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江戸時代。大名同士の付き合い。

幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。 制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。 この法を監視する役職は何ですか。 違反して咎められた大名家はありましたか。 江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。 すると、婚姻圏は大きいと言えず、大名家同士、いっぱい親戚関係になります。 しかし、この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。 それをどこまで管理できたのかという疑問です。 よろしくお願いします。

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  • dayone
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回答No.11

基本的には制限は無いと思います。 下記は江戸中期の大名交流の一情報に過ぎませんが… ・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>点取俳諧集 http://kikutsura.com/tentori/ 菊貫(真田幸弘)は、安永初年頃から文化12年までのおよそ40年間、 米翁(柳澤信鴻)や華裡雨(細川重賢)などの大名俳人や家臣たちと江戸藩邸や松代城下で、 百韻(俳諧連歌のひとつ)を巻いて遊んだ。 ・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>フォーラム案内 >真田フォーラム2010─真田フォーラム2010の記録冊子(PDFファイル) <9~16/64> 西田耕三先生「細川重賢の俳諧」 http://kikutsura.com/wordpress/wp-content/uploads/2012/06/2db36775d88aa353799ba8d1475c1af8.pdf <12/64> …それから興行場所は江戸藩邸が多い。細川の場合はほとんどそうですね、江戸です。… …それから上野の寛永寺でやっている。もちろん他でもやっている。 残っている作品で申し上げているわけですけどもね。 ですから、圧倒的に江戸藩邸が多い。表海楼という部屋と蘭嘯閣という部屋があって、 大名によって区別をしているんですね。 気の張る大名だったら蘭嘯閣に呼んで、それで大した、大したって言うのもなんですけども、… …親しい大名だったら表海楼、常の居間って言っているんですけど、そこでやるんです。 これ、歴然としているんです。そういう意味では、これ、参考になるんですね。… <13/64> …で、これは裏付けがとれるんです。これはまた、作品が残っているわけです。 で、今日は一点集中というか、安永四年、十月二十五日の俳諧興行について こういう約束が一つある。で、実際の俳諧が二枚目の下の段と上の段と言いますか、 上の段の下の方にある32段の百韻書き起こし、安永四年、十月二十五日、表海楼という、 これはさっき言った気の張らない仲間ですね。 これが先程の三花を呼んでくれという。で、三花は登場して来ませんからね、 多分都合が悪かったんだろうと思いますね、青木甲斐守。… 〇真田幸弘<信濃・松代藩主/宝暦2年(1752)~寛政10年(1798)> 外様(譜代格)/帝鑑間 [元文5年(1740)生─文化12年(1815)没] 〇細川重賢<肥後・熊本藩主/延享4年(1747)~天明5年(1785)> 外様/大広間 [享保5年(1721)生─天明5年(1785)没] 〇柳沢信鴻<大和・郡山藩主/延享2年(1745)~安永2年(1773)> 譜代/帝鑑間 [享保9年(1724)生─寛政4年(1792)没] 〇青木一貫<摂津・麻田藩主/明和7年(1770)~天明6年(1786)> 外様/柳間 [享保19年(1734)生─天明6年(1786)没] 以上 御参考まで^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

いつもご親切な回答をありがとうございます。 「真田フォーラム2010─真田フォーラム2010の記録」は、将に待ち望んでいた話です。 このフォーラムは気付きませんでした。 私が知りたかったのは、大名本人どうしがお互いの藩邸を私用で行き来したのか、という疑問でした。 当時の日記が3百藩全て残っているわけではなく、残っていても幕末の記録が多いです。 このフォーラムの講師の発言で、鳥取藩の『御留守居日記』の話が出てきます。 私にとって大変参考になる個所です。 (以下、引用) 鳥取の資料にはですね、俳諧っていう言葉は、私は一度も見たことないですね、どういうわけか。どこどこへ行ったということはしょっちゅう出てきますけれど、俳諧のために行ったとか、蹴鞠のために行ったとか書いてないんですね。 それは資料の性質にも拠るんだと思いますけどね。『御留守居日記』というまあ、公のものだからかもしれません。で、これは裏付けがとれるんです。(引用終わり) ここで、蹴鞠の話が出てきますが、これも興味深いです。 (以下、引用)  それから、その次の「鞠壱ッさかし出さるゝ寺の秋」。本当に優雅なことしていたと思うのですが、このように藩邸で句会を催した時には、きっと句会ばかりではなくて、その前にお茶の席を設けたり、あるいは蹴鞠をして遊ばれたんだそうですね。 そういう事が先生方の論文の中に書いてあります。そういう事を考えるとやはり殿様たちがこういうことをして、連句を詠んで、そして最後には宴会を催して夜中にお帰りになった時の風景が、何となくイメージとして湧いて来るような気がします。(引用終わり) さらに、驚いたことですが、俳諧が趣味の大名の奥さまが、主人不在の場合(多分お国に帰国)一人で俳諧の場である他藩の藩邸へ出かけ、出席していることです。 (以下、引用) おそらく御主人の升来公(肥前島原藩主松平忠恕)が参勤交代で島原へ行っているんだろうと思うんですね。で、一人の時は菊貫といっしょに一人の俳諧宗匠として、あるいは俳諧の作者として春秋館へ出掛けて行っているということがわかります。 だいたい出かけているのが陸州の春秋館と白日楼、すなわち、松代の菊貫公の屋敷へ一人で出かけているという事になります。もちろん侍女だとかのお供を連れて行列を作って行くわけでしょうが。 ここで僕が一番おもしろいのは、俳諧の場に置ける女性が身分的に自由であるということですね。 譜代も外様も趣味の世界ではそんなに格式ばらずに付き合っているようですが、好き嫌いはあるようですね。これが面白い。 >圧倒的に江戸藩邸が多い。表海楼という部屋と蘭嘯閣という部屋があって、大名によって区別をしているんですね。 >気の張る大名だったら蘭嘯閣に呼んで、それで大した、大したって言うのもなんですけども、……親しい大名だったら表海楼、常の居間って言っているんですけど、そこでやるんです。 >これ、歴然としているんです。そういう意味では、これ、参考になるんですね。… 菊貫(真田幸弘)は、安永初年(1772)頃から文化12年までのおよそ40年間、諸大名と俳諧を通して付き合っていますね。 関ヶ原から170年経った頃の大名どうしの私的な交際の様子が大変よく解りました。

