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江戸幕府の仕組みについて教えて下さい

江戸時代のことについてふと気になったので教えてください。 幕府は大名から税金を取ることができなかったと聞いたのですが、ほんとうでしょうか? さらに、大名はなぜ幕府に忠誠を誓ったのでしょう。江戸幕府の軍事力が他の藩に比べると圧倒的だったとも聞きますが、それならその財源はどこにあったのでしょう? 考えれば考えるほどわからなくなります。 ご存じのかたよろしくお願いします。

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  • tanuki4u
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回答No.5

1 幕府は大名から税金をとっていたか? 基本的には 取ってない 2 幕府の財源 A 効率的な支配 大名の収入は、大きく分けると ○ 参勤交代と江戸と地元での二重生活 ○ 人件費 参勤交代も人件費なわけで、将軍は参勤交代しないんですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E5%AE%98 「幕末の五条代官所(南大和7万石)では、代官1人、幕臣の手付3人、お抱えの手代10人」上記より引用。 7万石というと、討ち入りで有名な赤穂藩が5万石余で300人の藩士を抱えていました。 さらに、代官の人件費は別途旗本領が宛てがわれているので、南大和7万石からは出ていないのです。 この意味で天領はとっても効率的に支配されていました。 まぁ、言い方を変えると、大名というのは戦国時代の余剰人員を抱えたまま江戸時代を過ごしたとも言えます。 B 通貨発行権 通貨を発行できたのは基本的に幕府だけです。 通貨は基本的にGDPに比例した量を発行する必要があります。 前田藩が頑張ってGDPを増やしても、伊達藩が頑張ってGDPを増やしても、通貨を発行できるのは幕府だけなのです。 言い方を変えると、直接税は払わしていないが、通貨を発行することで間接税を払わしていたとも言えます。 頑張ってコメの取れ高を倍にすると、このとれたコメで幕府が発行する通貨を買うことになるわけですので。 通貨を作るための金がなくても、まぁ小判を作っちゃえと、経済原理に基づき通貨政策をやったのが、綱吉のもとにいた荻原重秀です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E9%87%8D%E7%A7%80 管理通貨制度を理解していた。 なんか、うまいこと幕府にやれれているな・・・と気づいたのかどうかわかりませんが、19世紀幕末の前のあたりから、西南雄藩がやったのが 専売 日本国全体の(幕府に支配された)経済体制から独立して儲けようという考え。 今年の大河ドラマで、長州藩が銃器をバカスカ買っていますが、買えたのは、この理由です。貧乏なら武器もないので、武力もないという当たり前の因果関係によっています。

nosunosu
質問者

お礼

先までの解答で、武家社会の仕組みは現在の貨幣経済とは異なっていたことは理解できました。さらに、貨幣経済への変化は明治維新でドラマチックに実施されたのかとの疑問をもちましたが、そこへ至る足場は江戸時代よりあったと言うことですね ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.6

 他の方が言及していない点について  各大名は、徳川幕府に税金は納めないものの、各種の賦役を課されました。  基本的には、日本の政権を担っている幕府がすべきものとも言えますが、形式上は連合政権の形を取っており、維持管理を超えた新設・大改修土木・建築工事などは軍事に準じて、各大名が実施主体となりました。  江戸城や他の幕府拠点の城の石垣工事、自分の領地とは何の関係もない所の大規模河川・港湾の堤防修築、とりつぶされた大名の城の受け取り、朝鮮や朝庭からの使節の接待、隣接大名領内の一揆への応援など、幕府や隣接大名からある程度の資金を出してもらえる場合もありますが、ほとんどの場合、その何倍もの出費がかさみました。 ・薩摩藩による木曽・長良・揖斐三川治水工事 http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/kisogawa.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E7%BE%A9%E5%A3%AB  有名な赤穂浪士による討ち入り事件も、赤穂藩が行った、江戸城への朝庭勅使下向に対する接待の過程で起きたものです。     

nosunosu
質問者

お礼

江戸時代は、一国支配ではなく連邦制であったのですね。 よく分かりました。ありがとうございました。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.4

