、小さな支援の中に、生存感を再発見する出来事が起こり、それが癖になった。ところが、その感覚も段々麻痺していき、より大きな共感、より大きな支援にエスカレートして行かれたのでは?  私は、3歳の頃に、そのような体験がありました。ずっと忘れていたのを、大人になってある出来事をきっかけに思い出しました。  問題は、より大きな共感や支援を探す事でなく、最初の喪失感を引き起こした事件です。何が起きたのか、勇気を持って正面から見つめ、思い出す事です。その事件を忘れようとすればするほど、その事件は、無意識に押し込められたまま、気付かないうちに、貴方の心を支配します。この支配から逃れるには、その事件を無意識の下から引きずり出し、明白な意識の下で飼い馴らす事です。  これには、かなりの心の痛みが伴います。その心の痛みを和らげる方法があります。「心のリセット」と私が名付けている方法です。具体的には下記のURLをご覧ください。 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page002.html  痛みを和らげながら、その事件を大人になった目で、見つめ直して下さい。その責任者を恨んでみても、心の問題は解決しません。その事件の責任者が何故そのような仕打ちをしたのか、そこには、どんな背景どんな事情があったのかを考え、そして、許す事です。

回答No.21

読まれる場合は 上からまず見ることになりますので、 続けて書くことになった経過を 3回目の ここに書いておきます。 もしかしたら、ANO19とANO20は、そちらの質問への回答として規則違反(質問要求の条件付けを満たしていないという意味で)をしているかもしれません。 >… ご回答頂ける際には正しいことだと判断した上でお願いします)< という部分に対してです。 でも すぐつづく部分の文に、 >ほぼ間違いなく不可能なことなのです。「死にたくない。死にたくない。死にたくない。幸せになりたい。だけど、死なせたくない。皆が幸せであってほしい。」と心の中で二人の自分が<  とあり、とてもおだやかな状況ではない想像が生まれてしまいます。 それがANO19と20の文に ついなってしまったあたりは年寄りの心配として大きな目でご理解いただけると幸いです。 しかしながら、文明社会のこの世の中の軌道はめちゃくちゃ複雑ですから、あくまで それがなんであれ、そちらの決められたことをそのまま信頼し応援する形での回答にすべきなのかなとも 思えてきています。 >日本という国に生きる私は、その存在の存続そのものが「殺すこと」と同義であるのだと気付いてしまいました。  正直に言って、知りたくなかった。そんな咎に気付くことなく、ただ自分とその周りの命の幸せを願って生きていきたかった。< という極端に思える情勢キャッチの仕方についてですが(これが 心配の下ともなってしまってもいるわけですが)、  ここに私が連想するのはまず過去の戦争中の日本の姿です。 というのは、私は子供の頃、あの南京の大虐殺(中国の捕虜を何十万人も生き埋めした事件)の当事者だった方から 直接のその当時のお話を聞いたことがあるからです。 最初は、虫も殺せないような素朴な青年の多かったその頃の日本の兵隊達が、やがて目の前で友が殺されていく姿とかの中で徐々に 神経自体から変わって行く様子を 彼はわたしがまだ小学生なのに詳しくリアルに語ってくれました。 平和時とそういう極限状況の神経の違いとして、彼自身が足の骨が折れたまま何千里も歩いてから気がついたというお話もしています。 やがて、南京の現場にては、自分達よりもはるかに多い捕虜達が その時一斉に低い声でうなり始めたのがきっかけとなったそうです。 大陸の歌は、ホーミーの高い声の下地として歌われる声が大地から生まれるような重い響きがあり力がある世界だったりします。  そんな声が民衆の魂の怒りの声として、膨れ上がったのでしょう。  何十万人もの敵をつなぎとめる責務をおった状況下での恐怖が そのときに爆発し、だれかが、飛び出し、捕虜をひきづり、威嚇し銃殺したりしたことが引き金となり とうとうなだれ現象が起きてしまいます。 その人自身も 威嚇的に女性も子供も見境無く、おどしつけ穴を掘り有無を言わさず生き埋めにしたのだそうです。 平和な神経に戻ってみれば すべて自分自身信じられないような事をしてしまった体験をしてきたというお話でした。 それほどの状況下になぜその上恐怖にすべての人がとらわれ飲み込まれていってしまったのか?  流されていたらどんな人も間違いうる人間の弱さを私はここに見ます。  私自身も同じ状況を生きていたらそうなってしまったでしょう。 本当のところはわかりようがないですが、たぶん誰もがそうなってしまったと思います。 双方の当時者の苦しみの本当のことはやはり神様にしか解らないところでしょう。   しかし、兵隊さんたちが悪いのではないとも言えますし、これは、それでも日本人であること自体がその時罪を問われる自体の中にあったとも言えてしまいます。 そんな中、戦争に反対した少数の命がけの主張や行動には、まさに 今のそちらの文言を想像してしまうところです。 私の知っていた方に、その状況下に戦争反対を唱え、牢にも入れられ またほんの1日の差で軍部の大量虐殺の餌食になるところだった人がいましたが、その人は平和になった社会にていざ死の床に、 「中国の人に悪いことした悪いことした」と うわごとで泣きながら死んでいったんです。 かれが兵隊だったのではないのにです。 日本人としての連帯責任をこんなにまで深く命の奥に叫んでいた人もいたのですよね。 戦争中は、多くの人がその構造に気がついていなかったと思います。 今何か そちらは、それがなんであれ そういう大きな問題と関わるものに気がつかれたということなのでしょう。 そのお心の純粋さは 応援します。 仲間も簡単には作れない世界なのでしょう。    が、ひとつだけアドバイスさせてください。 それは行動しながらも勉強は続けることです。 その行動関連でもいいですから出きるだけ広く総合的な角度から考えながらです。  その重みが恐怖を少なくし、その分冷静の落ち着いて自分の身も守れますし、行動も正しくコントロールしてゆけるからです。   あたりまえのことでしょうが、 事業を起こすような人間全体への思いやりと関わるような行動をする人は常に勉強を怠りません。  そこがこの質問への回答としても鍵であるかと思います。 せっかくの平和時なのですから、流されるのではなく、より多くを「希望」に向けて集めるための行動であるべく もっともっと勉強しよりよい情報を集めて行くこと、 これをいそがしいワーキングプアの身の老人からのアドバイスとさせていただきます。 書きたいことは そのへんからたくさん出てきますが、 まずは、これをもって もし読まれる機会がそちらに訪れることを祈りつつ筆をおかせていただきたいと思います。

