• ベストアンサー

家光親裁と毛利秀元

山本博文東京大教授の「江戸城の宮廷政治」の図(家光親裁のときの大広間座配)によると、大広間中段の井伊直孝・土井利勝や御三家、仙台・加賀・薩摩の各中納言につづいて、大広間下段の右側の列は越前宰相忠昌、毛利長門秀就、毛利宰相秀元、細川越中忠利、鍋島信濃勝茂・・・の順になっています。  毛利秀元はわずか五万石の小名ながら細川や鍋島の上座となっています。秀元は家光の御咄衆でしたし、長府藩主は血筋の途切れる5代目までは官位も従四位下(侍従)と国持ち大名に順ずる扱いを受けていたようですが、官位以外の点でも国持ち諸侯と対等に処遇されていたのでしょうか?

noname#30350
noname#30350
  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.3

『近世防長諸家系図綜覧』『寛政重修諸家譜』で調べました。 毛利秀元から元矩にいたるまで准国主大広間となっています。 また、毛利秀元の室は豊臣秀長の娘ですが、後添えは松平康元(徳川家康の異父兄弟)の娘です。 二代光広の室は本多忠義(本多忠政と松平信康の娘との三男)の娘です。家光の姉千姫が嫁いだ本多忠刻は本多忠義の長兄です。 三代綱元の室は池田光政の娘です。 綱元の子で本家を継いだ吉元の室は池田綱政の娘です。

noname#30350
質問者

お礼

わざわざお調べ頂きありがとうございます。 長門府中毛利家は元矩ませは大広間詰めの准国主の家格だったのですね。長門・周防は毛利本家が一国一円に領地判物を戴いていて長府藩はその内分での支藩に過ぎないのに宇和島伊達家や柳川立花家と同じく准国主だったというのは細かな格式が重視される時代にあってかなり意外な感じがします。同じく本家の内分の支藩といえば佐賀鍋島家の三支藩が有名ですが、こちらは対外的には大名でも対内的には家臣の扱いだったと聞きます。 やはり秀元が家光お気に入りの御咄衆で、官位も正三位参議と高かった事が大きく関係しているのでしょうか。 毛利一族は越前松平家と岡山池田家と縁戚を重ねているようですね。 家光親裁の座配で毛利の席次が越前宰相忠昌の次となっているのは、毛利が幕初に越前松平家と姻族関係を重ねていて、越前家が折々に毛利家の後見役となっていた事が関係あるのかなとも思いました。 ありがとうございました!

その他の回答 (2)

  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.2

一目見てわかるのは諱ですね。将軍家から一字拝領しています。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 二代・三代と将軍より偏諱を受けているみたいですね。 そうなると五代目までは伺候席も柳間ではなく大広間だったのでしょうか。 信長の子孫も途中までは国主格で官位も従四位下侍従だったようですが偏諱までは受けていなかったようですし、宇和島伊達・柳川立花といった准国持大名や一部の国持大名(土州山内家・久留米有馬家など)ですら偏諱を受けてないので、わずか5万石でしかも独立に朱印状を賜っている訳でなく毛利宗家の内分の大名に過ぎない長府藩がこのような特格だったというのは何故なのかと思い質問させて頂きました。

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.1

毛利家がらみは、何かと複雑ですね。 長府藩の処遇?は、もともと毛利輝元の後継者としての格があり、 徳川とも懇意にしていた毛利秀元の一代限りの厚遇だと思っていた のですが、ご質問のようにいったん血筋が断絶するまで厚遇が続い ていたのなら??ですね。 岩国藩吉川家も幕府からは独立藩の扱い、毛利家の中では分家とい うか臣下の扱いというか、不自然な状態です。 以下は私の勝手な想像なのですが、徳川の毛利切り崩し政策のよう な臭いが感じられます。つまり、毛利宗家を中心に結束したい毛利 側に対して、徳川としては吉川と毛利秀元系を厚遇することで、毛 利宗家の優位性を相対的に低め、あわよくば分断しようという意図 があったのではないかと‥ 確か、長府藩の独立未遂事件のような ものもあったような。徳川が裏で糸をひいていたのかどうかは知り ませんが‥

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 吉川氏は公儀は諸侯として扱っていたのに、毛利宗家が認めなかったと言われていますね。ただ、二代当主・吉川広正は輝元の娘を正室に迎えていますし、少なくとも広正の時代までは宗家ともそこまで仲違いをしていた訳ではなかったようです。おっしゃるように秀元が秀就と仲が悪くなり、吉川や徳山藩にも宗家から独立を働きかけていますが吉川は断っているようです。加えて、毛利宗家の永代家老(一門の八家)の内、2家は吉川家の系統ですから関ヶ原の因縁があるにせよ、どうしてそこまで頑なに吉川が大名になるのを阻止したのか個人的には疑問です。支藩(長府府中五万石)の支藩(清末一万石)すら大名になっていますから、吉川としては面白くなかったことと思います。  公儀は一貫して吉川家を完全な陪臣とは見ていなかったようです。吉川家は白無垢着用を許されていたようですし、赤坂などに屋敷も拝領しています。御三家御附家老などと同様、陪臣以上大名未満の立場だったのではないでしょうか。 すみません、蛇足がすぎました。私は法学部の学生で高校で日本史を選択していないもので、間違っている点があればご容赦下さい。 山本先生の「江戸お留守居役の日記」にもその辺の苦労が書かれていましたが、秀元は家光の話し相手であり幕府有力者とも相当昵懇だったので宗家も手を焼いていたようですね。

