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神とはなんでしょう?

ttrreeの回答

  • ttrree
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回答No.23

 どちらかといえば無神論者です。現在のところ自分がもっている考えは、”「神」とは、最初は現象の原因に対するただの呼び名であり、長い時間をかけてそれらがあらゆる事象をつかさどる超常的な存在を想像させるようになり、最終的には現在のように生きるべき規範を示す概念となった”というものです。以下に順に説明していきます。  文明が興る初期段階から想像していきます。  人間が自主的にものごとを考え始めるようになったとき、さまざまな自然現象を見てとても不思議に感じたことと思います。ただ、彼らはおそらく、結果としての現象には必ず原因がともなうはずだと思ったのではないでしょうか? しかし、今のように科学が発達していたわけではないので、その特定はできなかったでしょう。そこでとりあえず、そのわからない原因について「カミ」あるいはその語源となる呼び名をつけたのだと思います。  昔の人はえらいもので物事を後世に伝える際、覚えやすいように物語形式で伝えることが多々あったそうですが、このとき、自然災害の話などを盛り込む際には「カミ」を登場させる必要がでてくるわけです。そこで「カミ」には、物語を盛り上げる要素としてその土地の風土や習慣に合わせた性質(意思を持つなど)が付与されたと思われます。  こうして性質を得た「カミ」は長い年月をかけた伝聞による歪曲を経て、あがめられる対象としての「神」になったと考えられます。  その次の段階は、「国家」という大きな単位での集団を考える必要がでてきます。その大きな集団におけるリーダーの一部が、支配力の増大を目指すための戦略として、「神」という概念の利用を思いついたのではないでしょうか? 代表としてはファラオなどがそれです。この戦略のメリットは、王が崇めるべき対象と同列となることで支配に対する疑問を薄れさせ、絶対的な忠誠を引き出しうることです。  こうした多神教のゆがみに気づき、それを克服すべく、信じるに足る規範を示そうと立ち上がったのが一神教の宗教的指導者たちではなかったかと考えられます。なぜ一神教だったかというのは、その指導者たちの起源がそのような宗教を信じる民族にあったからではないかと考えています。 宗教により、人間が人間として良い生き方をするための規範をしめすこと、「生き方」という誰をもいまだに悩ませひきつける問題に一定の答えを提示しえたことで、特定の一神教が絶大な支持を集めるに至ったのではないかと考えています。  以上のことを踏まえて「神」を幻想する理由として考えられるのは、現在の宗教におけるその概念に超常的な存在としての性質が色濃く残ってしまっているために、理解の範疇にない事柄やどうしようもない状況においてそれらを無意識に想起してしまうことがままあるのではないかと考えられます。人間はある程度の知識がつくと、何かわけがわからないという状況にものすごく不安を感じてしまう生き物だとおもいます。だから、何に対しても理由付けや解決の糸口をしめしてくれる概念に助けを求めてしまうのではないでしょうか。

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     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

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