• 締切済み

会津と長州

現在でも、会津と長州には確執があるのは有名ですね。 そこで、実際に現代において、両者の不仲を思わせる出来事などがありましたら是非教えてください。新聞記事に掲載された出来事や、身近な出来事でも何でも結構です。 事実のみを知りたいので、感情的な回答はご遠慮願います。宜しくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数12
  • ありがとう数20

みんなの回答

  • PopoAmin
  • ベストアンサー率50% (70/138)
回答No.12

長州と会津が不仲というのですが 長州と会津はそれほど不仲ではない。 むしろ会津人が嫌うのは薩摩人だと聞いています。 長州は最初から最後まで敵だったが それは主張する考え方が違うだけで 武士として非難するようなものではない。 他方、薩摩は表向き会津に協力すると見せながら 裏では長州と手を握り土壇場で会津を裏切りましたから、 武士として許すことができない。 現に西南戦争では会津出身の巡査が多数抜刀隊に参加し、 異様な闘志をむき出しにして薩摩兵に切りかかったと 言われます。 剽悍とされた薩摩の兵児が会津の抜刀隊を恐れたといいますから その遺恨のほどがわかります。

回答No.11

今は忘れている人が多いようですが 実は会津戦争の時には会津の庶民は重税に苦しんで愛想をつかしていましたので官軍を諸手を挙げて喜んで歓迎しています 二本松藩から鶴ヶ城までの進撃では地元の領民の道案内で進軍したために会津藩はほとんど抵抗できませんでした わずか2日で篭城戦に入ります まともな戦いはなかったのです 死体に関しては官軍も会津藩も死体の埋葬を禁止しています 会津領民は各地で民家を会津藩兵の焼かれてしまい(食料などの補給を阻止するため)かなり憤慨していました ですので、官軍が来ると拒むどころか、道案内をして、商品も平気で提供して、憎い会津藩主を恨んだのです ちなみにもう出ているとは思いますが、斗南は猪苗代を捨てる事を決意した会津藩士の判断です 贋金作りをしていたのは実は会津藩士で斗南でも贋金つくりをして逮捕者が出ています

回答No.10

polpotoさんの回答に関して、会津の人間ではありませんが史実を元にちょっと一言。 会津の人々が今でも長州に遺恨を残しているのは、実際に攻め込まれた云々よりも戦後処理の酷さなんです。 長州を中心とする新政府軍は、会津藩の民衆を『賊徒』として、戦死した者の埋葬も許さず、筆舌に尽くしがたい恥辱を味わわせました。 同時期に、偽金事件が多発したのですが、調査にあたった長州藩は、会津藩の民衆に対して取調べすら行わず50人ほどの町人を母子の前で公開処刑しました。 また、戦の以前から会津藩を朝敵として差別していた長州の代表的人物、山県有朋は、学界や官界に進んだ会津藩出身者の登用について徹底的な妨害工作を行ったと言われています。 特に、最初に挙げた遺体の処理に関しては長州の主導で、徹底的に非人道的な処理が行われました。 どうぞ、堅いものでなくても結構なので、歴史書を手にとってみてください。

  • polpoto
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.9

実は、会津の人たちは「戊辰戦争?何それ一体?」という思考の方がほとんど。 会社の上司で会津藩の家老の末裔の方が面白い事を言ったいた・・・「会津と薩長の確執?そんなの本気で考えている奴なんて歴史小説に感化されたバカ位だよ。うちの先祖は確かに一回下北の方に行ったりはしたけれど、130年以上前のことを今もネチネチ言ったって意味ないよ。あいつら(騒いでいる連中)まるで成田闘争や沖縄の反基地闘争に来ているプロ市民と同じだね」。 ところで、山口出身の芸能人(松田優作・西村知美・芳本美代子・木暮美千代・陣内大蔵・KATZEなど)は、会津に来たことがあるのでしょうか? ちなみに宇部興産と長府ボイラーの代理店はちゃんと会津にありました。 さらに質問ですが、会津戦争で戦ったのは薩摩と土佐。長州は間に合わなかったので実際は戦っていない。なのに「長州による虐殺」などという捏造を平気で行っているのは何故でしょうか? そして、たかが武士階級とそれにつながる一部の階層が死んだぐらいの規模のものと広島の原爆を同一視するのでしょうか?ね、会津の皆さん。

回答No.8

http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/rekishi/20051023-shouin-jinjya-ichisaka.htm 現代の長州側が歴史を捏造すれば、感情的にも成るでしょう。

参考URL:
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=8bdbebfma4n26a4ac8la4kkkkvffckdc&sid=1835208&mid=302
回答No.7