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  • fumkum
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回答No.15

NO8です。お礼をありがとうございます。追記を。 寛永七年五月二十二日に仙台藩主伊達政宗が、薩摩藩主島津家久(忠恒)を客として茶会を催そうとしたことがあったそうです。その時に、政宗が、「家臣に能を演じさせましょう」と申し入れ、家久は「ぜひ参ります」と返事をした。そこで、政宗が能役者の喜多七太夫に、能役者を貸すように申し込んだところ、喜多は、勧進能で無理と断ります。これに対して政宗は、「役者を貸さなければ、役者をみな切り捨てる。もし、将軍が役者に味方して、非を問うならば、その時のこと」と広言します。これを聞いた家久は、立花宗茂、寺澤広高に相談し、腹を患ったことにして政宗に延期を申し入れます。これに対して政宗は、「たとえ病気だとしても、一番ぐらいは見物してください。そうしないと、相客として招いた方へも面目がたちません」と申し越した。家久は固辞をし、おそらく立花らがいろいろとなだめて、どうにか能は二十七日まで延期されることになった(以上、内容をまとめて記載)。という話が、山本博文の『江戸城の宮廷政治』に出ています。石高NO2とNO3の大名の話ということになります。最初の茶会の話から、能に中心が移ってしまっていますが、大名の交際の一端がわかります。 ここでは、茶会や演能などで、大名が大名を客として招くこと。その場合、相客があったことが分かります。山本博文は、この中で、立花宗茂、寺澤広高の両人は豊臣時代以降島津家久と親しいとしていますし、「(細川)忠興と丹羽長重、立花宗茂、島津家久らとの交友とやりとり。これらは豊臣期以来の付き合いで、一種の情報交換のルートであった。」としています。ともかく、幕府に警戒されやすい外様の大大名同士が一方を正客として堂々と招くのですから、その他の大名においても相互に招かれるなどの交際もあったことだと思います。 『江戸城の宮廷政治』には、これ以外にも、細川忠興(隠居後)が能を興行して、森忠政らを招いたこと。浅野長重・永井直清(後に大名)が忠興から能の練習のために下屋敷の舞台の借用をしたこと。京極忠高の相撲興行の場に、青木一重の子息の重兼がいたことなどの例が出ています。 これらは、忠興を中心にした例であり、大名子息も含まれる例ですが、茶会・演能・相撲などで伊達・島津のように大名の交際があったことが想像されます。ただ、能は武家の式楽と言われるほどで、代々の将軍が好み、自らも演じ、大名にも演じさせるという事が多く、さらに将軍が大名の家に御成りの場合にも演じられるなどで、趣味というより、大名の交際のための必須のマナーという色彩が強いものです。 茶会は、『江戸城の宮廷政治』に「茶会は政治的にあたりさわりのない話が多かったと思われるが、世間話の中には高度に政治的な噂が出ることもあり、気安い者同士の情報交換の場になっていた。年寄(*後の老中)を招いたり、年寄に呼ばれたといった場合は、その年寄との関係を深めるための重要な場である。」としている通りであると思います。茶会が戦国時代以降大名に好まれるのは、狭い空間に集う形式であることにもよるのではと思います。 さて、老中(若年寄も)との交際ですが、ご存じであるかもしれませんが、公式なものとして、対客日、逢日というものがありました。時期により変わりますが、おおよそ次のようです。 延享四丁卯年正月廿七日 月番老中対客定日 三日 差合候得ば四日 五日差合候得ば六日 七日 十一日差合候得ば十二日 十三日 十八日差合候得ば十九日 廿一日差合候得ば六日 廿三日 廿五差合候得ば廿六日右之通申合候。 『古事類苑』「教令類纂」より 老中 月番之節は、毎朝対客有レ之、但御精進日は除レ之、使者之間へ出て、一両人づつ代るがはる体面、諸願又は役筋之内聞有レ之事なり、御家門、国持大名之溜詰等之面々は大書院也、又挨拶柄により、小書院、内書院にて謁見、(以下略) 『古事類苑』「有司勤仕録」より。 享保元丙申年九月九日 一八日 廿日 廿四日 右三日共に老中、若年寄中、向後対客有レ之筈に候間、寄々可レ被2申達1候、『古事類苑』「憲教類典」より 延享三丙寅年二月二日 佐渡守殿御渡      御目付 江 老中若年寄対客之節、七半時分より何も詰掛、殊外騒敷、前々之通、明六時過に揃候様、向々江可レ被2申達1候、尤(*もっとも)大御所様〇徳川吉宗 大納言様〇徳川家治 御目付江も可レ有2通達1候、 『古事類苑』「憲教類典」より。 対客日のような公式なものではなく、私的に各大名が老中等を招くことは用例が多いことです。 さらに、これもご存じだと思いますが、各藩の留守居役-御城附とか城使など各藩により名称は異なりますが-や家老・使番などによって情報取得・使者・下交渉などが各大名間で行われています。 http://asiabaku9.exblog.jp/7510362/ 以上、参考まで。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々ご回答下さいまして誠にありがとうございます。 >これに対して政宗は、「役者を貸さなければ、役者をみな切り捨てる。もし、将軍が役者に味方して、非を問うならば、その時のこと」と広言します。 すごい話ですね。 戦場を戦い抜いてきた政宗のド迫力を感じます。 島津家久(忠恒)もしかりです。 戦場を知らぬ家光は、政宗、家久の発するオーラに圧倒されたことでしょう。 関ヶ原の経験者(しかも大物)が居なくなってから、大名に対する幕府の統制がより厳しくなっていったのかもしれません。(私の想像です) >茶会・演能・相撲などで伊達・島津のように大名の交際があったことが想像されます。 同感です。 なかでも能は、かなり頻繁に催されています。 茶は、密室でできますから密談の疑いをかけられる虞がありますが、能は開放的ですから。それに将軍家も熱心でしたから、大名に招宴能をするなとは言えません。 山本博文著『江戸城の宮廷政治』は、面白そうですね。 お陰さまで疑問は解消しました。

