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福音派で科学者は自己内部で分裂しないんでしょうか?

benderの回答

  • bender
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回答No.12

いわゆる「福音派」ではないと思うのですが、米国立衛生研究所ゲノム計画責任者の Francis Collins は以下の英語のインタビュー記事で(最後の段落)彼の奇跡についての理解に触れています。多分僕のいい加減な訳をつけるべきではないと思うので、リンクだけ掲載します。 http://www.pbs.org/wgbh/questionofgod/voices/collins.html 別のインタビュー記事(ページ6と8で彼の信仰について触れています): http://www.achievement.org/autodoc/page/col1int-1 Francis Collins の経歴他: http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Collins ところで、以上のインタビューにでてくる Collins が影響を受けたという C.S. Lewis の “Mere Christianity” という本は(日本語では「キリスト教の精髄」という題で売られているのですが)質問された方も興味をお持ちになるのではないかと思いました。また、すでにご存知かもしれませんが、C.S. Lewis は「ナルニア国ものがたり」の作者で、「科学者」ではないですが、University of Oxford や University of Cambridge で medieval literature を教えた学者だそうです。 http://en.wikipedia.org/wiki/C._S._Lewis ところで、質問された方がほぼ絶対的な前提としてとられている立場はおおよそ「自然主義」と呼ばれる一つの立場ではないでしょうか。僕も(それが何であるのか詳しくは理解していないものの)内心共感しなくもないのですが、ただ、それ以外の立場をとる人を「科学者」ではない、とはいえないように思います。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%C1%B3%BC%E7%B5%C1?kid=79317

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >Francis Collins(博士) ご紹介いただいた段落のみですが、興味深く読みました。 博士の名前と偉業だけはさすがに耳にしていました。 それはさておき、博士が個人的な信仰について、 しかも自分自身の科学と信仰との関係(共存)について語ったインタビューは 大変面白かったです。 私も博士が福音派かどうかは分かりませんが、 「奇跡は頻繁に起こるようには思えない(後略)」とあるのを見る限りでは、 #7さんの言われたような、いわゆる「コチコチの福音派」ではないように思います。 博士における科学と信仰の共存の仕方というのは、 神様というものが「自然界の外部」に在り、 自然に対して時としてintervene(やはり#7さんの使った「介在」がいいでしょうか)すると、 それは奇跡としか言いようがないということでしょうか。 その上で、博士における科学と信仰の位置関係というのは、 「神は科学を通して自然界を理解する機会を与えるように思う」 という言葉に代表されると思いますが、 これを見ると、私が福音派の科学者に見るような、 その場その場での使い分けとは少し違うように思いました。 >ただ、それ以外の立場をとる人を「科学者」ではない、とはいえないように思います。 誤解を招いたなら遺憾ですが、 私は決して福音派を科学者ではないとは主張していません。 むしろ、福音派で科学者の存在を認めた上で、 福音派であることと、科学者であることの対立項 (博士によれば対立ではないわけですが)を、 どのように処理されているのかを聞きたかったわけです。 誤解を解くために、私の勝手な想像で例をあげますね。 福音派で地質学の先生がいて、 学校では、1万年以上前からの極東アジア地域に見られる きわめて漸進的な海水面の上昇という歴史を教えたとします。 その先生が、教会では自分の子供に、 つい数千年前まで、世界は水の底に沈んだということを教えたとしたら、 それは前述したコリンズ博士の言う科学と信仰の共存のしかたとは、 いささか違ったものではないかと思うわけです。 >C.S. Lewis の “Mere Christianity” という本 「ナルニア国ものがたり」は知っていました (私は実はこういうのも大好きです)が、 ご紹介いただいた本は知りませんでしたので、 機会があれば手にしたいと思います。

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