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高山彦九朗

無知を承知で恥を忍んで、質問します。 京都、三條大橋のところに、高山彦九朗の銅像があります。 勤皇家で学者であったということ以外に、なにか銅像にされる偉業があるのでしょうか。 明治維新に貢献したときいていますが。 よろしくお願いします。

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回答No.3

   泣哭三態 ~ わが涙をぬぐいたまう人々 ~    わたしは、三条大橋の近くで生まれ育ちましたが、銅像の人の業績を 論じる人には巡りあいませんでした(両親や恩師をふくめて)。  そこで、つぎの三人を重ねあわせてイメージしています。   <PRE>  高山 彦九郎 尊王家 174706‥ 群馬 福岡 17930803 46 /自刃  蓑田 胸喜  憲法学 18940126 熊本 東京 19460130 52 /縊首  三島 由紀夫 作家  19250114 東京   19701125 45 /割腹 </PRE>    かねて「天皇を思いうかべると、涙があふれ出てくる」と語っていた 作家・三島由紀夫は、市ケ谷の陸上自衛隊総監室に押し入ったものの、 バルコニーからの渾身の演説が聞き入れられず、自決しました。    天皇機関説批判の急先鋒であり、A級戦犯に指名された蓑田胸喜は、 慶應義塾大学の期末試験で、答案のかわりに御製(天皇の和歌)一首を 書いた学生には、無条件に合格点を与えたそうです。    農家に生れた高山彦九郎は、南北朝の激動を伝えた《太平記》に感動 して、諸国に同志を訪ね、尊王を説いて熱弁をふるったと伝えられます。  林子平、蒲生君平とともに“寛政の三奇人”と呼ばれています。    たびたび上洛していながら、東海道五十三次の終点である三条大橋に 辿りつき、皇居の方角に、思わず両手をついて「草莽の臣、高山正之!」 と叫んで遥拝しました。その熱誠が称賛され、銅像に顕彰されたのです。    このような人たちの感性は、現代日本人には理解を超えています。  もちろん、近代の議会制民主主義とも相容れません。  しかし、いつかまた誰かの心に、よみがえる可能性があるのです。    明治維新は、二百六十年つづいた徳川幕府の崩壊であり、革命です。  しかも江戸城が無血開城されたのは、天皇に対する思慕畏敬が、世論 の背景にあったからです。ほとんど誰も拝謁されていないのに……。  

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質問者

お礼

的を得た回答をありがとうございました。 なんだかナゾがとけました。 いつも、あれは誰?なんで土下座(そうではないが)しているの?と聞かれ、答えに窮していました。 調べてもりかいできず、不思議でしかたがなかったのです。 ありがとうございました。

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回答No.4

長州の吉田松陰は、松下村塾で教育した多くの教え子が明治維新の実行者となったことから、その精神的なバックボーンとなったことで有名です。彼は、本名を”寅次郎”といいますが、勤皇の志士の大先輩である高山彦九郎のことを知り、大変尊敬するようになリ、以後、名前を高山彦九郎の戒名からとって”松陰”と名乗るようになりました。http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/ataetaeikyou.htm http://blog.zaq.ne.jp/rootakashi/article/250/

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質問者

お礼

新しい情報を、ご丁寧にいただきありがとうございました。 これで、聞かれても少しは答えられそうです。

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  • ajihira
  • ベストアンサー率60% (17/28)
回答No.2

先日亡くなった吉村昭さんの「彦九郎山河」(文春文庫)をお読みになることをお勧めします。高山彦九郎の生涯を描いた力作です。

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質問者

お礼

わかりました。 アドバイスありがとうございました。

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  • VFR
  • ベストアンサー率25% (62/248)
回答No.1

寛政年間の尊皇思想家で、後に幕末の尊皇思想に大きな影響を与えた人物のようですね。直接的に明治維新に貢献したというより、思想的なバックボーンを用意した人物であるようです。 戦前の国定教科書には彼の名前が載っていて有名な人物であったらしいですが、戦後ほとんど忘れられた人物です。 http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/

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質問者

お礼

教えていただいたページは、いちおう質問する前に読んだのですが、 いまひとつ、教科書にまで載る理由がつかめませんでした。 アドバイスありがとうございました。

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