大名の江戸屋敷での暮らしぶり(伊達藩)

このQ&Aのポイント
  • 大名の江戸屋敷での暮らしぶり(伊達藩)について、具体的な情報や証拠をご存知の方、または関連する資料や映画・小説などを教えていただけませんか?
  • 徳川幕府による大名の統制と経済力の削減策として、人質をとって参勤交代を行っていたことは知られています。しかし、元和二年(1616)頃の伊達家の江戸屋敷での暮らしぶりを具体的に知りたいです。
  • 伊達藩は正室の他に側室も江戸屋敷に住まわせていたのでしょうか?側室は正室と同じ上屋敷に住んでいたのか、それとも中屋敷に住んでいたのか気になります。また、当時の屋敷は側室を収容するために足りないほどの広さだったのでしょうか?さらに、香の前などの特別な側室は別の場所に住んでいた可能性もあるのでしょうか?
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大名の江戸屋敷での暮らしぶり(伊達藩)

徳川幕府は大名から人質をとって、隔年四月ごとに国許と江戸を参勤交代させて統制と経済力を削(そ)いだのは知ってますが、元和二年(1616)頃の伊達家をクローズアップした場合、具体的にはどんな感じだったのでしょうか?。 (1)前田藩の正室は江戸上屋敷。側室は国許とか。それゆえにお家騒動の遠因になったとか。伊達藩は正室と忠宗はむろん側室(猫御前)と秀宗も江戸住まいを強要されたのではないのでしょうか?。ご存知の方は書き込みお願いします。 (宇和島藩の藩祖になる秀宗と猫御前は側室なれど、政宗の嫡男であり豊臣政権では伏見屋敷に住んでいた) (2)側室も江戸屋敷にいた場合、正室と同じ上屋敷なのか中屋敷なのか。 特に寛永年間の前の元和二年当時ならば、数多い側室を江戸に住まわせた場合、屋敷は三つでは足りなかったのではないか。 ただ香の前(秀吉との碁の勝負で縁)は、仙台城内にも置かなかったとあり、江戸か国許でも別宅だと推察できます。 五郎八郎姫すら離縁後は仙台郊外に住まわせたとか。 ご存知の方、出来れば立証となる資料。あるいは映画や小説でも構いません。

  • gart
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  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sigino
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回答No.1

正室は江戸ですが、側室は双方にいるでしょう。 もっとも、「お手つき」と「側室」の区別が難しいですが。 香の前は「お手つき」ですが「側室」ではないですね。 正室のいる場所は決まっていても、その他は殿様のいくところならどこにいてもおかしくない気がしますよ。 伊達家ならばとりあえず治家記録と徳川実紀をチェックされてはいかがでしょうか? 側室の場合は所生の子どもがどこで生まれたか、また妊娠時期を逆算してソノ時、政宗がどこにいたかををチェックすると、側室がどこにいたかが見当つくと思います。 元和2年だと、夏の陣のあとですから、秀宗はすでに宇和島入りしてるはずです。 それに、寛永あたりだと屋敷の使い方が落ち着きますが、元和だとまだきっちり決まってないんじゃないですかね……。 五郎八姫は仙台郊外ではなく、「西屋敷」です。二の丸にあたるところで郊外ではありません。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4623046222 伏見にも伊達家の屋敷は3つありましたし。 http://www.city.sendai.jp/kikaku/kokusai/city/date/bangai.html

gart
質問者

お礼

早速の回答を有難うございます。 読んでてなるほどと思いました。元和二年はまだ参勤交代制度として確立していないから余計に判りにくいですよネ。 政宗がその時に、どこにいたかを逆算して見るというのはなるほどと思いました。

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