• ベストアンサー

公武の二元政治(鎌倉時代)

歴史の参考書で、鎌倉時代に、よく下図の二元政治が出てきます。質問なのですが、 (1) 「公家と武家がそれぞれに統治していた」とありますが、これは、「それぞれ別の地域の公領・荘園を、朝廷は国司を通じて、幕府は地頭を通じて統治をしていた」ということですか?それとも、同じ公領・荘園を両方が統治していたということですか? (2) また、それぞれ別の地域を統治していたということであれば、朝廷と幕府の「すみわけ」はどのようになっていたのでしょうか? (3) 「承久の乱」によって、朝廷と幕府による二元政治が終焉した、とあるのですが、このとき「国司」はどうなったのですか?

noname#205122
noname#205122
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E3%81%AE%E4%BD%93%E7%B3%BB この辺をざっくり理解しておかないと、現代的な支配の色メガで見ちゃうのでなんだかわからない。 1)一つのところにイロイロな職(徴税権)が存在ていた http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%8F%B8 時代が下って武士化した下司の中には鎌倉幕府に従って地頭の地位を獲得して現地に勢力を伸ばす者もいた。 下司として公家の家来であっても、地頭として鎌倉幕府の家来であるほうが自分にとって有利なら、地頭に(も)なっていた。 副業・兼業なんでもありの時代ですので。 2)適当 朝廷と幕府とを対立的に見ようというのは、後の世というか現代的な視点であって、補完しあっていた http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%AB%96 東国独立国家論 まで進めば、二元政治になるだろうけど http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80%E4%BD%93%E5%88%B6 こっちに 振れれば そうでもない。 3)国司というか国衙領は太閤検地まである http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E9%A0%98

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 (2)については、「すみわけ」があったように図で示している参考書もありますが、単純ではなさそうですね。 「なんでもあり」ということと、「相互補完的」というご回答が印象に残りました。もちろん「なんでもあり」……「副業・兼業に限らず」と勝手に解釈させていただいて、……ですから、「相互対立的」なものもあったのでしょうね。このことを頭に置きながら、もう少し「鎌倉時代」を読み進めてみたいと思います。

その他の回答 (1)

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

鎌倉幕府の守護と地頭の設置は義経を捜索逮捕するために朝廷に認めさせた「日本国総追捕使・日本国総地頭」の任を頼朝が得たことに始まるのです。その任の代理人として配下の御家人を国司領や荘園ら配置させたのです。その任を「総追捕使・地頭」として全国に警察権を一手に掌握したのです。 しかし、実際の支配権は東国のみで、西国は朝廷の支配権にあったのです。したがって、東国の支配権と徴税権を総追捕使と地頭によって国司からむしり取ったのです。西国ではむしり取ることはできなかったが、軍事行動費として1反当たり5俵の米を取り立てる権利を得て年貢米としていた。これには西国の地頭が関与していた。 「承久の乱」の鎌倉勝利で東国のような支配権が西国までの及ぶことになるのですが、九州においてはまだ十分ではなかった。それが元寇の時に朝廷が国土防衛の義務を放棄したことから鎌倉幕府は有力御家人を九州に配置して国土防衛を果たして、その結果として全国支配を果たしたのです。 後に「総追捕使・地頭」の総追捕使が警察権を持っているので守護になってゆくのです。地頭は年貢に当たる徴税権であり支配権としては弱かったのです。地頭の中にも守護になった者もいるが、主に総追捕使の守護が後の守護大名に成長していったのです。

noname#205122
質問者

お礼

 いろいろと教えていただきましてありがとうございました。

関連するQ&A

  • 鎌倉幕府の成立理由

    テレビ「義経」を見ていてふと思ったのですが 頼朝はなぜそれまでの朝廷政治を否定して 武家政権を設立できたのでしょうか? 朝廷の反対・反感もものすごいものがあったはず ですし それまでの平安時代では朝廷任命の国司などが各地方を 治めていたはずなのですが。。。 しかし頼朝の幕府設立の時期には、北条、畠山、足利 ・・・など各地方豪族が統治していてそれが 鎌倉幕府の基礎となって幕府政権設立が可能と なったようなのですが・・・ そのへんのところと、そもそもいつ頃から、どのように 朝廷任命の国司が有名無実となり、武士が 地方の統治実権を持つようになっていったのか (いわゆる武士の勃興の理由と背景) を教えてください

  • 【承久の乱】 日本の統治権が武士に移ったのはいつの時代から?

    「本能寺の変」は明智光秀が起した反乱ですよね? 言い換えれば「明智光秀の乱」でも通じます。 では「承久の乱」は後鳥羽上皇が起した反乱ですか? その当時は日本国の統治権はすでに朝廷になく、鎌倉幕府あった。 つまり貴族ではなく「武士」にあったと解釈していいですか? 日本の統治権が武士に移ったのはいつの時代からでしょうか?