回答No.20

つづけます。 この世には>絶対的に不可能<と思えるような世界問題はたくさんあります。 でも「板垣死すとも自由は死なず」ではないですが、自分は死んでも教育や協力の力でいつかは真実が実現するという確実な道筋は 知恵があるならまた考えが深いならばありえると信じれるところまで 考え抜くべきだと私は思っています。 私は はっきり言って のたうち回って神をのろったことがあります。あらゆる苦痛の因の因を考えるとその因は神に行き会ってしまったからです。 「神よおまえこそ悪魔だ」と。 酒のんで血をはいて、叫びながらです。   叫び疲れてぐたっとした時はもう何も考えることはできませんでした。 でも静かな空間の中で私は「やっぱり なにも解らない、 解らないよう」と弱弱しく言ってましたけどね。 ただし、それは間違っていました。泣いてるのは何よりも泣いてるのは神でしょ。 助けてくれを誰よりも叫んでるのは実際にすべての人を知ってる神でしょ。 その知性でしょ。   私たちは自分達の想像力の小ささを理性的に客観視する努力が必要な生き物かもしれません。    自分も善悪因果に 木の葉のように小さな存在。   其の中で善への強い意志を持ったならば、生物としての弱さの自覚のうち(無理すれば其の意志も失ってしまう可能性もある弱い存在、 みんなが あるいはほとんどの人が強くはない。)に、けだし、 闘うべき道はたしかにあると思います。 其の責任の自覚は大切だと思います。 でも その時、 私たちが闘い続け 勇気を持ち続け、前進しつづける道はけして無限ではなくても、 山のようにあるはずです。 そして山のようだからといって迷うと言う世界でもなく、歴史にてその道はそれぞれ見つかる課題であったりはします。 一つは 薬の問題です。 薬が私たち人間という生物の健康を蝕む部分の大きいことへの責任を医療関係者が大きく無責任となっている状況は、実はそれ以上に おそらく神にとっては苦痛の大きさを もともとの設定よりもはるかに大きくしてしまってることが問題であるだろうと私は思っています。   早くと言えば これも本当は一刻も早く解決しなければならない問題のひとつでしょう。 しかし、今の文明社会にとっては、すべからく総合的に考えて行く必要のある問題群がたくさんあり、すべては簡単ではないことと思います。 それと、また別なそちらのお考えへの危惧ですが、もし誰かが“身代わりということが 其の時点で正しい行動だ”と思っているならば、 其の行動は神にとっては あるいはすこしでもリアルの人間の苦痛を自分の痛みをして考えることの出きる想像力のある脳にとっては、 同じくこの世にあってはならない苦痛がへたすれば、さらに増えるだけだということも 私たち人間の知性が忘れてはならないことだと思います。 犠牲は 闘いからのかっこいい逃げであることもあるかと思うのです。 そのへんの危惧も感じてしまいました。 そして最後に もうひとつ付け加えておきたい疑問もあるのですが、 行動に恐怖を感じるのは、 成功への道に問題がある場合があるという点です。 高所恐怖症の人は 私がそうだったのではっきり解りますが、実際に危険なのです。 用心深いからその文むしろ大丈夫なんていうような状態をこえたバランスの失いかたを 高所ではしてしまうのです。    克服するには 重いものを高所で持つ事これしかないです。 詳しい理由はともかく、それが故にあの鳶職の人たちは高所でも地面と同じ状態にて 安定した心で注意深くあれるのです。   恐怖を感じるということには、少なとも人間の仕事の正しさということならば、実行の正しさという地点の問題とするならば、 まだ 問題ありの地点である可能性はあるということです。 場合によってはですが、 再考してみるべきところなのかな?と思えてしまったので、 さしでがましいようですが、  私も闘う同志として、口を挟ませていただきました。 闘うべき地点は山のようにあるということです。 が、無限でも絶対的不可能の世界でもなく、自分には出来ないかもしれなくても自分もやるべき世界、気がついたら行動すべき世界であり、  いつかは必ず その日は来ると 信じるべき世界です。   でありつつ「今」の私たちの問題です。  そう思います。 わたしは、現在61歳の現役肉体労働者ですが、 お話してみたいことはたくさんあります。  でも まず、 心配な点として、今日書きましたことに、もしさしつかえないようでしたら、  心配しないでもいいようなコメントがいただけたらなと、思います。

