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姜維伯約っていい人?わるい人?
三国志の事なのですが、 姜維が蜀を滅ぼした原因だと聞きました という事は、姜維は結局蜀にいてもたいして役に立たなかった、 むしろ悪い奴、という事なのですか?
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- spiko14
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#5さんのご意見に賛同します。 はっきり言って、外から攻められ、内では裏切られ・・・これじゃ、どうしようもなかったでしょう。 また、彼は真面目で実直であったから、頑なに諸葛亮の方針を守ろうとした。しかしそれが時代の流れと合致しなかった。だから後世滅亡の一因のように言われてしまったのでしょう。責任はあるでしょうが、一生懸命やった結果がこれでは、何だか哀れなような気がします。 私は卒論を三国志(曹操)で書いたので、三国志関連の書籍をたくさん読んできました。蜀だけでなく、他の国も、三国末期になってくると、人材が不足気味だったようです。それであの君主でしょう?そりゃ人材なんて集まりませんよ。 現在で言えば倒産寸前の企業みたいなもので、しかもトップはそんなことおかまいなしで悪い人に(宦官)入れ知恵されて遊びまくり、そんなところに優秀な人材なんて集まりませんよね。おそらく維持するのがやっとで、それすら時間の問題であったと思われます。それを元通りに立て直そうと無理をしたから悪化してしまった。そう言われてみれば、彼の責任は大きいような気もしますが。 けど、私は滅亡の最大要因は、宦官の黄皓であったと思います。 多分姜維本人は、早い段階で蜀の限界を感じていたと思います。しかし自分を拾ってその才能を見いだしてくれた師・諸葛亮にどうしても恩返しがしたかった。だから無謀ともいえる戦いを繰り返してきたのでしょう。(想像ですけどね) ただ、彼は内政に関しては素人であったかもしれませんが、一武将としてはそれなりの能力がありました。数々の戦いでも、その能力が大いに発揮されたこともありました(鉄籠山の戦いとか)。末期になると、その能力すら封じられてしまいましたが。 歴史に「もしも」はタブーですが、もし彼があと30年早く生まれていたら、五虎将軍にひけをとらない存在であったかもしれません(となると、蜀にも行かなかったかもなぁ~)。 資料さえあれば、本当は彼と諸葛亮とで卒論をまとめ上げたかったほど、私はこの師弟のファンでした。
- marines_i
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史実に照らしてどうかと言われると、わかりません。 陳寿の三国志は晋王朝が自分の政権の正当性を主張するために編纂させて残したものですし、羅貫中の三国志演義に至っては小説ですので。 ですが、三国志演義に基づいて考えるなら、姜維は孔明亡き後の一時代を築いた英雄であると思います。確かに北伐では結果は出せませんでしたが、それはそもそも魏と蜀の間には建国当初から如何ともしがたい決定的な国力の差があるのですから、仕方がないとも言えます。 にもかかわらず、孔明が後継者として期待するほどの人物が無理な北伐を繰り返したことには確かに疑問があります(そのせいで、魏の間者だったという説も根強くあるようです)が、同じことを孔明もしていたわけですから、何か別の狙いがあったのか、あるいはその場に居合わせないとわからないような事情があって、そうしていたのかもしれませんね。
- tyouei
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歴史上の人物がもたらした結果を二元的に良い・悪いで判断するというのは問題があるかと思います。彼らはそれぞれ個人の主義や考えのに従い、あるいは利益の為に(利益の為に動いた事を否定してはなりません。もし利益を否定するなら、我々は1円たりとも生活以外に必要なお金は持ってはならないという事になります)動いたのです。もし歴史上の人物が生んだ結果を良い・悪いの判断すれば、例えばノーベル平和賞受賞者は人類が生き残るにはその数を減らさなければならない(殺さなければならない)と考える人にとっては大悪人となってしまいます。 姜維伯約が蜀を滅ぼしたのか、否か。それとも劉禅か。昔からよくある議題ですが、僕は劉禅はそこまで暗愚な君主ではなかったと思います。逆に名君でもない、つまり平々凡々な君主だった(劉禅が戦を嫌っていた理由に民を疲弊させるというものがあった。もしこれが本心なら、彼は民を思った君主となる)と。姜維然り。結局、君主も軍事上のトップも、官僚たちも騙し合いの世で国を保つには実力が足りなかったのでは無いでしょうか。また、姜維が無私で働いたというのも、元魏の武将が蜀の為に働いたとなれば、それは裏切りであり蜀が魏に負ければ、まず最初に自分が殺されると危惧した、無味乾燥ではありますがそう結論付ける学者もいます。
- nacam
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姜維は、政治的センスがゼロで、自分勝手な性格の上、戦略的センスも無い人物です。 そもそも蜀には、魏を攻める国力が有りませんでした。 諸葛亮自身でさえ、劉備の残した戦術にたけた将軍がいたときでさえ、魏にダメージを与える事さえできませんでした。 蜀が、国を守りえたのは、堅固な地形によるものです。 まだ、費禕の生きている間はよかったのですが、彼の死後姜維の暴走を制止できる人がいなくなります。 人材に関してですが、人材は自然と生まれてくるものではなく、作り出すものです。 暗寓と言われた劉璋の時代でも、呉イや法正、張松などといった人材がいました。 されを劉璋が使いこなせなかったのです。 (法正などは、劉備の下で才能をいかんなく発揮しています) 姜維の場合も、人材を見つけ出せず、いたずらに国力の消耗をもたらすだけの北伐を止めようとせず、続けた事が、蜀の滅亡に向かわせます。