関連するQ&A

  • 長府毛利家について

    長府毛利家は三代藩主までは国持ち大名格であったと聞いたのですが、本当でしょうか? 長府藩は長州藩の内分大名で、石高も五万石と小名ですし、何より関ヶ原の敗軍の将なのにどうしてそういった待遇を受けていたのでしょうか? 初代秀元が三代将軍家光の御咄衆で、宰相であったことと関係があるのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 大名

    同程度(二十~四十万石)の国持ち大名でも、歴代当主の多くが四位少将まで進む家(両池田・浅野など)がある反面、歴代ほとんど侍従どまりの家(毛利・鍋島・山内など)もあるようです。 伊達家は十万石の准国持ちながら何代も少将に叙されています。 五十万石を超える大大名・細川越中家も、中将・少将まで進んだ当主がいる反面、侍従止まりの当主も多い様です。 官位の違いは将軍家との関係の親疎が影響しているのでしょうか? 確か在位三十年で少将だった様な気もするのですが、何か基準があったのでしょうか… ご意見を伺えれば幸いです。

  • 大坂の陣と毛利について

    毛利輝元は、大坂の陣の際に家臣の内藤元盛を「佐野道可」として大坂城に入城させていたとのことですが、どうしてこんなに危険な行動をとったのでしょうか? 発覚すれば御家存亡の危機となるのは必定でしょうし、現に幕府にバレて大きな問題になっているみたいです。 聡明だったとされる長府宰相秀元や現当主の秀就も承知の上だったというのが信じられません。

  • 長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇

    毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。 関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏緯を与えられています。綱元は侍従にも任じられています。この「四品、侍従、将軍の偏緯」と言う待遇は、国持大名である毛利本家の当主と同じです。5万石の大名としては、他に例がない厚遇と思われます。 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/chofu.html 4代目・5代目は四品には上っても将軍偏緯は与えられず、秀元の直系が途絶えた6代目以降は「普通の5万石の大名」扱いになっていますが。 秀元は江戸時代に「戦国の最後の生き残り」的な尊敬を受けた人だったようですが、1651年に生まれた3代目の綱元(秀元の孫)にまでその余慶が及んだということでしょうか?4代目に至り、将軍の偏緯を受けなくなったのも何か理由がありそうです。

  • 従三位中納言と正三位参議どっちが上?

    江戸時代の武家の官位は複雑です。 位階が低くて官職が高いのと位階が高くて官職が低いのが存在しているようです。どっちが上ですか。 1)従三位中納言(水戸家)と正三位参議(典厩家) 2)正四位下参議(前田家)と従三位中将(尾張、紀伊初官) 3)従四位上中将(島津、伊達極官)と正四位下少将(水戸、前田家初官) 4)従四位下少将(国持大名極官)と従四位上侍従(越前松平家初官)

  • 秀忠?家光?

    1626年に行われた後水尾天皇の二条行幸について質問です。 このとき仙台藩主だった伊達政宗は大御所秀忠公と、将軍家光公のどちらについたのでしょうか? いろんなサイトで調べたのですがよくわかりませんでした。 a 将軍家光は政宗を含む諸大名を伴い参内した。そのとき、駿河、尾張、紀伊、水戸が願い出た紫の総の使用を許さなかったが、外様大名である政宗には使用を認めた。(親代わりである政宗が幕府にいるので心配は無用だという朝廷へのアピールの為) b 将軍家光に対して大御所秀忠は、政宗や佐竹善宣ら多くの大名や旗本を従えて上洛した。 主にこの2つの話が出てくるのですが、実際はどうだったんでしょうか? この二人は仲がよくなかったようなのですが、この時も険悪だったのでしょうか? 秀忠は死に際に、家光を頼むと政宗に頼んでいたようなので、もう和解?済みだったのでしょうか? 詳しい方いらっしゃいましたら教えて下さると助かります。 よろしくお願い致します。

  • 徳川家光について

    徳川家光について詳しくまとめてあるサイトや、武家諸法度、参勤交代、鎖国、大名の統制、慶安のお触書など、家光に関係することが分かりやすく書いてあるサイトがあったら教えてください。

  • 徳川家光

    家康の孫である家光は、 家康から織田信長や豊臣秀吉や武田信玄など、 どんな人物か話は聞いていたのでしょうか? 乳母の春日局からは明智光秀の話とか聞いていたのでしょうか?

  • 徳川家光について

    三代将軍徳川家光は、型破りな人だったというのは本当ですか?織田家の血を引いていることと関係ありますか?

  • 毛利元就

    毛利元就が好きで、小説を読んだり、大河ドラマを過去に観たり毛利氏にまつわるトコロに行ったりしています。そこで最近気になりはじめたのが、(1)毛利元就の子孫の方は現在どうされているんだろう・・・(2)元就の最後の息子「二宮○○(○○は忘れました)」の子孫の方は現在どうされているんだろう・・・という二つの疑問です。一つでも分かる方、教えてください!