回答No.19

きょうは8年の10月30日です。(^^)。 その2時2分にElernalvowさんと言う方が「本当の優しさ 思いやりとは」という質問をされていて、 其の中でこちらのURLの紹介があり、  全文を読ませていただきました。 いくつか疑問がありますので補足質問させてください。 もしお差し支えなければ、お差し支えない範囲でお答えくださるとうれしいのですが、よろしいでしょうか。 * 通常は 起業するような時にそのような大きな覚悟を意思決定時や計画時にともないます。 それが大きな理念による事業であるならば、 >他者の命が不本意に不条理に消えるのを防ぐこと< という行動の決意と関わることもあるかと思いますが、    そちらのその前段の文 >自分以外の命を危険にさらすことなく< という文から受ける感じは、 起業における決断ではないのでないかと想像させられます。 其の場合は、他人をも巻き込むリスクを、費用と時間で計算しておいてあとはやってみるしかないという状態にての計画行動への決意となります。 勇気ももちろん必要ですが、さらなる計算が必要なだけとも言えます。 其の時は 明らかに人を巻き込むのですから、逆にその行動が価値の高い理念からのものであっても(人の命を救うような事業であっても)、計算で他人の命までをも危険にさらすような、あるいはそれと同等かそれ以上の危険があるような時には、人間性を深く問うならば「「間違いである」」といえてしまう決断です。  それでも実行するのはおそらく起業病というやつですね。 であれば、そちらの決断にともなう覚悟とは何なのだろう?と考えると、 いろいろ心配にもなってきたりもします。 それ自体については、都合でお答えできない事情がおありであるわけですが、  となるとなおさら、やっぱり そのへん考えてしまいます。 そちらのコメントで 善悪両面極端なことの多いアメリカの例を掲げておられるところがありますので、  そのへんを例に極端な推測をするならばですが、    アメリカへの講義の自爆テロですら、そちらの書かれている「人への憎しみと愛」という抽象的表現は当てはまってしまいます。 事実アメリカとそれに加担する日本は、世界に大きく不平等を創っている部分があり、 不平等の中身は、それを深く想像できる人にとっては奥の深い不条理なる苦痛、あってはならない叫びを聞いてもおかしいものではないでしょう。 が、たとえば、そうしたグローバルな権力の関わるまた政治のからむ利害に操られてる問題は、実際には大きくは「北風と太陽」とどちらを与えればそれは変わりうるかと言えばあくまで相手が北風さんという名の人間だろうと実は人間なんですから、太陽のみがその間違った服を脱がせることができるのです。  イソップ童話のたとえ話は、実行に移されてこそ価値があるのに歴史がそれをやってこなかったことの重みはあるかもしれませんが、 この単純な真実はゆるぎのない確かな人間の道の方向性です。 太陽は 大地はそれが恵みを与える部分にしても、すべてが厳しくないというものではないように、 厳しさも必要なの時もあるにせよ、 与えるということが基本で、 それ抜きの闘いは無駄死を予測させてしまいます。 テロリストの行動は北風の行動や それを伴う抗議の行動ですから それ自体は非難されるべきところ、 その行動にいたった北風なんてものではない不平等の扱いの世界への抗議ですから、 これを憎しみの連鎖の問題として鎖を断ち切る太陽をここに必要とする という問題であるわけです。 あくまでも 上の例は、たとえ話ですが、 何かそれに近い行動をしようとしているならば、 「長い目」で闘ってゆくという客観視も必要な時があるかもしれない、それを感情の強さから見失ってはいないか? という危惧が生まれてしまいます。 (書ききれないので 二回に分けます。)