>幕府は大名から税金を取ることができなかったと聞いたのですが、ほんとうでしょうか? 本当です。 各藩に領地があるように、幕府にも領地が存在しています。 俗に言う「天領・直轄地」ですね。 正確な石高は分かりませんが、元禄時代は400万石・幕末は450万石との説もあります。 >大名はなぜ幕府に忠誠を誓ったのでしょう。 基本的に、幕府が全国の土地を管理していたからです。 各藩は、一度幕府に土地を返却し、改めて幕府から「朱印状」で領地支配の委託を与えられたのです。 基本的に、朱印状は一代限りです。後継者(世継)がいないと、断絶・廃藩です。 殿様が亡くなると、事前に文書による申し出を届けた後に、若殿は「将軍に合う必要」があります。 各藩の江戸詰めの役人は、跡目相続が適わなければ廃藩ですから必死です。 将軍の行動を、調べた事でしようね。 将軍に合って初めて、跡目相続が許されるのです。徐々に、形式的な文書だけになりますが・・・。 藩主になっても、「不行き届き」「統治能力が無い」と幕府に判断されると、改易・廃藩なんです。 >江戸幕府の軍事力が他の藩に比べると圧倒的だったとも聞きますが、それならその財源はどこにあったのでしょう? 領地を認めてもらう代わりに、各藩は幕府への忠誠を誓い軍役等の義務を負いました。 幕府の命令に対しては、原則「各藩の自己負担」で費用を出しています。 幕府の権力が大きかった時代には、幕府に逆らうと領地没収ですからね。 また、征夷大将軍は「武家の棟梁」の地位です。武家である藩主が、将軍の命令に従う事は絶対だったのです。 余談ですが・・・。 幕府への忠誠を誓っていない天皇家(禁裏)などは、平均3万石でした。 1万石は、天皇家。1万石は5摂家。残りを多くの公家さんが分け合います。 たった3万石で、皇族・公家を養うわけですから、下級公家では「貧乏人のお公家さん」として有名でした。 骨董・書画などの内職が、本業になっていたようです。

nosunosu
質問者

お礼

徐々に理解ができてきました やはり社会基盤は「ご恩と奉公」にあり、ご恩は朱印状による土地利用の許認可、奉公は労働力の供与ということでしょうか。 社会の仕組みが今とあまりに違うため、理解に苦しみました。 ご回答ありがとうございました。

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (678/1421)
回答No.3

>江戸幕府の軍事力が他の藩に比べると圧倒的だったとも聞きますが、それならその財源はどこにあったのでしょう?  幕府は通称800万石(天領+旗本の知行地)の大名と言われる程の領地を持っています。  (幕府以外で最大の領地を持つ、加賀前田藩で100万石です。)  No.2との差が8倍も有れば、圧倒的な財源(しかも関東から中部地方という一番豊かな土地や金山・銀山の有る土地、長崎などの副収入がある土地を確保)と言っても良いかと。  (江戸時代の総石高は時代にも拠りますが、3000万石強ですから、1/4は幕府の領地となります。)  それ以外にも、親藩・譜代大名がいますし、外様の大名でも加賀の前田家や仙台の伊達家などの大大名は将軍家と婚姻関係を持ち親戚でも有ります。  旗本八万騎(幕府の直接の家臣である旗本と御家人及びその家臣を含めた軍役規模)と称せられるように巨大な軍事力を維持していました。  (関ヶ原の一方の軍を将軍家の家臣だけで充当できる規模。)

nosunosu
質問者

お礼

やはり江戸幕府の財政は他の大名に比べて格段に豊かなのですね。 ところで、商人などは税金を払ったのでしょうか?ご存じなら重ねて教えてください。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.2

基本的に税はとっていません。 吉宗の時代に、参勤交代緩和の代わりに石高に応じた「上米」を行ったことはありますが。 諸大名の領地は、将軍によって与えられたものです。 諸大名は知行を安堵してもらうかわりに、軍役(幕府の軍勢動員)や普請役などに応じていました。 「御恩と奉公」という双務的契約関係が継続していたと言えるでしょう。 幕府の軍事力は、数万人の旗本・御家人の軍勢、親藩・譜代の大名の軍勢だけでも圧倒的な数です。教科書などの江戸期の大名配置図を見るとわかりやすいかと。 また、軍役に応じた外様大名の軍勢を入れれば、もはや国内にかなう敵はいなかったでしょう。 大坂の陣、島原の乱などが、諸大名動員の典型ですね。 また、まとめると広大な天領から収入は、年貢だけでなく、大坂・長崎などの商業都市や鉱山からも含まれていました。 圧倒的な武力に支えられていた徳川幕府でしたが、幕末の対外政策の中で武力の衰退を見せることとなり、軍事政権としてではなく天皇に政権を委任された存在として、諸大名に優越する幕府権力を補完します。 その代償として天皇の権力浮上が起こり、初期のような圧倒的な軍事力を動員することができず、反幕府勢力との戦いに敗北することとなります。 やや、蛇足でしたが、ご疑問の解決につながれば幸いです。

nosunosu
質問者

お礼

なるほど、武家社会の根底にある考え方は「ご恩と奉公」なのですね、この考え方が崩壊したのが明治ということなのでしょうか? ありがとうございました。

  • comattania
  • ベストアンサー率23% (840/3549)
回答No.1

江戸幕府の仕組みは、年年歳歳変更を繰り返してきましたから、一定していません。 各大名から税金は取りませんでした。天領という名で、幕府直轄の土地が500万石からありましたから、当初は旨く財政は周りましたが、幕末頃は、火の車でした。そのため、薩長軍と戦っても碌な戦争が出来なかったのです。 各大名家が忠誠を誓ったのは、参勤交代と、鉢植え政策といわれる、江戸から遠隔地に国替えをさせられたり、徳川親藩で周囲を囲まれたりして、軍事費など貯まらない様にさせられたからです。

nosunosu
質問者

お礼

ありがとうございました。 天領500万石は確かに第一の石高ですね、且つ他の大名が財政的に逼迫する仕組みを作ったのですね。

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