  • 0fool0
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回答No.14

>幕府の制として川へは行けない。舟に乗れないことになっていた。(稲垣史生著『三田村鳶魚 江戸武家事典』) 知りませんでした。 案外、密談を恐れたのかもしれませんねw >大坂の陣から百年以上も経てば、そもそも趣味の世界で外様同士、譜代同士と互いに意識していたか、疑問です 私もこれまでのやり取りの中で、新しく調べて出て来た事実や解釈が出来上がって来ました。 難しいのは「付き合いの範囲」が何処までなのかがサッパリ判らない事です。 今の私の解釈では、中期以降であれば(恐らく)大名が望む限りの交流が可能で有ったであろうと言う事です。 現実に外様は減り続け、親藩・譜代は増える一方でした。 実際松平ばっかりだったし、外様も(全部かは知りません)松平を正式家格名にしていましたから。 >むしろ、外様大名家と譜代・親藩大名家の婚姻がどのように進んだのか、に興味があります 初期は将軍家から積極的に外様に嫁がせましたが、中期以降は親族間の結束を高める為か、近親の親藩が多かったですね。 と言うより、子供自体が少なすぎて、将軍家の維持自体が難しい状態でしたけど。 正直、母系と言うか、母親の記録って、妙に少ないんですよね。 ですので、どうしても片手落ちの結果ばかりになってしまいます。 恐らく記録の無い女性は身分の憚られる出身であったかもとは思いますが、それも想像でしかありません。 城もその多くが破却されてしまった現在では、歴史学上では調べるのは非常に困難な道のりでしょう。 残る手は考古学上での考察のみかも・・・

kouki-koureisya
質問者

お礼

いろいろ教えて下さってありがとうございます。 私のような歴史の初心者は、毎日毎日次から次へと疑問が湧いてきます。 今回も質問した甲斐がありました。

  • 0fool0
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回答No.13

>「能」「茶道」「俳諧」 俳諧は時代が大分下るので既に公儀の締め付けが緩んでいた頃になります。 身分のタガが大分外れた文化なので、市井で行われる物は、珍妙なコスプレまでして身分を忘れて行われたようです。(当然、会によって武士も混ざっていました) 今のコミケ(違うか?)に近いでしょうか。(どちらかと言うと、同人会?) 「茶」(武家茶)と「能楽」は武家の物ですので、これは通常武家以外には有り得ません。 ポイントは交流に用いられていたかどうかですが、すいません、今は私にはデータがありません。 雑記として、「猿楽」には、かつて今よりも多くの諸流派が存在しており、第二次大戦後の舞台の消失から、「能楽」諸流派の合同稽古が行われる様になったとの事です。 その際に「体」の運用に流派間での違いが大きな衝撃だったらしく、交流の少なさを物語る物となるかと思います。(明治期からの80年がこれを産んだのか、江戸期からなのかは判りませんでした) また猿楽者の交流がイコール大名の交流ともなりませんので、あくまで、考察の一つとして・・・。 >「武家と能楽をめぐる歴史的研究」 南部藩の能の記録 堀田正俊の時代は幕末で既に頻繁に大名間での交流がありました。 >親藩大名松平不昧と譜代大名酒井宗雅の茶道を通じての交流です。 親藩・譜代なので、何とも言えませんが、この頃になると外様「同士」でも出来たのでしょうか? >松代藩第6代藩主真田幸弘の文藝 (俳諧) 松平定信の叔父に当たりますし、後の幸貫が定信の子ですし、そもそも真田家は譜代格です。 江戸期も中後期になると、譜代親藩が増えて来ていますので、親類だらけともいえます。 時代によって交流内容が変化していったのは事実でしょう。 >いま、思い出したのですが、真偽のほどは知りませんが、吉宗の時代、尾張中納言宗春と姫路城主酒井正岑は、吉原へ繰り出し、同じ揚屋に居た、という説があります。 榊原勝岑ではないでしょうか・・・。 これの真偽は現在の資料では判らないと思います。 両者とも倹約令に逆らった行動が、吉宗によって処分されています。 >それから、大名は舟遊びをしなかったはずです。 誰か忘れましたが、溺れてお家断絶した家があってそれからは舟遊びはなくなったそうです。 そうですか。 それは知りませんでした。 しかし私の知る限りでは制限はあっても、全面的な(短期以外の)禁止は知りません。 溺死した大名とは、ひょっとして加藤清正のことでしょうか? 沢山ある死因の一つに「朝鮮で の酒宴の際、接待役となった女性論介に飛びつかれ、川に落ちて溺死したとも伝わる」との文を見つけたのみです。 なお、舟遊びについての情報です。 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000054139

kouki-koureisya
質問者

お礼

毎回丁寧にご回答下さって誠にありがとうございます。 「酒井正岑」ではなく「榊原政岑」でした。大変失礼しました。 二人とも吉原の太夫を側室にしていますから、吉原へ出かけたのは事実でしょうが、小説だったのかもしれません。 舟遊びの話も私の間違いです。うろ覚えの話を調べもせずに書いて申し訳ありません。 寛政重修諸家譜には、川で泳いでいて溺死した人に、武家不相応として絶家としている例がいくつか見られます。厳しいものです。(小川恭一翁 柳営談) 幕府の制として川へは行けない。舟に乗れないことになっていた。(稲垣史生著『三田村鳶魚 江戸武家事典』) この話は、最後の広島藩主浅野長勲侯に三田村鳶魚翁が大名の私生活について聞いたところ、このように答えているそうです。 しかし、大名が舟遊びをしたことは、ご提示のURLでよく解りました。 >親藩・譜代なので、何とも言えませんが、この頃になると外様「同士」でも出来たのでしょうか? 分かりません。 大名の招宴能は、江戸中期以降かなり広く行われていたようですから、外様どうしの招宴もあったかもしれませんが、大坂の陣から百年以上も経てば、そもそも趣味の世界で外様同士、譜代同士と互いに意識していたか、疑問です。 むしろ、外様大名家と譜代・親藩大名家の婚姻がどのように進んだのか、に興味があります。 多くのご回答を得てお陰さまで私の疑問は解消しました。 しつこかったのはお許し下さい。今後ともよろしくお願いいたします。

  • dayone
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回答No.12

早とちりで大変失礼致しましたm(_"_)m No11.のdayoneです。今気づきました(赤面) No.7の方へのお礼欄「松代藩第6代藩主真田幸弘の文藝 (俳諧)」を見落としていました!! 余計な落書きになってしまい申し訳ありませんでしたm(_"_)m