 山口(長州でなく防州ですが)に本社があるトクヤマというセメント、建材の大手企業があります。従業員も地元出身者も多いです。セメント、建材ですから全国に営業展開していますが、会津には営業に行かないそうです。同じ山口の同業者(宇部興産とか東ソー、秩父小野田セメント)はどうなんでしょうね。

回答No.6

会津と長州の対立というのは、実は騒がれるようになったのが昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと、司馬遼太郎が会津で公演を行った際のリップサービスが再燃した結果。 更に地方史家で当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館館長である故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。 過去にも会津に恨みがあったような話は、殆どが観光関連イベントや商工会がらみのキャンペーンが原因。また地元の政治家も似たような話をするが、会津若松市から離れた地域は「市はまだそんなキャンペーンをやっているのか」と困惑しているのが実情だそうです。 更に会津贔屓の作家さんによる史実歪曲が、史実を知らない一般の人に洗脳されて余計に薩長は悪とレッテルを貼られてしまった。 今の会津若松市は逆に「恨みを商売にしている」と「観光史学」と批難されている状況で、歴史ファン同士の憎悪を生んでしまったのが本当でしょう。 >実際に現代において、両者の不仲を思わせる出来事などがありましたら 書籍として ◆会津ちょっといい歴史(野口信一) http://diarynote.jp/item/4897572630.html ◆戊辰怨念の深層(畑敬之助) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4897576342/qid%3D1129809983/249-8773788-8985158 ◆会津人が書けなかった戊辰戦争(牧野登) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/489757353X/qid%3D1129815589/sr%3D1-5/ref%3Dsr%5F1%5F10%5F5/249-8773788-8985158 をご一読を。観光史学の批判と、会津史観の硬直化に対する批判がそれぞれ書かれているので。 ネットだけではなく、直接書物を読んで批評に耐えられるようにされることをお勧めします。 会津を代表するように自称されている星亮一氏の本もありますが、独善的で硬直した会津史観で書かれているのであまりお勧めできません。史実を曲解するような書き方をされているのでどうかなと思います。 因みに畑敬之助氏は会津史談会の顧問をされている方で、戦前に旧制高校時代に会津の英雄的・悲劇的歴史観を槍玉に挙げられて批判されたそうで、会津の持つ戊辰の恨みという歴史観が実は戦前にも叩かれているという事実を知ったときは驚きました。 野口信一氏は会津若松図書館館長です。

  • mias2000
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.5

そう?こっち(会津)はやっぱり、そっちが嫌いですね。大阪嫌いな東京の人とか、京都を嫌いな大阪の人とかいるでしょ?その人たちは東京や大阪の中では少数。でもこっちは長州の人が嫌いなのは大多数。そんだけのことです。ただ、いまさら、何か仕返しをしてやろうとか、嫌がらせをしようとかする人は私の周りにはいません。ただ、嫌いなだけ。こっちから進んで、交流しようとは思いません。かかわりたくないですね。別に、こんなに遠いんだから、わざわざ仲良くする必要があります?仲良くなったあとから知ったら、付き合いをやめるとかはしないけど、最初から知っていれば、すすんで、お付き合いはしないね。

  • ZXYZY
  • ベストアンサー率25% (200/778)
回答No.4

こんにちは長州は萩で生まれ育った人間です。 確かに、萩を主体とする長州勢力は非人道的ともいえる扱いをしました。会津側の死体は埋葬さえも許されず捨て置かれたことを考えると会津の方々の心中は察しても余りあるものがあります。しかも、明治維新以降、政府の要人は薩長が占めたため会津出身者は冷遇の憂き目にあったようです。正に”勝てば官軍”の言葉どおりですね。萩で教育を受けましたが特に郷土史等でも詳しく取り上げられることも無く会津との確執というか会津の人々からの長州人への思いは社会人になったから知ったくらいです。両市の市長も交流をしており時折、地方紙に”雪解け”の文字が躍りました。忘れる事ははばかられる史実ですが現代において不仲説はマスコミが過去を掘り出して言っているに過ぎないと思います。山口県(特に萩市)が舞台となった”釣りバカ日誌12~史上最大の有給休暇”では宮沢りえと吉岡秀隆が長州と会津の出身と言うことで親に付き合いを許されないと言う場面が有りましたが、映画だけのお話では?と思います。

