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大名について

常識的なことだったら恥ずかしいのですが 質問させてください。 江戸時代に農民は将軍が偉い又は天皇もいる ということを知っていたのでしょうか? 地域の大名が農民を支配して大名を将軍家が 支配しているという図式はわかるのですが 大名からしてみれば農民に自分たちが一番 偉いと思わせたいじゃないですか 将軍家は将軍が一番偉いということを 徹底して広めていたのでしょうか? それと昔話などに出てくる殿様というのは すべて大名のことなのですか? 大名の下に殿様がいるのでしょうか? どうか教えてください。

noname#68662
noname#68662
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  • liar_adan
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回答No.3

聞いたわけではないので自信なしですが、 将軍の存在は知られていたと思います。 江戸時代はけっこう旅行や通信が盛んで、 正確ではないにしろ地理的な知識は広まっていました。 農村から大都市(江戸・大坂等)や中都市へ出稼ぎに行く人も多かったようです。 特に「江戸」は、地元の武士が長期転勤のような形で行く都市であり、 地方とのつながりは少なくありませんでした。 江戸についての地理的な概念があれば、 →「江戸には将軍がいる」 →「将軍は大名より偉い」 という知識も、当然あったものと思われます。 一方、天皇の存在はあまり知られていませんでした。 徳川将軍家としては、「天皇の方がエライ」 と思われるのはやはり面白くないわけで、 庶民には天皇の存在を積極的には教えませんでした。 インテリは「国学」を通じて知っていましたが。 江戸時代に「天皇がいて、将軍よりえらいのだ」 と人に説いて回る、高山彦九郎のような人もいたのですが、 彼は弾圧を受けてしまいました。(このへんはマンガ『風雲児たち』に詳しい) --------- 昔話に出てくる「殿様」は、大名ばかりではないと思います。 (江戸時代の)大名というのは、一万石以上の土地を支配している者を指します。 三千石や五千石持っている人もいました。(旗本) 一方、土地を直接持っているわけではないが、管理している代官もいました。 ほとんどの代官は単なる管理職ですが、中には世襲で大きな力を持っている代官もいました。 大名・旗本・世襲代官などは、庶民から見れば皆「お殿様」に見えたと思います。

noname#68662
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  • badger
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回答No.7

言い尽くされて、回答できるようなことはないんですが、過去に殿という呼び方の定義(?)についてのような話題があったので挙げておきます(もう知っていたらごめんなさい) http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1007876

noname#68662
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ありがとうございました。

  • mark-wada
  • ベストアンサー率43% (273/633)
回答No.6

質問への直接の回答としては、今までの皆様のもので済んでいると思います。私は一つのエピソードをご紹介します。 江戸時代の庶民(それもあまりインテリではない人たち)の間で詠われていた「決まり文句」のようなものを読んだことがあります。庶民が身分のとても高い人に出会ったら、 藩侯は見える 公方様は見ると目がつぶれる 天子様は見えない (藩侯=大名、公方=将軍、天子=天皇)ですね。 庶民から見たそれぞれへの「距離感」が現れている、と思います。

noname#68662
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ありがとうございました。

回答No.5

こんにちは 将軍の存在は地方の農民も知っていたと思います。 大名(特に譜代大名)は結構頻繁に国替えで他の領地へ引越しを命じられていたり、江戸時代の初期には多くの大名が取り潰されています。 自分の国の「殿様」をいとも簡単に挿げ替えてしまう「将軍」の「偉さ」は理解していたのではないでしょうか。 出羽庄内藩主の酒井左衛門尉が、越後長岡に転封させられそうになった時、庄内藩の農民が転封阻止運動を行い、それによって前代未聞の幕命撤回によって国替えが取りやめになった事もありました。 >それと昔話などに出てくる殿様というのは >すべて大名のことなのですか? 他の方も回答されてますが、通常は大名・旗本と考えるのが良いかもしれません。 ちなみに国主クラスの大大名には、加賀前田家の本多氏(五万石)・御三家の御附家老(成瀬・竹腰、安藤・水野、中山)・長州藩の吉川氏(六万石)など一万石以上の知行地を与えられた大名並みの領地を持つ家老も相当数いますが、武士の身分としては陪臣(またもの:家来の家来)ですので、将軍家の直臣である旗本・御家人よりも下位に位置づけられると思います。

noname#68662
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noname#113260
noname#113260
回答No.4

いくら庶民でも江戸に将軍家があることは承知してましたが、天皇家や公家に関しては知らない者が多かったと思います。 また、殿様というのは大名ばかりでなく、旗本や大身の家老もそう呼ばれていたと考えます。 鬼平と異名をとる、火付盗賊改めの400石の旗本:長谷川平蔵も、部下には「お奉行」と呼ばれてますが、庶民は「殿様」と呼んでますから、知行取りの武士は支配地域の農民にとっては「お殿様」そのもので、敬称として「殿様」と呼んでもよいでしょう。 また大名の家老でも城を持ち、数万石の所領を支配する武士もいますから、こうした方は藩内では「ご家老」と呼ばれても、支配地域に帰れば当然「殿様」となります。 (犬山城の成瀬氏など)

noname#68662
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  • minazo
  • ベストアンサー率42% (285/677)
回答No.2

>江戸時代に農民は将軍が偉い又は天皇もいる >ということを知っていたのでしょうか?  それは知っていました。 >将軍家は将軍が一番偉いということを >徹底して広めていたのでしょうか?  徹底して広めた事例はありません。 >それと昔話などに出てくる殿様というのは >すべて大名のことなのですか?  だいたいそうです。 >大名の下に殿様がいるのでしょうか?  いません。大名=殿様ですから、いるわけがありません。

noname#68662
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  • nemaro
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回答No.1

京都に御所があったのだから、地元の人が天皇の存在を知らないはずはありません。 また、地方との人の交流も活発であった事から、津々浦々人づてに伝わっていったことでしょう。 >昔話などに出てくる殿様というのは 「殿様」とは地元の殿様、つまり藩主またはそれに次ぐ武家だと思います。 大名、旗本も殿様と呼ばれます。

noname#68662
質問者

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