回答No.18

貴方には未だ分かっていない事が有るからです、人生も自分も。それは無理も無い事です。人間は幾つになっても、それが分かり難く出来ているからです。 貴方は、自分の生き方を、人に聞こうとしています。それは出来ない事なのです。誰からも教えてもらえない事を、質問しているからです。あくまでも、自分で見つけたり、自分で気がつかないといけない事だからです。 多分、分からないと思いますが、言いましょう。 貴方は、自分を捨てなければ、何も手にする事が出来ません。貴方が全てを手放した時には、貴方は両手にも、心にも、沢山のものが、あべこべに、入ってきます。貴方が自分を捨てた時に、貴方は本当の自分を手に入れる時です。その時には、貴方の欲しいものは、全て手に入ります。それは、論理的ではありません。貴方は「分別」を捨てたほうが良いのです。人生とは論理を超えた処に、本当の論理が在るからです。

knighten
質問者

お礼

 まず何より先に、心よりお詫び申し上げます。お礼が大変遅くなってしまいました。本当にすみませんでした。そして、本当にありがとうございます。本当に嬉しいです。 数ヶ月の間回答がなく、本来ならある程度の期間が過ぎたら質問を閉じるべきだと思ってはいたのですが、万が一また誰かが回答してくださるかもしれないと一部の望みを抱いて、この質問を閉じずにいました。にもかかわらず、三か月を過ぎた辺りから回答の確認をしなくなってしまい、このようにお礼が遅れてしまいました。本当にすみませんでした。  tumaritouoさんの回答読ませてもらいました。正直、驚きました。そういうことなのか、と思いました。確かに、仰る通りであるならば、自分を捨てられていない私には何も手にすることはできないはずです。自分にとっての幸せを勘違いしているのだから。そしてtumaritouoさんは、経験者であられる。ならば、そういうことなのなのでしょう。つまり、「立ち止まるな。こうなってしまった以上、もはや知らなかった頃には戻れない。道は前にしかないのだ。本当の幸せはそこにだけあるのだ」と。間違っていたらすみません。  これが解答なのかもしれませんね。確かに、そう、思います。本当に考えさせられます。まず考えてしまう私がいけないのだとも思います。そう思いつつも、貴方の言葉の意味をもう少しだけ考えたいと思います。突然に少し開けたしまった目の前の道に、足がすくんでいるような感じです。  本当に久しぶりに頂けた回答で、しかも経験者の方のお言葉で、正直動揺してしまっていて、文や内容がおかしいところもあると思います。失礼なことを言ってしまったならば、本当にすみません。ですが、本当に回答して頂けて嬉しかったです。本当にありがとうございました。