  • fumkum
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回答No.10

NO8です。追記が続いて申し訳ありません。 大名と公家の婚姻ですが、武家諸法度では八条に、「附、与公家於結縁辺者、向後達奉行所、可受差図事」とあり、大名が公家と婚姻するときには、指図を受けるとされています。この付則は、武家諸法度・禁中並公家諸法度が発布される以前に、家康により出された法令に依拠(ほぼ同文)しています。この時期には、豊臣政権の残影もあり、朝廷と大名が直接的に結びつくことに家康・幕府は警戒心を持っていたものと考えられます。しかし、その後豊臣氏の滅亡を受けて、武家諸法度・禁中並公家諸法度が公布され、朝廷・公家の影響力も衰えます。幕府政治の圏外に置かれているに等しい状況に追い込まれます。そのため、幕閣にとって大名と公家の婚姻は、歓迎されるような雰囲気がでてきます。『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書簡』では、細川光尚の結婚相手として、父忠利の姉妹が烏丸光賢に嫁いで生まれた娘(光尚のいとこ)を選び、許可を求めた時に、老中土井利勝等は、好意的であったとされます。大名家同士の婚姻で影響力が増大するよりは、影響力の薄い公家との婚姻関係の構築の方が、幕府にとっては実は都合の良い面もあったのではと思われます。大名にしても幕府との関係もありますし、さらに大名同士の付き合いには金がかかることもあり、それより少額の合力金(法令上は明確に禁止されています)ですむ公家との婚姻にはメリットがあったのではないかと思います。さらに、公家は基本的には藩政に口を挟むことはないのでこの面でもメリットを感じるのかもしれません。将軍家が宮家・摂関家と婚姻を結ぶのも、釣り合う家格の家が宮家や摂関家以外にないこともありますが、特定の大名と婚姻関係を結ぶことにより幕政に影響力を行使されることを恐れた面もあります。それでも、六代将軍の正室の父の近衛基煕のように、2年以上江戸に滞在し、影響力を及ぼした例もありますが、概ね幕政に影響力を行使されることが無かったからだと思います。この点は、大名家も同じであったと思います。 近衛基煕 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大名家が公家と婚姻する理由はよく解りました。 近衛基煕については、参考になりました。

  • fumkum
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回答No.9

NO8です。追記をいたします。 島津光久 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%85%89%E4%B9%85 豊島満信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E4%BF%A1%E6%BA%80 将軍・幕閣・心安き旗本と共に、大名の婚姻に大きなルートが女中でした。先に御付の家臣・女中を通じて、大名の内情を知る手段と書きましたが、この御付の家臣・女中を通じて正室の実家やその姻戚大名の子女の様子を知る手段としていました。そのため、姻戚大名間の婚姻が数代に渡り継続される場合がありました。また、上杉鷹山のように、女系を通じて上杉家の養子となった例もあります。 このような婚姻も、江戸時代中期頃からがらりと変化します。特に養子縁組については目茶苦茶と言ってもいいような状態です。最初は大名に男子がない場合、近き血筋の者を養子としています。そのために家臣の子息という場合もあります。それらもない場合には、大名の娘もしくは血縁の女子を養女として婿養子を取ったりします。上杉鷹山のように女系で養子を迎えることもありました。ところが、中期頃から血縁関係が定かではない養子縁組が増えます。分家大名などに適任者がいるのにかかわらず、非血縁者の養子を取ったりしています。六代将軍家宣時代に、持参金による養子縁組を禁じる法令(原文は確認していません)が出たとされますが、さもありなんと思わせます。婚姻に関しても養子縁組ほどではないのですが同じような傾向が見られます。例えば、福岡の黒田家では、6代で正統が絶え、7代一橋、8代京極、9代一橋、11代島津(婿養子)、12代京極(婿養子)と養子が続きます。実は、『全大名家事典』という書籍があって、大名家ごとの血縁関係を調べたのですが、あまりに血縁関係不明な大名当主の継承が多く、あ行の大名家で挫折してしまったくらいです。 このように、婚姻や養子縁組の乱れが、婚姻圏を拡大させることとなりますが、『江戸大名の本家と分家』では、 大名家の親族について本書では、大きく「同族」と「親類」に分けておきたい。まず「同族」とは、まさに本分家のことであり、これは、共通して父系の先祖を持ち、本家を中心にいくつかの分家によって構成され、本分家それぞれの当主が交代していっても代々関係性が継続していくことを志向する親族組織である。-中略-もう一つの「親類」については、婚姻や養子縁組を契期として成立し、婚姻当事者もしくはその子・孫が死去することによって消滅してしまう、一世代を中心とした親族組織である。 としています。婚姻圏は拡大されても、「親類」関係は新たに構築される一方、消滅する関係もあり、一方的に拡大されるわけではないようです。 >この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。 それをどこまで管理できたのかという疑問です。 また、山本博文の書籍ですが、『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書簡』という本の中に、寛永四年の忠興の茶会の参加者が載っています。 七月十六日 浅野長晟・杉原長房・平野長泰・浅野長重・木下延俊・妻木之徳・忠利 七月二十七日 板倉重宗・久貝正勝・加々爪忠澄・ 八月九日 稲葉正勝・榊原職直 八月十六日 浅野長重・木下延俊・平野長泰・朽木元綱 十月十五日 浅野長晟・森忠政・杉原長房・平野長泰・忠利 ?月十八日 立花宗茂 ?月十九日 土井利勝・板倉重昌・島田利正・伊丹康勝・松平正綱 これは、隠居した忠興(茶人としても有名)の茶会の参加者ですが、一見すると、浅野・木下・杉原などの豊臣家ゆかりの大名が多いように思います。そこに、妻木・久貝・加々爪・島田・伊丹などの幕府役職者の旗本、土井・板倉・松平などの幕閣大名を配しています。特に注目されるのは幕府役職者の旗本で、「心安き旗本」を含みます。これは隠居大名の例ですので、比較的に重要度が低いものと思われますが、大名当主でも「心安き旗本」を同席させるなどの配慮をして、大名を招くことも多く行われます。「それをどこまで管理できたのかという疑問です。」と仰る通りではありますが、「心安き旗本」や先手組の旗本を同席させることにより、幕府に疑念を抱かせないように大名側が配慮していたことになります。 江戸時代も中期頃からは幕府の威権も確立し、大名の反乱を恐れなくなると、大名も割と自由に交際するようになります。同好の趣味(蘭学など)の大名同士の交際などの例が多いようです。また、上記したように、親族の大名・旗本が集まることは早くからありましたが、これは親族の連帯責任に関することで、親族から問題を起こさせないことは親類の義務でもあり、問題が起これば、連座・縁座に問われるということにもなります。 以上、長くなりましたが、参考まで。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >これは隠居大名の例ですので、比較的に重要度が低いものと思われますが、大名当主でも「心安き旗本」を同席させるなどの配慮をして、大名を招くことも多く行われます。 >江戸時代も中期頃からは幕府の威権も確立し、大名の反乱を恐れなくなると、大名も割と自由に交際するようになります。同好の趣味(蘭学など)の大名同士の交際などの例が多いようです。 ここが最も知りたいところです。 隠居した大名は、比較的自由に過ごしていたことは史料・資料から分かるのですが、大名当主はどうなのだろうという疑問です。 「同好の趣味(蘭学など)の大名同士の交際などの例が多いようです」ということは想像に難くないのですが、事例を探しています。それも、幕府の威光が落ちた幕末を除いてです。