  • 国司、荘園領主、守護、地頭が農民に要求するモノについて

     東京書籍の「新編 新しい社会 歴史」(中学校の教科書)、山川出版社の「改訂版 新詳説 日本史」、「日本史B用語集」等で、日本史を勉強している社会人です。 国司、荘園領主、守護、地頭が農民に要求するモノについて、混乱しています。 ・国司…奈良時代から。朝廷が、地方の国に貴族を派遣。 ・荘園領主…奈良時代の墾田永年私財法から。 ・守護…頼朝の時代から。幕府が、国ごとに警察として派遣。御家人に、領地とともに与えられる地位でもある。 ・地頭…頼朝の時代から。幕府が、荘園・公領ごとに年貢の取り立て役として派遣。御家人に、領地とともに与えられる地位でもある。 という原則は、理解できました。(間違っていたら、指摘してくだされば幸いです。)  室町時代になると、守護大名が国司の権力を吸収するようなので、話は少し簡単になると思うのですが、鎌倉時代における、これら4者の役割・権限分担がよくわかりません。(「領主に年貢を納める」、「地頭が兵役を課す」という記載が中学校の教科書にはあり、ますます混乱しています。) これら4者が農民に要求するモノ、朝廷や幕府への年貢の流れ等、ご教示くだされば幸いです。

  • 承久の乱後の朝廷もしくは院について

    鎌倉幕府が政治の実権を握るようになり、承久の乱によって後鳥羽上皇が倒された後も朝廷、もしくは院が政治を行っていた証拠として、承久の乱以後に出された公家の公式な文書、または命令文のようなものを探しているのですが何かよい資料はありませんか?できれば、承久の乱後に近い年のほうがいいのですが。

  • 歴史

    平安時代 荘園領主の特権、、朝廷に税を納めなくてよい権利 荘園が増加したことで朝廷の収入が減った(荘園領主は不輸の権を行使した)とあるんですがこれって何の税なんですか? 荘園にはなんか税がきめられてたんですか? もう1つ質問なんですが国司は、荘園以外の土地を公領として経営するようになったとあるんですがもともとはなんの土地だったんですか?

  • 幕府と朝廷の両立

    鎌倉幕府などは承久の乱などがあって朝廷を警戒していたのに、なぜいつも天皇を残しておいたのですか? 朝廷を壊滅させればこのようなことはないと思います。 またそのころの公家などの生活費は独自に年貢を納めさせていたのですか?

  • 承久の乱

    1221年、日本の歴史を大きく変えた大事件「承久の乱」が起きます。結果は幕府軍の圧勝で、朝廷の権力は抑えられ、以後明治維新まで武家社会が続きます。 そこで皆さんにご質問です。もし、承久の乱で幕府軍が負けていたらその後の日本はどうなっていたでしょうか。承久の乱の約50年後に蒙古軍が襲来してきます。大げさに言えば今の日本国は無いかもしれないなど、蒙古襲来にからめてお答えいただけたら幸いです。

  • 鎌倉初期の西国武士の勢力

    ある歴史の本を読みましたが、そこには承久の乱以前の西国では荘園領主(いわゆる皇室、公家、社寺)の力が強かったので武士の土地支配は未熟だった旨の記述がありました。  そこで質問します。なぜ、またどのくらい荘園領主の力が強かったのでしょうか。相変わらず在地地主(実際に荘園を管理している現地の有力者の意味)は荘園領主に搾取されていたのでしょうか。西国に幕府の力が及んでいなかったとはいえ、在地地主は武力を持っていたし、平安時代に比べ荘園領主からかなり取り分を奪っていたと思うのですが。げんに東国では武士が自分たちによる土地所有、収益権を実現しています。  自分では以下のように推理したのですが、この件に詳しい方がいらっしゃれば、誤りの指摘も含めてご教授願います。 (1) 西国武士も自身による土地支配を望んでいたが、彼らの権利を保障して くれるであろう鎌倉幕府の傘下に入る気がしなかった。これは西国武士と 源氏の主従関係が希薄であったためである。 (2) 西国では、在地地主は荘園領主に抵抗できるほど武装化していなかっ  た。

  • 鎌倉武士は漢字が読めなかった?

    鎌倉武士は武力のみで幕府を樹立させた。 よって学問教養は全くなかった。 それを知らしめるエピソードがある。 これは鎌倉幕府が成立して39年後。 後鳥羽上皇が幕府征伐を企てた、承久の乱の時のことである。 この時北条泰時が鎌倉から武士を率いて京都に攻め入ったが、この時朝廷から講和文書が下された。 漢文で書かれていたが、大将の泰時は読めない。 そこで家来を集めて言った。 「誰かこの文書を読める者はおらぬか」 すると部下の岡崎兵衛尉が「武蔵国(今の東京・埼玉)の藤田三郎なら、読めると思います」と返事をした。 5000人の兵の中で、漢字を読めたのはたったの1人!武士の大半は平仮名しか読めなかったようである。 とありますが、この逸話は事実でしょうか? この逸話が載っている文献は何ですか?

  • 織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

     江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。  その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。  そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。