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旗本

寄合や小普請でも一千石以上の割と裕福な旗本はどんな暮らしをしていたのでしょうか? 暇で暇で退屈の虫が騒いでいたのでしょうか。 あと、大御番が大坂や京都に赴任する際は、宿場で大名行列とかち合う事もあったと思いますが、一万石程度の小大名と大御番とでは、どちらが本陣に泊まって、どちらが脇本陣に甘んじたのでしょうか? どちらか1つでも良いのでご回答頂ければ幸甚に存じます。

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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

小普請や寄合ではやはり肩身は狭いですから、やはり役につくための猟官運動をする者が多かったのではないでしょうか。また格式がありますからそれなりの交際費も必要で生活が苦しいというほどではないにせよ裕福というほどでもなかったと思われます。 大番と小大名の場合は、小大名のほうができるだけかちあわないようにしたと思われますが、江戸前期に大番頭と萩藩毛利家の参勤交代の行列がかちあったときに大番頭が「片頬打ち}(宿場を左右に分けて譲り合うこと)を申し入れたということがあり、また江戸時代後期にも仙台伊達家の行列と将軍の日光社参の準備のため日光に向かっていた勘定奉行・目付の一行が公用を傘にきて先着の伊達家の一行を追い出して本陣に泊まったという話もありますから、一万石程度の小大名であれば大番のほうが本陣に泊まったのではないでしょうか。 ただ、本陣はひとつの宿場に1軒とは限りませんので、そういう場合はケースバイケースではないでしょうか。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 毛利家の一件は存じてましたが、仙台候とも諍いがあったのですね。 毛利大膳や伊達陸奥の様な大身ですらそうなのでしたら、外様の小藩の手におえる相手ではなさそうです。

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