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江戸時代の大名の正装。
江戸城殿中での将軍・御三家・大名の正装は、「長直垂」だそうです。 また、大名は、節日の登城には、肩衣長袴を着用したそうです。 なぜ、袴の裾を引き摺る、歩きにくそうな衣装を正装にしているのでしょうか。 江戸時代初期では、戦国の世を戦い抜いてきた大名の気風が荒いので、殿中での振る舞いをおとなしくさせるため、という理由もあるそうですが、他にどんな理由があるのか教えてください。 鎌倉時代・室町時代の高位(将軍・大名クラス)の武家も儀式では着用していたのであれ ば、そのしきたりを踏襲したということですか。 よろしくお願いします。
- kouki-koureisya
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天下泰平だから、急ぐ必要はない!というのをアピールするため!かな。
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- fujic-1990
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習慣というのは、一度決めるとなかなか改定できないものなのです、日本では。 日本国憲法も、アメリカ人に言わせると「占領が済めばすぐ改憲するだろうと思った」そうですが、事情が大きく変わったいまでも墨守しています。 なので、「御神君家康公の時代に決まってしまったから」というのが正しい回答じゃないかと思います。 余談めきますが、肩衣長袴などは、略礼服です。 将軍以下、五位以上の諸大名の本当の正装は、「束帯」です。 手元の時代考証事典では、いろいろ説明したうえで、「ピンと来なければ『天神様のスタイル』だと思え」と説明してあります。 束帯では、今のズボンと同じで、足は、くるぶしより下は袴から出ているので、いたって歩きやすそうです。転ばないでしょう。 例えば、将軍宣下の儀式(1代で1度だけ)、朝廷関係の大礼、神事・祭礼などでは、束帯姿ですが、年始や勅使対顔(勅使供応?)などの儀式になると、もう束帯姿にはなりません。 将軍・御三家・大名の正装は、「長直垂」というのはどこでご覧になったのかわかりませんが、大名たちが頭をさげている将軍宣下の儀式の絵を見た事があるのですが、前面に並んだ家臣たちも天神様のような衣装だったので、私は、時代考証事典のほうが正しいように思います。 次のランクが「衣冠」です。さらに、2・3ランク下がったのが「長上下」。 長上下は将軍以下、諸大名、お目見え以上の幕臣が「通常の礼服」として着用した由です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 御神君家康公の時代に決まったとすれば、家康とその側近が、袴を長くした意図は何だったのだろうか、という疑問です。 歩きにくいということは、容易に想像できたはずです。 「殿中松の廊下」のシーンを見て質問しましたが、一応、長袴については調べて質問しました。 高校国語教科書『新訂総合国語便覧』(第一学習社1998年2月改定27版)の図説編「古典にあらわれる服装 近世」の簡単な説明によります。 長直垂:江戸時代、武家礼装は三位以上が直垂、四位は狩衣、五位は大紋、六位以下が素襖。長直垂は殿中の将軍・御三家・大名の正装である。 肩衣長袴:三月三日、五月五日など節日の登城には大名も肩衣、長袴、俗に長上下(長裃)を着用した。高級武家の殿中の普通礼装である。 風俗博物館>日本服飾史資料>長直垂をつけた大名 http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000116
>戦国の世を戦い抜いてきた大名の気風が荒いので、殿中での振る舞いをおとなしくさせるため あはは。年末の衛星放送で観た『四十七人の刺客』を思い出した。 もともとが氏素性もはっきりしない連中で,山野に伏していたので,「立派なユニフォーム」を着たいという心理が働いたんじゃないですか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、一理あります。 公家衆に引けを取らぬ恰好がしたいと。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、そんな理由で考え出したのかも知れません。