  • fumkum
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回答No.8

こんにちは。 >幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。 制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。 この法を監視する役職は何ですか。 違反して咎められた大名家はありましたか。 幕府が表立って大名同士の付き合いを制限したことはないのですが、大名の交際が謀反に発展することを恐れ、好ましいことではないと考えていたとは思います。どちらかというと、幕府のそのような気分・雰囲気を大名側が過度に考え、自主規制した面もあると思います。 幕府の関連する法令は、武家諸法度に代表されると思います。特に次の3条(寛永度)です。 六条 企新儀、結徒党、成誓約之儀制禁之事 八条 国主・城主・壱万石以上近習并物頭ハ私不可結 婚姻事     附、与公家於結縁辺者、向後達奉行所、可受差図事 六条は、謀反の企て、仲間を集め、誓約することの禁止ですから、幕府にとっても大名にとっても当り前のことです。謀反よって処罰(改易)された大名は、これは武家諸法度が発布される前ですが、大坂の役に関連して、古田重然(織部)と福島高晴が豊臣秀頼に加担したとして、古田は切腹・改易に、福島は改易に処されています。慶長十六年に西国大名、十七年に東国大名に提出させた三カ条の誓詞=幕府の法令・命令に背かないことに対する違反、もしくは、法令・誓詞などに関係なく、幕府の持つ武家統制権に違反したとも考えられます。 八条は私的に婚姻をすることの禁止ですから、事前に許可を取らなければならないということです。これに対する違反例は、これも武家諸法度が発布される前ですが、慶長十八年に山口重政が、嫡子の婚姻を届けなかったことにより改易に処せられています。この改易は、大久保忠隣と本多正信・正純父子との対立に関係するとも、大久保長安事件(この事件も大久保と本多の対立の一環とされます)に関連するとも言われています。 以上の二例は、武家諸法度が発布される以前のことですが、諸法度の発布により、守るべき内容がはっきりしたとも言えます。 ただ、大名の婚姻・付き合いに関してより重要なことは、連座と縁座による処罰ではないかと思います。日本では連座・縁座は律令にも規定され、江戸時代にも当然存在します。庶民については八代将軍吉宗により緩和されますが、武士については緩和されることなく幕末に及びます。なお、現在では連座・縁座と分けず、連座とされますが、本来縁座は親族の罪に連なって罰することであり、連座は主従関係や使用人と使用者などの関係により罰することを言い、区別されています。 連座・縁座による改易は、幕初には、大久保長安事件への連座・縁座、富田信高改易への連座・縁座、大久保忠隣失脚に関する連座・縁座による大名の改易が続きます。これらの改易事件は、大久保忠隣と本多正信・正純父子との対立による一連の疑獄事件とする考え方が有力です。なお、これらの事件に関連して、大名だけではなく幕府旗本(多くは役職者)に改易などの処分が行われています。 また、宝暦8年(1758)には悪政により郡上一揆を引き起こした金森頼錦が改易になりますが、これに縁座して西丸若年寄本多忠央(頼錦の実弟の養父)が改易となります。これは寺社奉行在任中に事件の隠蔽に協力したことも関係するともされますし、また、本多忠央と田沼意次との勢力争いが遠因ともされます。ともかく、この件では頼錦の縁戚にあたる老中の本多正珍も頼錦に便宜を図ったとして失脚。その他幕府の大目付・勘定奉行・郡代などがお役御免・小普請入り・改易などの処分を受けるなど大疑獄事件でした。 これらの事件・改易などは、幕府の有力者と縁を結ぶことによって便宜供与を受けられる反面、時としてその縁により連座・縁座となる危うさも示しています。 >「この法を監視する役職は何ですか。」ということですが、法により担当役職が決まっているのではないので直接的な回答はできませんが、一般に大名監察は大目付とはされています。しかし、実態としては老中とすることが適当だと思います。家光が定めた老中の職掌の中には、天皇・公家・門跡と並んで、大名に関することが挙げられています。 さて、浅野(内匠頭)長矩の刃傷事件に関する例ですが、内匠頭の生母は内藤忠政の娘で、その姉妹がそれぞれ大名の戸田氏西に嫁いで戸田氏定・戸田氏成を、同じく大名の阿部信友に嫁いで阿部信峯・阿部信方を産みます。いずれも浅野(内匠頭)長矩の母方の従兄弟(縁戚)になるわけです。刃傷事件が起こった時に、戸田氏定、戸田氏成、阿部信峯は大名の当主となっていましたが、旗本当主の阿部信方共々縁座により遠慮の処分を受けます。また、父方の従兄弟である旗本浅野長恒、浅野長武が同じく縁座により遠慮の処分を受けています。しかし、同族の広島の浅野本家、三次浅野分家は血縁関係が遠くなったためか、処分はされていません。 さらに、戸田氏定は事件発生直後に自ら内匠頭の上屋敷と伝奏屋敷に出向き、事態の収拾に当っています。さらに赤穂で大石内蔵助をはじめ家臣が城の明け渡しについての会議を開催していた時期に、穏便に開城するようにとの説得の使者を派遣しています。浅野本家も同じような使者を送っています。また、多くの大名で家督相続などで親戚・縁戚大名・旗本が寄り集まり、相談することも見られます。親戚・縁戚は連帯して責任を負う間柄ですが、そのために協力しあう存在でもありました。また、親戚・縁戚が幕府の役職者・有力者である場合、便宜供与を受けることもありましたが、反面それが原因で改易以下の罪を得ることもありました。 山口重政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E9%87%8D%E6%94%BF 連座 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%BA%A7 >江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。 大名の婚姻の多くは家格がそんなに差がない家同士で行われたことは事実ですが、多くの例外がありました。大名の子女の婚姻先を見ていくと、大名の子女で、男は大名の当主、女は家付きとして婿養子をとること以外に、他の大名・旗本に嫁ぐ(養子入り)、分家・同族大名・旗本に嫁ぐ(養子入り・新家の創設)、藩内一門へ嫁ぐ(養子入り・新家の創設)、藩内有力家臣に(養子入り)などがあります。大名(世子を含む)が妻や養子を迎える時、上記の範囲に、公家を加えた階層から迎えています。 家臣の家から妻や養子を迎えることは奇異に思われるかもしれませんが、ありえないことではありませんでした。一例をあげると、薩摩藩2代藩主島津光久の正室は、家臣の伊勢貞昌の孫でした。家臣の家から妻や養子を迎えることは当時としても珍しいことではあったようですが、大名が分家・同族大名・旗本、藩内一門、藩内有力家臣と縁組をすることは幕初には意外とあったことで、藩主の領主権が強固でないことが多く、藩を固め、領主権を確立する手段(他の目的もあるにしても)として、婚姻を結ぶこと、分家・一門を創設すること、養子を出すことなどが行われたとされています。大名が、分家・同族大名・旗本以下と婚姻関係や養子縁組することは幕初以降も行われますが、どちらかというと大名が分家・同族大名・旗本以下に養子を出したり、正室を嫁がせる関係が多くなります。それでも、大名の家に嫡子がない時には、分家・同族大名・旗本以下から血筋の者を養子や養女として迎えたりすることはありました。 そもそも、婚姻を幕府が許可制にしたのは、戦国時代婚姻が大名の同盟の証であり、嫁が人質の意味を持っていたことに起因します。豊臣政権も同じように婚姻を許可制にしますが、德川家康は秀吉死後これを破り、私的に伊達政宗、福島正則と姻戚を結び、秀吉死後の政局から関ヶ原の戦いを有利に進め、天下を取ります。そのため、大名の婚姻に厳しい目を向けます。家康・秀忠は、さらに自己の娘・養女などを有力大名に嫁がせる政策を継続します。これは、大名が分家・同族大名・旗本以下と通婚したことと同じような意味も持ちました。また、御付の家臣・女中を通じて、大名の内情を知る手段であったともされます。 大名側は、幕府の婚姻に対する気分・雰囲気を過度に考え、将軍や老中に婚姻の斡旋を依頼することも多かったようです(老中の土井利勝は7~80の婚姻斡旋依頼を抱えていたとの話もあります)。そこまでいかなくとも、大名は婚姻・付き合いに懇意の旗本を介在させることにより、幕府に疑いを抱かせないように工夫していました。山本博文の『江戸お留守居役の日記』には、「老中への嘆願やうかがいを出す際に、「心安き旗本衆(親しく交際している旗本がた)」が介在していることである。-中略-内意のうかがいは、ほとんど「心安き旗本」を間に立てて行うことになっていた。」としています。婚姻についても同じですが、「心安き旗本」を間に立てることが行われていますし、旗本に婚姻相手を探してもらうことも行われていました。旗本の豊島満信による老中井上正就への刃傷事件にも、旗本のこのような役割の一端が現れています。この「心安き旗本」は、完全なる私的存在ではなく、幕閣の意を受けて行動していたと考えられ、公的な性格も帯びていたと考えられています。大名側も「心安き旗本」が幕閣と通じているからこそ、証人としての意味や内意のうかがいに利用していたと考えられます。さらに、時代が進むと、「心安き旗本」は先手組に属する旗本に変わっていきますが、役割は継続されます。 <もう一度追記します>

