- ベストアンサー
大名の結婚
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
結婚(婚姻)というのは正室とだけで、側室とは結婚しません。 正室は妻として遇されますが、側室は使用人(たいていは正室の使用人)でしかありませんので、使用人に手をつけたからといっていちいち幕府に報告する必要はありません。 そもそも婚姻に許可がいるのは、大名同士が婚姻によって勝手に組まないようにという趣旨(家康が秀吉が死んだあと勢力拡大にこの手をよく使いました。)ですので、家臣や領民の娘である側室に手をつけることまで制限する必要はありません。 国許にも側室がいるのが普通でしたから、江戸の屋敷にも国許にも奥はあります。 ただし大奥というのは江戸城だけで、大名家では大奥とは言いません。
関連するQ&A
- 日本史の問題でわからないところがあります。
日本史の問題で分からないところがあります。 1.江戸幕府の幕府政治の中心を担う役職は何か 2.その後制定された大名の守るべき法令は何か 3.江戸時代の大名の区分を三つ挙げよ 一応自分でやってみたのですが 1.軍役 2.武家諸法度 3.親藩・譜代・外様 1番がどうにも自信がありません これであっているのでしょうか? 教えてください、お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 寛永年間(家光の時代)の大名の数。
江戸時代の大名の数は、ほぼ260 ~ 270家とよく言われています。 では、寛永11(1634)年6月21日、御三家以下、外様・譜代の大名の全員を江戸城の大広間に呼び出し、参勤交代を制度化した武家諸法度を発令したときの、大名の数はおおよそいくら位だったのでしょうか。 寛永13年(1636) 江戸城外堀の天下普請では、総数112家の大名・小名が参加しています。 これから推定すると当時の大名の数は200以下だと思います。 であれば、この時期から新規大名の“増産”が始まるのですか。 また、藩の数と大名の数は同じですか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 大名の江戸屋敷での暮らしぶり(伊達藩)
徳川幕府は大名から人質をとって、隔年四月ごとに国許と江戸を参勤交代させて統制と経済力を削(そ)いだのは知ってますが、元和二年(1616)頃の伊達家をクローズアップした場合、具体的にはどんな感じだったのでしょうか?。 (1)前田藩の正室は江戸上屋敷。側室は国許とか。それゆえにお家騒動の遠因になったとか。伊達藩は正室と忠宗はむろん側室(猫御前)と秀宗も江戸住まいを強要されたのではないのでしょうか?。ご存知の方は書き込みお願いします。 (宇和島藩の藩祖になる秀宗と猫御前は側室なれど、政宗の嫡男であり豊臣政権では伏見屋敷に住んでいた) (2)側室も江戸屋敷にいた場合、正室と同じ上屋敷なのか中屋敷なのか。 特に寛永年間の前の元和二年当時ならば、数多い側室を江戸に住まわせた場合、屋敷は三つでは足りなかったのではないか。 ただ香の前(秀吉との碁の勝負で縁)は、仙台城内にも置かなかったとあり、江戸か国許でも別宅だと推察できます。 五郎八郎姫すら離縁後は仙台郊外に住まわせたとか。 ご存知の方、出来れば立証となる資料。あるいは映画や小説でも構いません。
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸幕府公文書の配布
幕府が武家諸法度のような指示・命令を出すとき、藩にはどのようにして伝達したのですか。 江戸藩邸の役人が、幕府の右筆が書写した「写」を江戸城?あるいは大目付の屋敷?で受け取って、そして国元の藩へ伝達したのですか。 ざっと270ほどの藩がありましたから、右筆はそれだけの部数の公文書を書いたのですね。 江戸藩邸から国元へは主に飛脚を利用したのですか。 その際、近隣の藩と協力して、費用節減のために複数の藩が一人の飛脚に依頼するような こともあったのでしょうか。 そのような事例はありますか。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史