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寛永年間(家光の時代)の大名の数。
江戸時代の大名の数は、ほぼ260 ~ 270家とよく言われています。 では、寛永11(1634)年6月21日、御三家以下、外様・譜代の大名の全員を江戸城の大広間に呼び出し、参勤交代を制度化した武家諸法度を発令したときの、大名の数はおおよそいくら位だったのでしょうか。 寛永13年(1636) 江戸城外堀の天下普請では、総数112家の大名・小名が参加しています。 これから推定すると当時の大名の数は200以下だと思います。 であれば、この時期から新規大名の“増産”が始まるのですか。 また、藩の数と大名の数は同じですか。 よろしくお願いします。
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こんにちは 遅くなって申し訳ありません。 さて、野口朋隆著『江戸大名の本家と分家』に次のような記述があります。 「本家を維持していくため、家督相続者が不在となった場合、分家大名家から養子に行くことは珍しいことではなく、江戸時代を通して見られることである。ただ、分家大名家において当主や嫡男・庶子が本家の家督を相続してしまうと、その分家自体が絶家になってしまうこともあった。こうした場合、とりわけ近世初頭に分家を創出していた大名家の分家では、その分家自体の存続も望まれた。これは分家内部で、家の家名や財産のどの存続を希求する「家」意識が発生することによるものである。また、幕府に対しても、後述するように、別朱印・内分各分家が本家を相続する場合のことについて幕府が定めた正徳二年(一七一二)閏六月(*ママ)の法令が出る以前においては、一度奉公させてしまった手前、本家であっても簡単に分家大名家を絶家にすることはできなかった。」 とあります。この「正徳二年(一七一二)閏六月(*ママ)の法令」とは、正確には、『德川実紀』の享保元年(1716‐六月二十二日改元なので、正確には正徳六年)閏二月廿七日の記事のことで、以下の内容です。 「けふ万石以上の人々に仰下されしは。嫡家より所領の内を分与へ。別に御朱印給はらざる輩。嫡家につぐ子なき時。系統近きをもて。其子をもて宗家をつがしめんと請て許さる々にをいては。をのが家は別に養子してつがしむるに及ばず。その身歿して後。所領は宗家にかへしつけらるべし。されど子あまたあらば。一人をもて宗家をつがせ。一人もてをのが家をつがせん事は。こふままにゆるさるべし。もしをのが一子もて宗家をつがしめ。あるいは其身衰老。あるは病にて。家ゆづるべきものにより。退休こひがたきものは。其よしを聞え上べし。別儀をもてつとめゆるされ。所領はその身歿後に宗家へかへすべし。召使し家人等は宗家にて扶助すべし。宗家より分封し。別に所領の御朱印を賜はり家立し輩。宗家をつぐべきものなき時。恩許を得。一子もて宗家をつがしむるとも。すでに宗家の外に其家立し上は。をのが家も又。親族の子弟を養ひつがしめんに於ては。其旨を申て上裁を伺べし。たとひ別に其家立しも。其身宗家をつがば。この例に准ずばからずとなり。」 とあります。この法令がだされる以前(幕府成立後から)に、家門・譜代・外様大名家で、分家大名が本家相続、無嗣などで絶家になり、その遺領が幕府より本家に還付された例が 47家あります。上記の法令はある面、この現状の追認・確認の側面も強いように思われるのですが、ともあれ、この法令が契機の一つとなって、分家大名の増加をもたらしたことも事実です。 話は変わりますが、改易元和2年から吉宗が将軍になった年の正徳6年までの改易の推移を概算すると、次のようになります。 元和2年~元和9年の家光将軍襲位までが、約250万石 寛永9年の秀忠死去までが、約140万石 慶安4年の家光死去までが、約200万石 延宝8年の家綱死去までが、約70万石 宝永6年の綱吉死去までが、約150万石 正徳6年(享保元年)の家継死去までが、約16万石となっています。合計800万石強となっています。 幕府の所領は、一般に天領が400万石強、旗本領が350万石と言われています。