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国司、荘園領主、守護、地頭が農民に要求するモノについて

ss79の回答

  • ss79
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回答No.2

日本の税制は基本的に租庸調から成り立っていました。 本来中央政府に対し納税される物ですが徴税の便宜上種々の官吏などにそれを代行させたわけです。 祖は稲、米で庸は繊維製品からその原料で布、綿、米、塩、などで後に銭納もみとめられました。 調は諸国の産物で絹、糸、布、染料、綿、麻、油、紙、などの現物からなります。 この他雑瑤という労役提供が課せられました。 これには公共工事や建築の労務、都の守護などがあったようです。 最初は国司が徴税を行い国定の税を中央政府に納めた残りは私有しました。 従って税率は国司が自由に決めたので重税になり、困った農民などは土地を荘園に寄付し荘園領主に納税するようになりました。 この為中央政府の税収が減少し制度は崩壊したのです。 武士の台頭が起こり武力の背景を有する守護が各地に任じられたのですが、武家政府が発足するにつれ、将軍職が任命する地頭が実権を握り武士の時代に移行したのです。 要するに徴税者が変わるだけで納税の実態は変わりませんでした。

YomTM
質問者

補足

 ご回答ありがとうございます。  庸は、労役(歳役)の代納物ですが、それとは別に、雑徭として国司に使用されていたのですね。 No.1の補足とも関連するのですが、「税率は国司が自由に決めたので重税になり、困った農民などは土地を荘園に寄付し荘園領主に納税するようになりました。」が疑問です。国司→中央政府(朝廷)への納税義務がなくなるのは、 (1)常にそうなのでしょうか? (2)その理由は、不輸不入の権によるものなのか、荘園になると公領ではなくなるからなのでしょうか?

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