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旗本

御側御用取次・御側衆は老中格の待遇を受けていたというのは本当でしょうか。大名・旗本からも老中に准ずる応対をされていたのでしょうか? 留守居や大番頭も同じ役高五千石の旗本ですが、御側衆と接する時は御側衆を上官?として立てたのでしょうか? ご意見を伺えれば幸いです。

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  • ベストアンサー
  • junt
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回答No.3

 No.2 .ですが、『側用人』と『側衆』を間違って書いてしまいました。すみません。 ○側衆  旗本が任ぜられましたが、将軍の最重要な側近役であったがゆえに、若年寄りや側用人、老中に抜擢された者もいました。  承久二年(1653)設置、側用人の設置により権限は縮小されます。  支配先は老中です。    将軍に最も近侍する役に『側用人』、『側衆(御側)』の2者がありました。『側衆』は、おおむね五人ほどですが、その中から一人か二人が『御側御用取次(御取次)』に選ばれ、他は平の平御側ということになります。  『御側御用取次』と『平御側』の違いは、どちらも2・3千石の旗本ですが、『御側御用取次』が大名格であったのに対して、『平御側』は準大名の待遇でした。『御側御用取次』は、未決の重要事項を扱いましたが、『平御側』は、老中・若年寄既決の比較的軽い書類でした。『平御側』はそれを老中・若年寄から受け取ると、『御側御用取次』のように直接将軍に差し出さず、小姓頭取に渡しておき、将軍が手すきの時を見計らって、小姓頭取が上覧に入れて裁可をもらいました。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 平の御側衆は権限的には小さかったのですね。

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その他の回答 (2)

  • junt
  • ベストアンサー率38% (97/254)
回答No.2

 ○側用人   君側にあって(将軍の側近として)、将軍と老中との取り次役であったから、時には老中の上申を突っぱねることもありました。ゆえに独裁政治も生まれることもあったのです。  役高・役料ですが、大名であるので特に役高、役料というのはありません。  制度としては、延宝8年(1680年)設置で文久2年(1862年)廃止です  支配先は老中になっています  徳川幕府で、『御側用人』という制度が設けられたのは、五代将軍綱吉の延宝8年(1680)からでその代1号は牧野成貞(なりさだ)です。そして、幕末の水野忠寛を最後に廃止されました。  御側用人は御側衆から選ばれ、将軍お気に入りの譜代大名が任命されます。待遇は、老中並みで、殿中では、老中・若年寄と同じように、奥坊主がシーシーッ と制止声をかけて先導しました。  また御側衆からは、御側御用取次ぎというのが2・3人出ることもあります。似たような役柄ですが、側用人の方が上席です。御側御用取次ぎに任命されると、『いかなることを取り次ごうとも、私意をまじえることは決してしない』という誓詞に血判をして提出します。誓詞には、『万一違反した場合には、日本六十余州の神々からいかなる罰を受けても不足はない』ということが書いてあります。  側用人にしろ、御用取次ぎにしろ、老中の上申であっても、『かようなことは言上できません』とか『御取次ぎできませんから、ご自分で言上しなさい』と自分の判断で突っぱねることがあったといいます。また、将軍に対しても、『さようなことは、いけません』と諫言する権限を持っていました。  老中と言えば幕閣最高の権威者ですが、側用人は君側第一の立場にあるのだから、突っぱねられれば頭を下げざるを得ません。将軍の威光を笠に着て、ずいぶん横車を押した側用人も多かったようです。  これは、幕府だけでなく藩の場合でも同じです。虎の威をかる狐はいつの時代にも存在するということです。

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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

時代にもよりますが、綱吉時代以降将軍の御座所と老中の執務室が離れてしまい、また将軍への取次は側用人あるいは御側御用取次の手を経なければなりませんでした。 側用人はほとんど大名になっていたのにたいして、御側御用取次は5000石高の旗本にすぎませんでしたが、その権限は側用人と同じで老中からの取次依頼でも「そのようなことは言上できません」と拒否するだけの権限があり、つねに将軍の側近に控えていますので老中をしのぐくらいの権勢はありました。 老中に準ずる待遇になったのは江戸時代でも中期以降のことですが、実質的な権限はそれ以前から(御側御用取次ができたのは吉宗の時代ですが)もっていました。 ただ、公式の場では老中が側衆に対して下僚としての扱いはしなかったでしょうが、上官として立てるほどのことはなかったでしょう。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 とてもよく分かりました。

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