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神とはなんでしょう?
tyr134の回答
- tyr134
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#5です。 補足を。 >宗教は『人は何をすべきか、いかにして生きるべきか』 >という『目的』を求めて現象を組み立てる 極めて、一神教的な考え方だと思います。 全知全能な存在を想定するのも、一神教の特徴です。 一神教では、他者を認めません。 他者を認めない以上、なんでもかんでも自分でやらなければならなくなってしまう。 だから、神は全知全能でなければならないのです。 そして、一神教は我々の生活までも(人の役割から人生、運命まで)規定しようとします。(予定説など) 一方、多神教では、それぞれの「現象」を司る神が想定されます。 彼ら/彼女らは、自分の司る「現象」については完璧ですが、それ以外の事となるととんとダメになる。 時には人間に負けることだってある。 全然、全知全能なんかじゃないです。 また、一神教は明確な組織を作って信者を増やしますが、多神教では必ずしも組織を必要としません。(もちろん、神社や神殿を守るための組織などは形成することはありますが) 日本は、近代以降西洋から学問と共に一神教的な考え方も輸入しました。 時には、一神教を国教にしようとさえしました。 その影響からか、宗教や神を巡る議論を聞くと、一神教的な発想の方が多く見受けられます。 もともと、「宗教」なる言葉も明治期に広まった言葉ですし。 神や宗教はもっと地に足のついた、身近なモノのはずだと思うのですが。 >僕は宗教と科学はもっと >根本的なところで違うと思っています 確かに、科学と宗教には明確に違うところは存在します。 しかし、世の中の現象や成り立ちを説明しようとする根っこの部分は同じだと思っています。 科学と宗教の差をあえて挙げれば、「再現性」を見せつけられるかどうかだろうと思います。 科学は論理はどうあれ、その実験を行えば誰がやっても同じ結果になるという「再現性」が求められ、それのみを「回答」として与えます。(※ここでいう「科学」は「狭義の科学(自然科学)」の意味で用いてます)
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1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか? 2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。 3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。 4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。 5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。 5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。 6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。 7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。 8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。 9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。 10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。 11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。 11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。 11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。 12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん 無神論となる。 12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。 13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。 14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。 ご教授ください。
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補足
僕の考えを簡単に言うと 『自然』を解明しようとするのが『科学』 『倫理』と『自然』の源流を同じところに 見いだそうとするのが『宗教』だという考えです 『自然』に『人格』を見るところから それは始まっているのだと考えています 多神教であろうと神託所のごときものはあり 政(まつりごと)と称すごとく、古には 政治というものは神に意向を伺う事でもありました つまるところ宗教というものは世界を成すものに 『人は何をすべきか』をもとめたワケです