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姜維伯約っていい人?わるい人?
daitensaino1の回答
- daitensaino1
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姜維ははじめ魏の武将でしたが、諸葛亮(孔明)の策にかかり、蜀に仕えました。そのとき諸葛亮は、姜維を得て大いに満足し、その働き振りなどから、後継者を得たと言ったそうです。 姜維の主な参戦した戦いについては、南安を攻略しようとしたが撤退。隴西、襄武を攻略。狄道城を攻略しようとしたが撤退。段谷にて大敗。侯和に出陣したが敗れる。など、毎年出陣するが、勝利を得られず、蜀の国力、兵力を低下させてしまったのではないでしょうか。そのときに、魏が攻めてきて、姜維が剣閣を守っていたが、鄧艾がわき道から緜竹に侵入、諸葛瞻を撃破した。そこで皇帝劉禅は鄧艾に降伏した のちに姜維は鍾会に叛逆の意図があると見抜き、それを利用すれば蜀を再興できるだろうと考え、鍾会は鄧艾に冤罪を被せて更迭、姜維らを率いて成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆し、姜維に軍勢五万を与えた。魏の将兵は怒り、鍾会とともに姜維を殺害した。 蜀を守るのに全力を尽くしたが、力が後一歩足らず、あまり蜀の役に立てなかったということだと見てよいのではないでしょうか。
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