  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.17

覚悟とは、覚悟できないから必要となるものであり、覚悟を与えるものは自分を超越したものでなければならないのではないでしょうか?それゆえ、自らの思考により、覚悟が必要となった(つまり演繹的に覚悟が与えられた)質問者様は、自らの思考に端を発するがゆえ迷われているように思います。 子供を育てる親の覚悟は自らの思考により与えられるものではないでしょうし、国を変えてきた人たちの覚悟も、運命を敏感に感じ、時代に突き動かされて作られたものであったりするのではないでしょうか? おもうに、覚悟を得る1つの方法は、ここで議論していろいろと他の人の意見を聞かれているように、友や同士のような人を見出すことではないでしょうか?そして、時には共感により、時には互いに切磋琢磨する中で「覚悟が与えられる」のではないでしょうか?他者を前提としない覚悟は旅の始まりなのかも知れませんが、それだけで旅を続けるのは、ご質問の通り大きな困難と自己矛盾をもたらすように思います。友や同士がいて、覚悟自体を目的化することなく目標に向かって進むことができればすばらしい旅になるのではないでしょうか?それに、自分ひとりではできないことも大勢いればできますしね。

knighten
質問者

お礼

後半です。  正直に言って、まだ私は私の必要とする覚悟を持ちえていないし、もしかすると、必要となるまさにそのときまで逃げようとしているのかもしれません。ですが、この罪と責任を忘れる日が来ないことは確信しています。ふとしたときに思い出す毎日です。だから moumougooさんのおっしゃる通り、これから来るまさにそのときまでに、友や同士を見つけられるよう、探していきたいと思います。目標に向かって進める旅にできるように。理想で終わらせないために。  あたたかく前向きなmoumougooさんの意見にとても勇気付けられました。本当にありがとうございました。 

knighten
質問者

補足

前半です。  解答ありがとうございます。  まず、お礼が遅れてしまったことを心よりお詫び申し上げます。本当にすみませんでした。もう新しい解答を頂けると期待していなかったので、しばらくパソコンから離れておりました。解答していただけて本当に嬉しく思います。ありがとうございます。 >運命を敏感に感じ、時代に突き動かされて作られたものであった。  確かにそうかもしれません。ある種の衝動が沸き立ったのだと想像しても、なんの違和感もありません。とすると、擬人的な言い方をするならば、「時代に、国に、選ばれた」と言えるのかもしれません。私もこの表現がおかしなものであるとはとても思えません。しかしこう考えてしまうと、心の弱い私は、強い衝動がまだ沸き立っていない私は選ばれておらず、ならばやらなくてもよい・・・などと納得はしなくても考えてしまいそうです。だから都合よく考えて、私も選ばれたのだと、これから確信するのだと信じようと思います。幸い、計画としてもまだ命を懸けなければならない段階ではありません。 >友や同士のような人を見出すことではないでしょうか?  確かに。本当にそう思います。一人では恐れてしまうことも、不可能であることも、大勢の力と意志があれば、勇気を持って挑むことができるのだと思います。  実は、私の友人に一人志を同じくする者がいます。彼は私とは異なったアプローチをしようとしているのですが、本質は同じです。だから、私も彼にこの迷いと苦悩を打ち明けようと何度も迷ったのですが、皆さんも私の文章を読んでいただいて思ったとおり、こんなものを聞かされても彼にとっては何のプラスにもなりません。彼に余計な重荷を背負わせたくありません。ですから私は、彼の力を借りることなく、なんとか解決しようと思い、やっとのことでたどり着いたのがここでした。皆さんにたくさんの真剣な意見を頂くうちに、以前の私がいた場所とは少しだけ進んだ場所に、今はいると感じられている気もします。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.16

はは、私と同じでknightenさんも頑固ですね。 私も別な意味で世界を変えたいと思ってますよ。 いつかその日が来るまでお互いがんばりましょう。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.15