これは享保以降の数字で、慶長年代末には天領が200万石強と言われています。旗本領についても同じくらいとされていますので、慶長末年から正徳6年までに凡そ400万石増加したことになります。改易石高の凡そ1/2が使われた計算になります。逆に言うと、400万石程度は大名領となったことになります。 例えば、熊本52万石の加藤忠広が改易された時に、忠広堪忍料1万石、細川忠利の加増分15万石(熊本54万石-小倉39万石)、小笠原忠真加増分5万石(小倉15万石-明石10万石)、小笠原長次加増分2万石(中津8万石-龍野6万石)、小笠原忠知新規取立大名領4万石(旗本奏者番より取立・旗本の石高は不明)で、加藤忠広改易に伴う加増・新規取立等で27万石、残りが25万石となります。大名数では1人増加したことになります。 ところで、幕府の番方の人数(常備軍)は、幕初以来増加して慶安年間がピークで、約22500人とされています。これに関連して足高の制があります。吉宗の享保の改革に関連する政策ですが、一般には人材登用と関連つけられますが、これはどちらかと言うと財政的な面が強い政策です。足高の制は、在任期間だけ基準石高に達しない禄高の者に、基準石高の差額を補填する制度ですが、それ以前は、このような禄高を加増することになっていました。足高であれば、一時的な出費ですが、加増となると将来的に払い続けることになります。上記のように改易が多い場合には、改易により没収した領地を当てることも可能でしたが、そのようなことが少なくなると、天領を切り崩すことになります。その防止策が足高の制でもあったのです。しかし、それ以前は加増のチャンスが多かったことになります。現実には加増だけでなく、新規取立てもあり、譜代大名を含め、旗本・御家人の次男以下の召出しも盛んでした。幕府に出仕するだけでなく、新規に立藩した家門・譜代大名などに出仕する者もおり、外様大名に出仕する者もいました。旗本・御家人の子弟を取り立てることは、老中などの幕閣の紹介も含め、幕府とのつながりを持つことの一環でもあったので、改易による浪人の増加の一方、新規に取り立てられる層もあったわけです。赤穂浪士の親族に幕臣が見られるのは(藩祖長重が)このような理由にもよります。 話が横道にそれましたが、吉宗以前、より正確には綱吉時代までは、新知・分知・加増が盛んに行われています。ちなみに、新知・分知・加増による新規の大名成りが寛永13(1636)年以降の動向は次のようになります。 家光死亡の前年1650年まで「新知0・分知17・旗本加増6・旗本領に大名本家分知2・計25」 家綱死亡の前年1679年まで「新知3・分知29・旗本加増3・旗本領に大名本家分知0・計35」 綱吉死亡の前年1708年まで「新知4・分知13・旗本加増14・旗本領に大名本家分知1・計32」 家継死亡の前年1715年まで「新知0・分知3・旗本加増3・旗本領に大名本家分知0・計6」 大政奉還の年1867年まで「新知1・分知5・旗本加増11(ただし、高直し3を含む)・旗本領に大名本家分知1・計18」 全部で116名ですが、御三卿は含みませんし、改易後親族を取立てた大名も含みません。ただ、寛永12(1635)年時点で立藩している藩については追跡していませんので、途中に新規大名が存在するかもしれませんが、ご容赦ください。 ともかく、旗本から加増されて大名になった者が、寛永12年から正徳5(1715)年までに26名います。それまでの職としては、側衆・側用人などの中奥の役職者、大坂定番役(大番頭経験者が多い)、若年寄(後年は若年寄になる前に加増・大名成させて若年寄任命)などがいます。このように、旗本から大名になる者がいるという事は、御家人から旗本に、又、幕臣以外から御家人・旗本に取り立てられたり、御家人・旗本に加増されることも多かったと考えられます。さらに、家継時代までは、旗本・御家人、特に旗本が分家を派出することが新規取立てを含め多くあり、寛政重修諸家譜などを見ると確認することができます。 「藩の数と大名の数は同じですか。」という事ですが、違うのではないかと思います。