  • merlionXX
  • ベストアンサー率48% (1930/4007)
回答No.3

戊辰戦争130年in角館=だが怨念は消えず http://www.hana.or.jp/hana/nitiniti/news98/Aug/n980828.htm

関連するQ&A

  • 現在の会津と萩との関係について

    山口県萩市の歴史愛好家40人が、吉田松陰の旅した道のりを辿り、会津若松市を訪問した、と新聞に載っていたのですが、その記事で気になることがありました。 それは、「わだかまりは未だ残っていますが、互いに行き来することで~。」という、一行を受け入れた会津の民俗研究会の方のコメントです。 100年以上経った今でも、会津戦争は会津の歴史に深く刻まれているのだなぁ、と思いました。 そこで、会津(福島県)の方や聞いたことがある方、今でもそのようなわだかまりは実際にあるのでしょうか? 例えば、山口県出身の人の悪口や、ご年配の方から叩き込まれた話などありましたら、教えて下さい。 ちなみに、私の先祖は幕府の者だったので、観光で上野の西郷像を見に行ったと年配の親戚に話したら、「西郷は敵だぞ!」と冗談交じりで言われた経験があります。(^^;) これが会津だったら、もっとこのようなことがあるのではないでしょうか? みなさま、よろしくお願いします。

  • 会津藩について

    会津藩ってよく悲劇だの、義、会津魂や徳川家に最後まで忠誠だっただと会津藩って美化されすぎていませんか? 戊辰戦争での会津戦争って初めは 「会津藩は恭順していたけど、新政府軍から無理やり攻められたから仕方なく戦った」というのを聞いたのでそれを調べもせずに信じてたのですが、いろいろ調べると実際は会津藩側にも問題が ありますよね。朝命に従い軽装して京へ行こうとする慶喜に対して興奮する会津藩、桑名藩、旧幕府軍が薩摩を成敗することを慶喜に求めて、抑えられなくなった慶喜が攻撃を許可して会津藩、桑名藩、旧幕府軍は武装して京へ進軍。新政府軍の薩摩に説得されて薩摩に寝返る藩もいたために、旧幕府側は敗北。 旧幕府に味方した藩や慶喜は朝敵に。ただしすぐに恭順すれば、寛大な処置で済むように告げると桑名藩や旧幕府に味方した藩は恭順、大阪城にいた慶喜も完全恭順を決めて、開戦責任について謝罪、家名を残して欲しい、会津藩や桑名藩含めた家臣を許して欲しいと謝罪。しかし、会津藩だけは自分たちは無罪だと主張。容保は当時、慶喜と一緒に大阪城に逃げていたとはいえ、会津藩の藩主として責任を問われて出頭命令を新政府軍が出すも それに応じず。新政府軍は会津討伐を決定するも、今からでも謝罪すれば、寛大な処置もあり得ると会津藩に求めたものの、会津藩は謝罪拒否の返事を出す。 会津藩は天皇に対して恭順を示すも、新政府軍の権威は認めていませんでしたし、裏では不審な行動ばかりをとっていて、他の藩に嘆願運動を頼んでおきながらも自分たちは戦争のために庄内藩と同盟を結んでいます。最終的には会津藩が新政府軍の占領地を奇襲したことで会津戦争が始まってます。会津藩側にも降伏派はいましたが、会津藩の抗戦派に藩主の命だと嘘を言われ多くが切腹しています。 当時の会津藩には降伏の文字はなかったというのもはっきりわかっています。戊辰戦争研究家も会津藩側の書類には一切謝罪 や恭順の文字がなかったと言っています。 池田屋事件についても志士側の京都の火の海計画である「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち・・・」というのも これは今の研究では新選組による陰謀の可能性が高い事が わかっています。 新選組の行動の辻褄が合わないようです。また志士側の 持ち物にもそのような道具はなく、木戸の日記にも 仲間を救出するためとあります。 京都の観光サイトだと京都に長年住んでいる人からしたら 祇園祭の前に強い風が吹く事がありえないことくらいわかるから 無謀な計画。新選組による陰謀だと言っています。 そもそもこの京都の火の海計画って信憑性自体がかなり低いものなんですが、なぜかこれが真実かのように広まっていますよね。新選組は計画を阻止したなんて言われていますが。 2020年に大学講師が新選組が村に分宿「生活に迷惑」 という内容である豪農日記を分析しています。 2013年には会津藩と庄内藩が幕府から防衛のためと言われて譲渡された蝦夷地を担保にしてドイツから軍資金を得ようとしていたのが明らかになっています。北海道新聞にも大きく掲載されました。これって孝明天皇を裏切る行為とも言えますよね。容保は鳥羽の戦が始まった後に、藩主を辞職しているので、容保が関わっているのか、容保が辞めた後に会津藩が勝手にドイツと交渉をしたのかはわかりませんが。脱藩した水戸藩士を使って略奪行為をしたり、戦争のために町民から財産の没収したり、農民に対しては米も奪っています。 容保がいない会津藩は好き勝手やって暴走してるようにも見えます。 あれだけ新政府軍から埋葬を禁止されただのと言われていたのに2016年に会津若松市で戦後の一週間後に政府の命令で埋葬された証拠が出てきています。福島県郡山出身の歴史家の野口さんが言うにはそもそも埋葬が禁止されたとか長い間放置されたなんていう証拠は ないみたいです。小説やエッセーで使われるようになってそれが 広まっちゃったとか。 皆さんはどう思われますか? 別に会津藩自体が嫌いなわけではないです。