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しいご回答をありがとうございます。 大変参考になりました。 >幕府が表立って大名同士の付き合いを制限したことはないのですが、大名の交際が謀反に発展することを恐れ、好ましいことではないと考えていたとは思います。 >どちらかというと、幕府のそのような気分・雰囲気を大名側が過度に考え、自主規制した面もあると思います。 同感です。 >ただ、大名の婚姻・付き合いに関してより重要なことは、連座と縁座による処罰ではないかと思います。 連座と縁座について、よく解りました。 >山本博文の『江戸お留守居役の日記』には、「老中への嘆願やうかがいを出す際に、「心安き旗本衆(親しく交際している旗本がた)」が介在していることである。 「出入り旗本」が幕府と藩の間に介在し、厄介なもめ事にならないように心配りしたということですね。 分かりました。

  • 0fool0
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回答No.7

大名同士の密議などで謀反の疑いを掛けられて改易になった大名はいません。 と言う事は、疑いを掛けられる様な行動は唯の一つも出なかったか、穴だらけのザル法だったか。 実際に大名家同士で茶会や遊郭での宴会等を開いていた記録があれば、「ザル法」で確定なのですが、その様な記録は見つかりません。 しかし豊臣政権化では普通にあるのです。 ではこの徳川時代と豊臣時代の違いはなんでしょう。 それは「戦」の有無です。 戦場と言う環境では、同じ環境に主君も足軽も一緒にいます。 こういう環境を経験している世代では、交流も密でした。 コミュニケーションは取っていました、し、それらを取り締まる事はそもそも出来ないし、するメリットもありません。 そんな中、秀吉によって「惣無事令」が出されて、日の本での戦争は禁止されます。 しかし朝鮮出兵、関が原、大阪の陣と戦は続き、この間大名家はそれぞれに関係を持ち続けます。 それが江戸幕府の成立と豊臣家の消滅で、戦の無い世の中が(大名家に交流をさせておく意味が無い世の中)が実現したのです。 用が有ろうと無かろうと、大名家同士が仲良くするのは好ましく(必要)無い時代に突入したのです。 そして時が流れ島原の乱、慶安の変を経て、大名家取り潰しによる社会不安の緩和など、政策方向が変化して行きます。 そういった中で、大名の行動も形式化が定まって行きますので、その範囲での交流は常に行われ続けて行きますが、既に何代も代替わりを続けており、幼少時から家臣以外の人間を見る事の無い人間が、わざわざ出かけてまでして、交流をするでしょうか。 またそれを望む君主に対して、家臣はどの様な行動を取る様に言うでしょう。 全ては「前例」に沿った形式を守った物の中で行われる様になります。 またこの時期には大名ドコロか公儀でさえも謀反等が起きるとは考えなくなっております。 そういった意味では少々の羽目外しはあったかも知れませんが、しかし吉原で大名同士が宴会などは聞いた試しが無いです。 有ったとしたら想像ですが、舟遊び等の秘密の守れる環境で、別々の船で並べて宴会とかではないでしょうか。 この場合ならば、たまたま並んだだけと良い訳が出来るのと、周りの目を気にする必要がありません。 しかし幼馴染同士の大名などは、中々いないと思いますので、ここまでして遊びたいかどうかは判りません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

