秀忠?家光? 1626年後水尾天皇の二条行幸についての質問

このQ&Aのポイント
  • 仙台藩主、伊達政宗は1626年後水尾天皇の二条行幸に参加した際に、大御所秀忠公を支持した。
  • 将軍家光は政宗を含む諸大名を伴って行幸したが、外様大名である政宗には願い出た紫の総の使用を許可しなかった。
  • 秀忠は死に際に家光を頼んでおり、和解が済んでいた可能性がある。
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秀忠?家光?

1626年に行われた後水尾天皇の二条行幸について質問です。 このとき仙台藩主だった伊達政宗は大御所秀忠公と、将軍家光公のどちらについたのでしょうか? いろんなサイトで調べたのですがよくわかりませんでした。 a 将軍家光は政宗を含む諸大名を伴い参内した。そのとき、駿河、尾張、紀伊、水戸が願い出た紫の総の使用を許さなかったが、外様大名である政宗には使用を認めた。(親代わりである政宗が幕府にいるので心配は無用だという朝廷へのアピールの為) b 将軍家光に対して大御所秀忠は、政宗や佐竹善宣ら多くの大名や旗本を従えて上洛した。 主にこの2つの話が出てくるのですが、実際はどうだったんでしょうか? この二人は仲がよくなかったようなのですが、この時も険悪だったのでしょうか? 秀忠は死に際に、家光を頼むと政宗に頼んでいたようなので、もう和解?済みだったのでしょうか? 詳しい方いらっしゃいましたら教えて下さると助かります。 よろしくお願い致します。

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  • Pinhole-09
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回答No.1

亀山歴史博物館に「寛永三年二条城への行幸覚書」が 残っている。 前征夷大将軍左大臣源秀忠公、同右大臣源家光公とあり 二人が天皇をお迎えしたことが判る。 その行幸次第目録によると 行列の初めは公卿や朝廷に仕える人、つぎは小大名の列、 そのあとに将軍の車、尾張大納言義宣、紀伊大納言頼宣、 駿河大納言忠長、水戸中納言頼房、 次から外様、親藩などの大大名が続く。その筆頭が仙台 中納言(松平陸奥守正宗)、次は加賀中納言、薩摩中納言、 越前宰相、備前宰相、会津宰相と続き、そのあとは格落ち で二列になる。 その筆頭が□□中将と秋田中将佐竹義宣、あと諸大名、 天皇の鳳輦、関白など高位の公卿、朝廷に仕える人となる。 これで目立つのは伊達正宗、佐竹義宣の優遇である。 (政宗でなく正宗と書かれている)家光の引きたてと思う。 秀忠と家光は特に明示されていない。将軍の車は二台で 続いたものと思われ、両者が不仲であったとしても外部に 見せるはずはない。 天皇を迎える籍の配置図もあり、通路の両側に二列にならび 左に家光、右に秀忠を頭に関白等の公卿が並んでいる。 ウイキによると、家光の天皇行幸に、秀忠がひとかたならぬ 努力をしており、和解ずみの可能性が大。 あと将軍の参内というのは聞いたことがないが。 以上少しでもお役にたてば幸。

pompier
質問者

お礼

詳しい解説ありがとうございました! 調べてもここまで詳しいことは分からなかったので助かりました。 将軍の場合は参内とは言わないんですね。勉強不足ですみません。 和解もしていた可能性が高いとのことで、こちらの件もすっきりしました。 本当にありがとうございました!

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