お礼ありがとうございます。 覚悟を持てない理由は恐怖だけじゃないと思いませんか。knightenさん自身、納得できる合理性がイマイチ感じられていないじゃないでしょうか。私が思うにその理由は、knightenさんの判断基準が感情によるところが大きいからだと思います。良くも悪くも感情次第という部分が多いんじゃないでしょうか。誰でもそういうところはあるんですが、それこそ客観性で理性を保っているんじゃないでしょうか。確かに人間から感情を取り除くことはできませんが、だからといってそれがすべてじゃないですよね。それ故に覚悟ができないというジレンマに陥っているんじゃないでしょうか。 私が感じた変だなと思う事について記載します。 >自分にとって何が真実で何が使命なのかは、私の知りえた情報と、貯蓄してきた経験、おかれている状況、今後の予測、そして今の私の感情によるものだと思います これでは真実とはいえません。目の前にパソコンがあるかどうかは経験や予測の問題ではありません。 >優しさのあるべき姿が前述したようなものであると信じています 理想と事実の乖離を感じます。なぜ優しさを語るのに”べき姿”などという言葉が出るのでしょうか。花に水を与えるときに自分のあるべき姿を想像しながらその行為をするのでしょうか。だとしたらひどく邪悪じゃないでしょうか。 >私は私の理論を信じています 理論は事実じゃないですよね。信念も恐怖が根底にあるのだから事実じゃないですよね。目の前のパソコンがあることはknightenさんの理論でしょうか。信念によって具現化されたパソコンという物質でしょうか。 >役に立たなければならない。 これは理想じゃないでしょうか。事実ならなぜknightenさんはためらうのでしょうか。事実なら即、役立っているはずじゃないでしょうか。目の前で溺れている人がいたら、助けるんじゃないでしょうか。質問にある”ある使命”と目の前で溺れている人を助けるという事の違いは何でしょうか。 >純粋に心から願えていないのは明らかです。私の弱さですね 自分の弱さを言い訳にしているじゃないかなと思います。つまり別の理由があるのではないかと。 やっぱり私には、knightenさんが感情に振り回されていると思います。 過剰共感体質にしてもある日突然なったわけではないのでしょう?変な言い方ですが、反復というか練習のようなものをしたんじゃないですか。 人の為に何かをするのはいいことです。しかし、このままだと自己満足なのではないかと悩む日がいつか来るんじゃないでしょうか。或いは覚悟ができない理由は自分の行為が自己満足なのではないかと感じているからかもしれません。 ”助ける”と”助けるべき”は結果は同じでも、まったく異質なものと思います。

knighten
質問者

お礼

 (後半です) >別の理由があるのではないか  まっとうな理由はありません。「私が弱い」という事実があるのみです。 >反復というか練習のようなものをしたんじゃないですか  はっきりとは覚えていませんが、したのではないかと思います。正しい人間でありたいと幼いころからいつも思っていましたから。そして私は、正しい人間とは、本当の意味で優しい人間だと考えるようになりました。厳しいのも、強いのも、全て優しさであると。そして私は、優しくなるには相手の痛みをより相手のものに近く、つまりリアルに感じることが必要であると思っていたので、意識的にはしていませんが、気付かぬうちに想像していたような気はします。  おそらく、人間の意図した全ての行為に、客観的に自己満足でないものは存在しません。合理的な理由があっても、合理的な理由で行動したいという自己満足です。最終的に突き詰めれば「~たい」となります。「~する」という行動も、意図してないのであれば「なんとなく」です。ここまできてしまうと、もはや言葉遊びです。言葉遊びに価値はありません。  ですが、私がしたいのは自己満足の議論でも、理想と現実の議論でもありません。なぜなら、誰かがいかなる意図を持って命を助けたとしても、その命が健全に続くのであれば、そこにこそ価値があるからです。例えば、あるマフィアが奴隷にする目的で苦しんでいる人々を拉致して、帰途に着き働かせようとした時に、気が変わってその人たちを自由にし、その人たちが健全に生きるなら、何もしていない人間よりもそのマフィアの行動には価値があると私は思います。意味を求めているのは我々で、苦しんでいる人は意味など求めていません。必要なのは結果です。意味を求めるのも、意味がないと覚悟できないのも、我々の弱さです。それこそ自己満足だと思います。だから、決断できていない私は未だ自己満足の領域です。が、それでも命を助けられれば構いません。 いろいろなご指摘感謝します。考えをもう一度見直すことができました。