しつこい質問者に付き合って下さって誠にありがとうございます。 豊臣政権から徳川政権へ移る全体の流れはよく解りました。 >実際に大名家同士で茶会や遊郭での宴会等を開いていた記録があれば、「ザル法」で確定なのですが、その様な記録は見つかりません。 結局、この一点に尽きると思います。 大名どうしが茶会か能の観賞をしたという記録があれば、ということですね。 これは、あったはずだと頑なに主張している私が調べるべきだと思います。 調べると言ってもあてもなく、途方にくれる感じです。 暫く時間を下さい。 大名本人どうしが交流した決定打にはなりませんが、取り敢えずネットで見つけた例を挙げます。 「能」「茶道」「俳諧」の例です。 確かに、茶会を開いた例は見つかりませんでしたが、「能」は、かなり見つかります。 少し見つかったからと言って、大名どうしがしょっちゅう気楽に会っていたとは言いません。 「武家と能楽をめぐる歴史的研究」 南部藩の能の記録 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40228/2/Gaiyo-6004.pdf#search='%E8%AB%96%E6%96%87+%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E8%83%BD+%E7%A0%94%E7%A9%B6' 早稲田大学の博士論文の概要なのでコピペは遠慮します。 「三日間にわたるこの催しには、堀田正俊・阿部正武等老中をはじめとする諸大名が招かれ…」とか、「江戸時代後期、この時期は大名招請能が多く…」とか。 個人のブログです。「不昧と宗雅と見付宿」 http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/33455714.html  親藩大名松平不昧と譜代大名酒井宗雅の茶道を通じての交流です。 赤坂の松平家上屋敷と大手町の酒井家上屋敷距離は約3km程なので、宗雅は頻繁に赤坂に通って不昧から直伝を受けています。 なんと、二人は参勤・交代の途上、東海道見付宿で茶を点てています。 参勤交代の途中で出会った時の記録が酒井家の記録「逾好日記」に書かれているそうです。 松代藩第6代藩主真田幸弘の文藝 (俳諧) http://kikutsura.com/sanadayukihiro/%E5%B9%B8%E5%BC%98%E3%82%92%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%B7%BB%E3%81%8F%E4%BA%BA%E3%80%85/%E5%A4%A7%E5%90%8D/ 松代藩主真田幸弘(雅号菊貫)は、50人以上の大名と、主として南部坂の松代藩下屋敷において百韻の興行を行っている。このほかに、他大名主催の興行にも一座していた。熊本藩第8代藩主細川重賢(俳号華裏雨)の安永6年12月5日興行の百韻を記録した点取俳諧書に「菊貫」の名がみえる。 いま、思い出したのですが、真偽のほどは知りませんが、吉宗の時代、尾張中納言宗春と姫路城主酒井正岑は、吉原へ繰り出し、同じ揚屋に居た、という説があります。 これは、別途このカテで質問しようと思っています。 それから、大名は舟遊びをしなかったはずです。 誰か忘れましたが、溺れてお家断絶した家があってそれからは舟遊びはなくなったそうです。

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回答No.6

なるほど、私の言葉が足りなかったのですね。 申し訳ありません。 で、『小川恭一翁柳営談』の件ですが、安政七年の三月三日に、「桜田門外の変」が起きており、既に幕府の力が弱ってしまっている時代です。 この変時、肥後細川家が藩邸内に受け入れた襲撃犯の水戸浪士への井伊家からの引き渡し要求に対し、危険を避ける為に浦賀警備用の大砲二十問を藩邸に運び込んでいます。 それとはまた別に(関ってるけど)、この時に参勤交代中の島津茂久が、キャンセルして(!)回れ右して薩摩に帰ってしまいます。 そしてこれらの事に対して公儀は何一つ処分も処罰もしていません。 これらの行動が公儀に事前に届け出ていた証拠は現在でも見つかってはいないようで、既に権威は失われていたと考えるのが、正しいでしょう。 そして、これらの事を嘆いて強い幕府の復活を目指して「安政の大獄」を行った井伊直弼は首を失った訳です。 幕末期には変わった所では土佐藩邸での御前試合なども挙げられるでしょう。 こんな事を初期中期に行ったら、一発で取り潰し確定ですw

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 私も仙石家の例は、安政7年という幕末なので除外すべきだと思っていました。 #4の方のご回答と合わせると、かなり焦点ははっきりしてきたのですが、決め手が乏しい感じがしています。 あまり、しつこくくいさがると嫌われそうですが、あと少しのところでどうも納得できないのです。 今のところ、大名どうしの私的な付き合いは「制限されていた」と思っています。 どちらかと言うと“自主規制”の感じです。 制限するという法令があればはっきりしますが、武家諸法度の狙いとするところを積極的に拡大解釈している感じです。 ただ、“私的な付き合い”も“制限”も曖昧な表現で、どうとでも解釈できます。 稲垣史生著『三田村鳶魚 江戸武家事典』から抜粋します。 幕府の初めには諸大名の寄合いをひどく嫌った。けれども諸大名としては、親戚もあれば祝儀、不祝儀もありますから、大名同士の交際をしないわけには往かない。従って大名仲間の参会をやめることは出来ないが、そういう場合に、別段後暗い相談をしたのではありません、という聞証拠人が必要なところから、旗本衆を頼んでそこに立会って貰った。それが出入り旗本なるものが出来る根元なのであります。(以下略) 制限があったからこそ、旗本の活用を思いついた訳ですから、制限があったと言えると思います。 さらに別項目から抜粋します。 江戸における登城のない日、その日は別に定まったことはありません。(中略)たまにどこかへ見物に行くとか、馬で乗切りに行くとかいうことはありました。そういう他出の際も、平生の供廻りです。これは幕府へ断ることはありません。(以下略) 「これは幕府へ断ることはありません」ということは、断りを入れることがふつうだったと解釈できます。 この例も、「制限」されていた、と推定できます。 ただ、誰がいつ頃のことを発言したのか不明です。 しかし、届け出さえしておけば(それも形式的に)、比較的自由に会えるのであれば、制限はなかったも同然と言えるでしょう。 「密議・謀議」を企てる場合、本人どうしが直接会わなくても、先ず主人の命を受けた重臣が話を進めることもできます。 隠居すれば比較的行動は自由ですから、隠居が話をすることもできるでしょう。 このように考えると、「密議・謀議」をさせないように大名どうしが直接会う機会を制限しても、そして多くの役人を使って監視しても、ほとんど効果がないことを幕府は気付いていたのではないでしょうか。 ただ、先例第一で形式的に届け出を義務づけたのだろうと。 >なるほど、私の言葉が足りなかったのですね。申し訳ありません。 とんでもございません。ほんの短い一節を取り出して申し訳ないです。

