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福音派で科学者は自己内部で分裂しないんでしょうか?

nacamの回答

  • nacam
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回答No.7

5番です。 私自身は、キリスト教徒ではありませんので、聖書の解釈、福音派の考えの詳細を理解しているわけではありません。 そもそも「コチコチの福音派」でしたら、科学者ではなく、聖職者がそれに類する人になろうとするでしょう。 >聖書は『「本当に」水がぶどう酒に変わっった』と言っているからです。 のみならずイエスは「見ずに信じる者になりなさい」と教えているからです これを、「神の力」とするのであれば、了解できるのではないでしょうか。 通常は、絶対にありえない事が、神の奇跡として起こる。 「神の奇跡を信じなさい」とこの場合、理解しているとすれば、全く問題ないわけです。 >化学式には「神の意志とか、神の奇跡などの介在」がありうるが、 という信仰と同じ前提に立つものも見ません。 これは、「通常ありえない(有ればそれこそ奇跡)ので、記載する必要が無いと考えれば、あえて言う必要が無い」と考えれば、通用するのではないでしょうか。 つまり、「神の奇跡が起こらない限り、そんな事は有り得ない」と考えているのではないでしょうか。 逆に、常に変わるのであれば、それは奇跡でも神の介在でもなくなってしまうわけです。 もっと言うと、この世に物質ができた事、原子の結合から生命が生まれた事、物質が規定の反応を起こすようになった事こそ、神の奇跡、神の介在と考えているかもしれません。

noname#17662
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そもそも「コチコチの福音派」でしたら、 科学者ではなく、聖職者がそれに類する人になろうとするでしょう。 コチコチの福音派で聖職者が神の奇跡を説くのは、私には何の疑問もありません。 神の奇跡を信じるのが聖職者の業(なりわい)だからです。 一方で、コチコチの福音派で科学者という方も案外多くいると思います。 福音派に限らず、宗教がその宗教施設の次に建設するのは決まって学校と病院だからです。 >通常は、絶対にありえない事が、神の奇跡として起こる。 「神の奇跡を信じなさい」とこの場合、理解しているとすれば、全く問題ないわけです。 仰るように、この回答がなんとなく私にもしっくりきます。 科学は科学、神の奇跡は神の奇跡(学校は学校、教会は教会)という具合に、 時と場所で分けて考えるというのは、とても人間らしいふるまい方だと思います。 つまり「いいかげんな福音派の科学者」なら私もすごく理解できるのです。 しかし時にこの科学と福音派の境界線が不明瞭になることがあります。 以前、世界の全ては大洪水に没したということを証明するために 試験管を使ったささやかな実験を発表した記事を読んだことがありました。 もちろん真っ当な出版物ではありませんし、現代の地質学者は一笑にふすでしょう。 しかし、福音派の地質学者はこの記事を一笑にふせるでしょうか? 科学者として世界の全てが没してしまうほどの洪水は起こりえないとしているひとりの人間が つい最近まで世界は水の中にあったということを 同時に併せ持つことができるものだろうかと疑問でした。 >この世に物質ができた事、原子の結合から生命が生まれた事、 物質が規定の反応を起こすようになった事こそ、 神の奇跡、神の介在と考えているかもしれません。 私はまさしくそこに科学と神の奇跡の混同があるように思います。 聖書は原子の結合から生命が生まれたことを否定しています。 聖書によれば、世界と生命は神の言葉とわざによって「突如」生まれたのであって、 聖書の記者は原始やたんぱく質の結合などについてはおそらく無知だからです。

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