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大名
6dou_rinneの回答
- 6dou_rinne
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各大名家の極官については大体の基準はあるものの、詳細についてはそれぞれの家の由緒や徳川家との関係などでできあがってきたもので石高や国持ち、準国持ちといったような関係で一律にきまるものではなく、それぞれの家の歴史の積み重ねでなんともいえません。 同じ家の当主で官位に違いがあるのは、最初のスタートは同じでも若くして死んだり、隠居したりすると極官までたどりつけないといったことがありますので、途中で家格が変わらなくてもばらばらになります。 侍従から少将への昇進は、家督から30年という基準がありましたが、50歳を超えていれば30年に満たなくても少将になれました。 宇和島の伊達家については初代が侍従であったという由緒から30歳になれば侍従になれました。
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御回答ありがとうございます。 五十になれば三十年未満でも少将になれたのですね。