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回答No.5

違反して咎められた(改易)大名家はありません。 大名「家」同士の付き合いは当然ありました。 しかし、大名家「当主」同士が直接会談などはありませんでした。 豊臣政権化では大名同士の交流も茶の湯も行われていましたが、徳川政権下では無くなります。 情報交換は頻繁に行われておりましたが、それらは通常、藩邸の「外」の寄り合いで行われており、逆に他藩邸を直接訪問し会談を開いた事例を幕末以外に私は知りません。 ですので、そういった意味での付き合いはむしろ頻繁にあり、そういった付き合いの中での大名文化の贈答品として、大名道具や輿入れ時の嫁入り道具なども非常に予算を食いました。 家格に沿った費用が掛かるので、上杉鷹山は様々の予算と共に削った末、結果、運動費が足りず、公儀から普請手伝いを命じられたとされています。 制限されているのは密議・謀議に繋がる行動です。 つまり、疑われる事を避ける為に、私的な付き合いの為に他家の藩邸や国許を大名本人が訪れると言う事が無かった訳です。 逆に親族であれば、養子元から実父の介護に江戸藩邸を訪れた実例はあります。 しかし大名を集めての茶会等は行われた記録が見当たりません。 更に婚姻時に輿入れ先に当主(親である大名)本人が訪れた記録も見つかりませんでした。 私の探し方が温いのかも知れませんが。 井伊直孝は幕府宿老で大老職の始まりともいわれ、将軍家から絶対の信頼を受けた人物です。 つまり井伊直孝の発言が、公儀の発言とも取れる訳です。 逆に島津と縁組をした場合はどうでしょう?(島津の支藩なら別ですが) それに婚姻や縁組に纏わる付き合いは在って当然です。 だから、何処と縁組するかが重要な訳です。 田沼意次も失脚した途端に、養子に出した息子が離縁されて戻って来たりしますので、下手な付き合いなら逆にしない方が当然なのです。 ちなみに将軍などの上位の家格の饗応をするとなると、それ相応の儀式の決まり毎があるので、予算が堪らなく掛かります。 抜け道にしたとすれば、正式な訪問ではなくなり、饗応の責務を逃れる事が出来ますからそうしたのです。 庶民の感覚では理解し難い行動ですので、それを嗤ったのものですが、理由はありました。 幕府にとって大名家が統制を離れ勝手な行動を取るのは、好ましくありませんでした。 それにそれぞれの藩主も代替わりと共に、外の藩主との直接の交流が無くなります。 話し相手は何時も家臣です。 支藩と言っても一度分家してしまえば、用も無く藩主があちこち移動する事は出来ません。 供揃えも装備も格式が求められますし、家臣団としても出歩かれるのは迷惑です。 そうした中での付き合いがあるだけです。 つまり総論。 「縁組」上の付き合い 「寄り合い」での付き合い これに基づく行事・祭典・慶事等の贈答等が在り 大名個人間での交際は、江戸城内と肉親間(親孝行)以外では無い となり、付き合いそのものが制限されていた事が判ります。 豊臣政権化では、城外での大名同士の交流もありましたので、大きな変化と言えるでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >大名「家」同士の付き合いは当然ありました。 以前に、そもそも大名「家」同士が付き合う事が、「禁忌」なのです、という回答を頂いたことがあって疑問に思っていましたが、今回のご回答で真意がよく分かりました。 >しかし、大名家「当主」同士が直接会談などはありませんでした >制限されているのは密議・謀議に繋がる行動です。つまり、疑われる事を避ける為に、私的な付き合いの為に他家の藩邸や国許を大名本人が訪れると言う事が無かった訳です。 将に質問の核心はここです。 大名本人どうしが、直接会って話をしたという事例をネットで探したのですが、見つかりませんでした。 しかし、手元にある『小川恭一翁柳営談』には、但馬出石の仙石家の『仙石家側日記』という史料を基にして次のように書いてあります。 大意をまとめてみます。 安政7年10月、仙石讃岐守(但馬出石城3万石)は、森伊豆守(美作三日月陣屋1万5千石)が上屋敷山亭に柳間同席大名4人を招待した宴に招かれています。4人は昼食後庭内を“巡見”し、暮時には夜食の饗応にあずかっています。 注目すべき点が二つあります。 一つは、4人のうちの2人は、帰路が同方向であるので一緒に帰っています。近い方の大名は、途中暫時休息(トイレ)という気のきいた計らいで遠方になる人を自邸に案内していることです。 二つめは、一人(豊後臼杵城5万石)が急に出席できなくなり、代わりに加藤大蔵少輔が参加しています。加藤はちょっと遅刻しています。 この事例は私的な付き合いだと思いますから、事前に公儀に届けていたのかもしれませんが、そこのところは書いてありません。 さらに、『小川恭一翁柳営談』には、次の記述があります。 江戸で上屋敷を出て登城・寺社・他家訪問のときには、その行程に小休止として昼食・雪隠の手配を頼みおいた各家がありました。 史料によれば大名・旗本のすべては、外出時の昼食を予定してある家に前もって「湯漬所望」を申し入れて、当人は座敷に上り、供の人々にも身分に応じて給食しております。 ふだんから相互に便宜をはかっているので気楽でしょう。(以上抜き書き) この事例は、公的な行事だと思いますから、決められたコースを通る限り、その都度事前に公儀に届ける必要はないかもしれません。

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