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大名
同程度(二十~四十万石)の国持ち大名でも、歴代当主の多くが四位少将まで進む家(両池田・浅野など)がある反面、歴代ほとんど侍従どまりの家(毛利・鍋島・山内など)もあるようです。 伊達家は十万石の准国持ちながら何代も少将に叙されています。 五十万石を超える大大名・細川越中家も、中将・少将まで進んだ当主がいる反面、侍従止まりの当主も多い様です。 官位の違いは将軍家との関係の親疎が影響しているのでしょうか? 確か在位三十年で少将だった様な気もするのですが、何か基準があったのでしょうか… ご意見を伺えれば幸いです。
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- 6dou_rinne
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御回答ありがとうございます。 官位は石高で決まるものではないのですね。 とても参考になりました。