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旗本
6dou_rinneの回答
- 6dou_rinne
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時代にもよりますが、綱吉時代以降将軍の御座所と老中の執務室が離れてしまい、また将軍への取次は側用人あるいは御側御用取次の手を経なければなりませんでした。 側用人はほとんど大名になっていたのにたいして、御側御用取次は5000石高の旗本にすぎませんでしたが、その権限は側用人と同じで老中からの取次依頼でも「そのようなことは言上できません」と拒否するだけの権限があり、つねに将軍の側近に控えていますので老中をしのぐくらいの権勢はありました。 老中に準ずる待遇になったのは江戸時代でも中期以降のことですが、実質的な権限はそれ以前から(御側御用取次ができたのは吉宗の時代ですが)もっていました。 ただ、公式の場では老中が側衆に対して下僚としての扱いはしなかったでしょうが、上官として立てるほどのことはなかったでしょう。
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お礼
御回答ありがとうございます。 とてもよく分かりました。