この問題に直に言及している書籍を見ていないので、断定はできませんが、いくつかの事柄から想像されます。 上記の「正徳六年閏二月廿七日」の通達の中に、同じ大名分家でも、「嫡家より所領の内を分与へ。別に御朱印給はらざる輩」と「宗家より分封し。別に所領の御朱印を賜はり家立し輩」と言う違いがあります。前者を、内分分家と言い、後者を別朱印分家と呼称します。別朱印分家は「家立し輩」とあるように、別家を立てた分家と言えます。内分分家は内分分知とも言いますが、部屋住格大名(全てではありません)と言う言い方もあります。形態・実態など千差万別ですが、所領の朱印状も賜らない大名もおり、また、本藩から、蔵米(廩米)を受け取り、領地支配実態がない大名も存在します。全て蔵米で支給される大名はいないとの説もありますが、大部分を本藩に頼り、財政的な自立力を持たない大名がいることも確かですから、本藩(家)に包含される大名、部屋住格大名と言う言葉は的確な表現なのではないでしょうか。 新規大名の中に入れませんでしたが、田安・一橋・清水の御三卿は、将軍の家族とされ、大名とみなされないことがあります。内分大名も同じような存在で、形式上は家を建てていないとみなされるので、藩の数と大名の数は同じではないと思います。そうはいっても、家意識は醸成されるものですが。 内分分知 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%88%86%E5%88%86%E7%9F%A5
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- fumkum
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さて、大名についてですが、10万石以上、5万石以上、そして1万石以上と変化しています。それ以下は小名という事になりますが、どのレベル以上が小名であるのか、旗本との違いは不明です。 武家諸法度の元和令(1615)に次のような規定があり、当時は大名とは10万石以上を指したと考えられています。 「 一、諸大名参勤作法の事。*この「参勤」は京都・朝廷への参勤の事です。 続日本紀制して日く、公事に預らず、恣に己が族を集むるを得ず。京裡二 十騎以上集行するを得ず云々。然れば則ち多勢を引率すべからず。百万石 以下二拾万石以上二十騎を過ぐべからず。十万石以下は其れ相応たるべし、 蓋し公役の時の其分限に随ふべし。」 これが、寛永6年9月6日の武家諸法度頒布(部分改正)には、次のような文言があり、大名とは5万石以上を指したと思われています。 「武家の法令を仰出さる。-中略-雑人恣不レ可2乗輿1事。-中略-向後国大名。同子息。一門之歴々。幷一城被2仰付1衆。五万石以上。或五十以上之人。-以下略-」 *この出典は『徳川実紀』ですが、この記述のもとになったのが『東武実録』で、文飾があるとされていますので、注意を要する史料であることをお断りします。 この5万石以上が、1万石以上になるのが、寛永11年3月3日に発令の老中規定、および、翌年の寛永度武家諸法度の規定になります。 老中規定「天下大小の政務万機。滞りなく聞えあぐべき旨。御黒印もて仰出さる。-中略-国持万石以上の事。-中略-沙汰すべし。」 寛永令「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事。」 以上、長々と述べましたが、江戸幕府も1700年前後まではいろいろな面で改変が続き、法・制度等が整備されていく過程ということが言えます。大名の家格についても綱吉時代の後半から、家宣時代にかけて確定したと言われています。願い譜代についても、制度が確定する以前の譜代扱いされた大名は、一代譜代または一身譜代ともいうべきグループで、将軍との個人的な関係の上に成り立っており、次代には継続されない関係だったとも言えます。浅野内匠頭長矩の祖父の浅野長重と言う人物がいますが、関ヶ原の前年に秀忠の小姓と言う名目で、実質人質(証人)として江戸に下り、家康・秀忠・家光と寵愛され、5万石の程度の大名でありながら家康の養女を妻にもらっています。蒲生氏郷と信長の関係にも似たものがありますが、小姓などの役職に就く就かないに関係なく、主の人質の一面でもあったように思います。大名証人制度は家綱の時代には廃止されますが、内分大名の中には江戸定府のものもいて、その役割の中に、人質的性格があったのではと想像したりします。 以上、まとまりに欠けますが、参考まで。