knighten
質問者

補足

 解答ありがとうございます。お礼遅れてすみません。(前半です)  納得できる合理性ですか。おそらくないでしょう。目的が不可能であることと、責任が私だけにあるのでないことを考えれば、合理的な納得はしようがありません。例えば、日本人全員に環境再生税とか飢餓撲滅税とかを課すなら、今の私のような迷いはありえないないでしょう。ある狭い意味で公正さを感じますから。  しかし、それはやはり言い訳だと思うのです。やらなければならないのはどういうふうに考えても事実ですよ。客観的論理性をなくしているのは、我々なのです。してはならないことをしているのです。例えば、人は子供たちに「自分がされて嫌なことは、他人にもしてはいけない」と教えますよね。そこには、人種や場所、文化や宗教などを超えた、それこそ普遍性があるはずですよね。そこに「人種や場所、文化や宗教によっては考えなくてよい」などというふざけた教えがあるでしょうか。ありませんよね。あってはいけません。できていないのは、客観性を欠く私たちなのです。  shift-2007さんのご指摘に私なりに答えたいと思います。 >目の前にパソコンがあるかどうかは経験や予測によらない。 そうですね。それは、おかれている状況です。私の今まで生きてきた結果、ここにパソコンがある。私のいうところの「おかれている状況」というのは、全ての人の行動や現象の結果の上に成り立っています。私の影響がどれほどあって今の状況にあるのかはわかりませんが、極微小であっても何かの影響は与えているでしょう。 >なぜ優しさを語るのに”べき姿”などという言葉が出るのでしょうか  人間が本質的に優しくないからです。つまり邪悪だからです。自分のリスクが大きいときに、真に優しい行動をするには、わたしのいう「べき」などということが必要になるのでしょう。私の考える事実というのは、いわゆる真実や理想に近いようです。しかし私は、事実であると再度断言します。理想だといってしまうことはそれ自体既に言い逃れを感じるからです。責任の問題において、理想はないのです。現在の状況が事実を認めていないだけなのです >事実ならなぜためらうのか。既に役に立っているはずだ  私は、自分の弱さだと本当に思っています。なぜなら、実際に責任を果たすべく戦っている人がいるからです。迷いの無い人ばかりではないでしょう。ですが、戦っている彼らは、自分の弱さに克って、そして今戦っているのでしょう。そこにいてなお迷っているとしても、そこにいることが強さです。ですから、事実は責任があり償わなければならないが、恐れから役に立てていないということです。まだプランの途中であることもありますが。 >自分の弱さを言い訳にしているじゃないかなと思います。  弱さは言い訳になるのでしょうか。もし私が、私が望むほどに強かったら迷っていないと思います。言い訳は、我々搾取している側がしているのだと思います。リスクを負って責任を取りたくないから、いろいろな罪を認めようとしていません。 想像してみて下さい。もしブッシュ大統領が、「我々合衆国アメリカは、世界中で搾取を行っている。しかし、我々は弱く、世界情勢の優位を自ら手放すことも、生活レベルを下げることも、全てが怖い。だからできない。我々は身勝手な国だ。他国が弱っていくことまで考えられない。」などと言ったら、「こいつは言い訳をしている。本当のことを言え」なんて思いますか。事実でしょう。むしろ「わかってるならなんとかしろよ」と思いませんか。責任はあるのです。ないというのは言い訳です。

noname#31063
noname#31063
回答No.14

度々おじゃまします。 恐怖は自己保存の概念で、愛や正義は種族保存の本能で、 相対する背反概念なので優先順位を付けるとか比較はできない。 恐怖を克服する為には、自己保存を否定すること。 今後の人生を掛けて生きる覚悟を持ちえるには、 生きることがほとほと面倒臭く感じる境地に達する 以外には無いとなります。 つまり諦念、意図的ではなく「実情的エポケー」です。 knightenさんのお人柄が誠実で慎重で一生懸命で そして諦めることは理性が邪魔するのでしょう。 未だ生きることが面倒臭いの境地(?)と逆行する意図を ただ実行してるかもしれません。

knighten
質問者

お礼

 解答ありがとうございます。  そうですか。概念として区分すると比較できないんですね。私のいう共感によって、自己と他者の溝をある程度埋めていた気になっていましたが、私が恐怖を感じている以上、その溝は埋まってはいないのですね。  miko-desiさんのおっしゃることはわかります。私自身、多々実感しているからです。エポケーが習慣化すると、つまり一つの性質となった時、ある程度恐怖克服できるのかもしれません。  私はmiko-desiさんが言ってくださるほど、優しい人間ではありませんが、優しくなりたいとは、常日頃から思っています。「強さ」と「優しさ」が同義だとも思っています。  未だ生きることが面倒だと思う境地には至っていませんが、それでもいいと思いました。自分の人生を大切に思うことは、他者の人生を大切に思うことと、深いつながりがあると思ったからです。私が「実情的エポケー」を習慣化できれば、その想いを無くすことなく恐怖を克服できるかもしれません。  道筋が少し見えた気がします。本当にありがとうございました。

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