- aloha1969
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内政を顧みず、北伐を繰返し国を疲弊させ滅亡へ追いやったというのがnanamidesuさんが聞かれた理由の一つだと思いますが、それは違います。 劉備の時代は五虎将軍や孔明等人材が豊富で、さらに桃園の誓いや三顧の礼で代表されるように人間的な結びつきや信頼が太いものでした。よって組織はうまく機能し、国を治め、外敵と対峙することができました。これは劉備の人徳が大きいですね。 一方、劉禅の時代はどうだったでしょうか? 劉備亡き後、蜀の支柱は孔明へと変わっていきました。その孔明も没し、支柱は四相(四相-孔明=三相?)や姜維へと変わっていったと想像できます。 さらに四相が全て没すると姜維が蜀を背負う役割を担うことになります。その頃、劉禅は宦官などにいいように操られ酒池肉林の世界にいたのでしょう。 民を愚弄したような君主の下では人材も育つはずがなく、組織は崩壊寸前、士気は低下の一途を辿っていきます。恐らく姜維は蜀の滅亡が遠くないことを実感していたのでしょう。その中で孔明の意志を継ぎ、北伐でかすかな可能性を見いだそうとしたところに心を打たれます。 姜維が蜀に仕えた経緯。孔明亡き後の四相との関係。孔明の嫡男との対立。魏に残した母等々考えると姜維がいかに孤高の人であったかと推測できます。酷評されるのはそれが起因しているのでしょう。 孔明の死後30年近くも蜀が存在したことは、間違いなく姜維がいたからに他なりません。 また、孔明亡き後の四相が北伐に賛同し、兵を出し惜しみすることがなければ姜維が歴史を変えていたかもしれません。 最後に蜀を滅ぼした司馬昭が劉禅と面会した後につぶやいた言葉を…(孔明は別格と考えてください。) 「これでは諸葛亮が生きていようが時間の問題であった。まして姜維ではどうにもならなかったであろう…。」
- daitensaino1
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姜維ははじめ魏の武将でしたが、諸葛亮(孔明)の策にかかり、蜀に仕えました。そのとき諸葛亮は、姜維を得て大いに満足し、その働き振りなどから、後継者を得たと言ったそうです。 姜維の主な参戦した戦いについては、南安を攻略しようとしたが撤退。隴西、襄武を攻略。狄道城を攻略しようとしたが撤退。段谷にて大敗。侯和に出陣したが敗れる。など、毎年出陣するが、勝利を得られず、蜀の国力、兵力を低下させてしまったのではないでしょうか。そのときに、魏が攻めてきて、姜維が剣閣を守っていたが、鄧艾がわき道から緜竹に侵入、諸葛瞻を撃破した。そこで皇帝劉禅は鄧艾に降伏した のちに姜維は鍾会に叛逆の意図があると見抜き、それを利用すれば蜀を再興できるだろうと考え、鍾会は鄧艾に冤罪を被せて更迭、姜維らを率いて成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆し、姜維に軍勢五万を与えた。魏の将兵は怒り、鍾会とともに姜維を殺害した。 蜀を守るのに全力を尽くしたが、力が後一歩足らず、あまり蜀の役に立てなかったということだと見てよいのではないでしょうか。
- kurokuro1983
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そんなことはありません。むしろ、時代を代表する英雄であったと思います。 確かに、数度にわたる彼の北伐によって蜀の国力は疲弊していきます。戦いも勝ったり負けたりの一進一退で成果は無いようにも見えます。 しかし、皇帝である劉禅が宦官に惑わされて、魏と対陣中の姜維を呼び戻すなど、蜀内部の抵抗勢力に足を引っ張られながら、国力で圧倒的に上の魏と互角の戦いを繰り広げたのです。姜維がいなければ、蜀の滅亡は早まっていたでしょう。 蜀の滅亡後、彼は魏の将軍である鐘会をそそのかし、蜀の再興を図りますが失敗します。 姜維は最期まで蜀の為に尽くした、忠義の名将だったと思います。
- kawakawakawa13
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魏や晋の国から見れば、「負けるのが解っているのに悪足掻きする馬鹿な奴」、蜀から見れば、「諸葛武候の遺志を継ぎ、努力したが、武運拙く敗れた」となるでしょう。 元々魏陣営に居て、あそこまで無私に蜀に尽くしたのですから、偉いと思います。 >姜維が蜀を滅ぼした原因だと聞きました >という事は、姜維は結局蜀にいてもたいして役に立たなかった、むしろ悪い奴、という事なのですか? 三国志の終わりのほうに、劉禅の後日談が出ています。 彼は蜀滅亡後、魏の都で暮らしますが、「山奥の蜀に居た頃より、今のほうが楽しい。」と言って、家臣に諌められたという逸話が出ています。 幾ら前線で兵が頑張っていても、後方がこれでは姜維も堪らなかったでしょう。
- kodamaru
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悪い人ではありません。国を背負う器ではなかったのに、人材不足(滅亡直前の蜀は人材らしい人材は皆無だった)のため、諸葛亮なき後、彼がその重責を担わざるを得なかったのです。