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再度のご回答真にありがとうございます。 禄高1万石以上を大名とする、という過程がよく解りました。
- fumkum
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こんにちは 寛永度武家諸法度の発令は、翌年の寛永12(1635)年の6月21日で、寛永11年は、家光の上洛と勘違いされていると思います。 さて、寛永12年6月現在の大名の数ですが、216家だと思います(間違いがある可能性があるので+-10位は見てください)。この中には、蝦夷地の松前家は入りません。享保4(1719)年まで1万石格交代寄合とされていますので。さらに、御三家の付家老の五家も入れていません。 逆に、5000石の喜連川氏は、入っています。さらに、肥後を改易になった加藤忠広は一万石の堪忍料をもらい、出羽丸岡に立藩したとされていますので入っています。また、酒井忠世の嫡男の酒井忠行は、父とは別に幕府より上州板鼻に三万石を宛行われていますので、やはり、数に入れています。なお、12年6月21日に藩主交代の途中で、新藩主の補任がされていない例や、転封が発令途中の例もありますが、直後に発令されていますので数には入れています。 上記は雄山閣の『藩史大事典』で数えた数で、藩名と寛永12年6月21日現在の藩主名を抜書きすることで確認してみました。この事典には、寛永12年以降に立藩した藩や、同年以前に改易された藩も記載されています。その中で、寛永12年以降の新規立藩は、寛文・元禄・享保などの年号の事が多かったように思います。年号の使用期間が長いことも、一因だとは思いますが。さらに、明治が意外に多く、戊辰戦争などにより、藩の再編、新規立藩がされたことが見て取れます。この時期には、御三家付家老の五家が大名として認められますし、吉川家も大名に昇格します。また、交代寄合の上位知行の旗本が、高直しにより万石大名に成り上がる例も見られます。 今日は、『藩史大事典』の全て、つまり、廃絶・途中取立のを含め500藩程を確認したので、続きは後日という事で。
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いつも丁寧に回答して下さって真にありがとうございます。 なるほど、『藩史大事典』で調べることができるのですね。 市の図書館にもあって、一度他の件で調べたことがあります。 216家もあるのですか!! しかし、冷静に考えると、216家くらいで合点がいきます。 改易された大名家の数は、家光時代57 家綱時代26 綱吉時代45 家宣以降は一気に少なくなって15代慶喜までに計41家 だそうです。 改易されてもほとんどの場合、その藩には新しい領主がやってきますから、藩の数も大名家の数も改易の数ほど変動はありません。 ということは、藩の数・大名家の数は、徐々に増えていつごろか知りませんが、260家を超えたのでしょう。 私が知っている大名家の数は、「小川恭一翁柳営談」によれば 寛政10年(1798)末 264家 慶応3年 (1867)末 271家(減少2、増加9) ただし、喜連川家を含む。附家老5家は除外です。 質問には、外堀普請の総数112家と書きましたが、1万石未満の“小名”が7家あります。 石垣方には、播磨林田、播磨新宮、筑後三池ほか1万石かっきりの大名も含まれています。 江戸城、二条城、大坂城ほか天下普請が続きましたから、最後の大工事といわれる外堀普請には余力のある大名家が参加したのでしょうが、「216家」の中には、一度も天下普請に応じなかった大名がいるのか、また新しい疑問が湧いてきます。 >寛永度武家諸法度の発令は、翌年の寛永12(1635)年の6月21日で、寛永11年は、家光の上洛と勘違いされていると思います すみません、ご指摘のとおりです。 安易に他人様のブログからコピペして間違いました。 今回も丁寧に教えて下さって真にありがとうございます。 疑問は解消しました。感謝の気持ちでいっぱいです。