  • 報道

    新聞、テレビなんかを見てると、大小様々に事件、事故が伝えられていると思いますが、これらは全て実際の出来事なんでしょうか。 私は地方に住むのですが、普通に暮らしてて全然事件、事故現場に遭遇する事が無いので、勘繰らずにはいられないのです。 新聞社やテレビ局などが、視聴率などを稼ぐ為に架空の出来事をでっちあげてメディアに載せてるだけでは?などと思ったりもしてます。 芸能記事なんかについては嘘も多いと思いますが(週刊現代や週刊朝日の類の雑誌記事)。

  • ニューネッシーの新聞記事が欲しい!

    1977年にニュージーランド沖で謎の生物の死体が引き上げられた出来事についての新聞記事が欲しいのですが、どの新聞に掲載されたのでしょうか?また、それが載っている日付を知っている方はいませんか?

  • 心温まるような新聞記事を教えてください

    書物として、新聞協会が「心がポカポカするニュース」をお出しになっているのは存じています。しかし、それ以外にも、各紙の日曜版やお正月特集記事などで、是非、若者に読んで欲しい記事がいくつもあるのではないでしょうか。 現代社会が忘れているような、優しさを思い起こさせるような記事(新聞に限定したいと思います)があればお教えください。可能ならば全文が欲しいのですが、そうでなければ、掲載年月日などを。よろしくお願いします。

  • 著作権法違反に当てはまりますか?

    ここのサイトに挙げられた質問でたまたま新聞で読んで答えられる回答がありました。 しかしその新聞はインターネットでは見出しだけで記事を掲載していません。 (記事を掲載していても駄目なのかもしれませんが) この状況で新聞の内容を回答をすると著作権法違反に当てはまるのでしょうか? 新聞名や日付を書いても駄目なものなのでしょうか?

  • ○○新聞の悪意ある英語版サイト

    ○○新聞の英語版ニュースサイトに、日本(日本人)の信用を失墜させるようなでたらめな記事が掲載されていたらしいのですが、これは事実なのでしょうか? それともネタ? 該当記事は、すでに削除されているらしく実際の確認ができません。 よろしくお願いします。 なお、個人的に事実かどうか判断がつかなかったため、社名は伏字とさせていただきました。 ソース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080620-00000003-jct-sci

  • 新聞に掲載されるには?

    ショップやメーカーさんの商品などがよく新聞で紹介されていますが、これらは広告ではなくて、記事として取り上げられています。 こういう記事って、新聞社側からアプローチされるんでしょうか? 自分から売り込むのってなかなか難しいのではないかと思います。 実際に掲載されたことのあるショップ様、メーカー様などに質問です。 ずばり、なぜ、掲載されたのでしょうか? 新聞社にプレスリリースをあきらめずにしたからでしょうか? それとも編集者と知り合い? 偶然ですか?

  • Web新聞記事の部分的要約を自分のWebページに掲載することの可否

    個人でニュース系サイトを営むとき、 その主な情報源はどうしても大手の新聞記事に依存してしまいます。 Web上の新聞記事や見出しを自由転載できるのが望ましいのですが、 それは著作権侵害になることは理解しています。 そこで、Web新聞記事の社説以外の事実的内容の記事について、 当該記事が伝える事実部分を要約し、記事元に対して特に許可を求めずに、 それを自分のWebページ上に掲載して雑感や批評を加えることは可能でしょうか? 例えば、以下の記事について。 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/05/news086.html (1)原告・被告は誰か (2)原告・被告の主張 を整理要約し、 (3)IFPIの会長兼CEOの発言部分 をそのまま掲載することは可能でしょうか?

  • 中日新聞 掲載記事 英語活動

    6月18日に中日新聞の掲載記事にて、英語活動に関するものを見ました。No2となっていたので、ぜひNo1も読みたいと思い、新聞を探しましたが、見当たりませんでした。処分してしまったのかも・・ どなたか内容を教えていただけないでしょうか。また実際の記事を手に入れる方法があれば教えてください