お礼
再度の詳しいご回答、真にありがとうございます。 私のような取り止めのない質問者にこんなに懇切丁寧に答えてくださって、真にもったいない気持ちでいっぱいです。 私は昔の仕事柄、「それは本当か、どんな方法で確認したのか」と思うクセが抜けません。 パソコンである程度までは調べることができますが、情報が多すぎて、それに食い違った意見もあって、ウソかマコトか判断できない場合も多いです。 寛永12年(1635)の武家諸法度改定時の頃であれば、大坂の陣の後始末をする改易も済んでいるはずで、幕藩体制の基礎もでき、大名家も安定している状況だと判断して、その頃の大名数を知りたくなって質問しました。 幕府が「改易」すると言っても、幕府という名の独裁者が居るわけではなく、老中が合議制で改易の可否を決めるわけですから、明日はわが身に降りかかるかもしれないのに、情け容赦なく「一つでも大名を減らす」という政策を採り続けたのか、という疑問が出発点です。 >元和2年から吉宗が将軍になった年の正徳6年までの改易の推移を概算すると、次のようになります。 元和2年~元和9年の家光将軍襲位までが、約250万石 寛永9年の秀忠死去までが、約140万石 慶安4年の家光死去までが、約200万石 延宝8年の家綱死去までが、約70万石 宝永6年の綱吉死去までが、約150万石 正徳6年(享保元年)の家継死去までが、約16万石となっています。 >合計800万石強となっています。 詳細な数字でよく分かります。ありがたいです。 元和2年から正徳6年ですからちょうど百年間に、合計826万石を改易したのですね。 寛永12年を基準で考えますと、元和2年から寛永12年までの20年間に凡そ390万石、以後正徳6年までの凡そ80年間に440万石を改易したことになります。 そして「改易石高の凡そ1/2が幕府領・旗本領に使われ、400万石程度は大名領となった」ということですね。 >吉宗以前、より正確には綱吉時代までは、新知・分知・加増が盛んに行われています。>ちなみに、新知・分知・加増による新規の大名成りが寛永13(1636)年以降の動向は次のようになります。 >全部で116名ですが、御三卿は含みませんし、改易後親族を取立てた大名も含みません。 先に、凡そ216家(10家くらいは前後するかも)と教えていただきましたが、新知・分知・加増が盛んに行われた一方、世継なし、武家諸法度違反、領内統治の不行届き、乱心などで“取り潰し”になった大名家も多々あり、260-270家に落ち着いたということが分かりました。 無嗣断絶による改易が多いですが、これは放置しておけば御家騒動を惹き起こすおそれがありますから、当時の処置としては当然だと思います。 >このように、旗本から大名になる者がいるという事は、御家人から旗本に、又、幕臣以外から御家人・旗本に取り立てられたり、御家人・旗本に加増されることも多かったと考えられます。 御家人から旗本になった例はかなり多かったようです。 どのようにしてなったのか、以前から気になっていまして、いつか質問してみようと思っています。 学問所になるまでの林家の私塾に通ったのはほとんどが御家人の子弟で、旗本の子弟は少なく、旗本の驕りがあったという指摘があります。 「寛政重修諸家譜」は、一度見てみたいと思っています。 >「藩の数と大名の数は同じですか。」という事ですが、違うのではないかと思います。 内分分知のwiki を読みましたがまだよく理解できません。 1万石未満の藩があり、この領主は大名とは言えないので、藩の数の方が多いということですね。 寛永12年頃の大名の数、そしてその後大名の数が増えていったことがよく理解できました。 感謝の気持ちでいっぱいです。