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関が原 小早川の寝返り
rabbit_catの回答
- rabbit_cat
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そもそも、西軍は基本的には野戦巧者の家康相手に野戦をするつもりはなくて、持久戦で時間を稼いで、秀頼や輝元の出陣を待つというのが基本戦略でした。 それが、基本戦略を捨ててまで、あえて野戦に出たのは、今なら絶対に勝てると思ったからです。 というわけで、小早川と毛利・吉川が本気で西軍について戦っていれば、メッケルの言うとおり西軍勝利で間違いないと思います。 逆に、家康にすれば、小早川裏切りと毛利・吉川の静観を、確信していたからこそ敵が待ち構えている関が原にあえて進出したともいえます。 秀吉があと10年生きていれば、豊臣の天下が続いた可能性が高いとは思いますね。ただし、朝鮮からの撤兵をうまくやらないといけませんが。 しかし、豊臣政権は、江戸幕府と違って、豊臣の領土(江戸幕府でいう天領)が少なく、また家康250万石を筆頭に、大大名がごろごろいるので、室町幕府のような弱い政権になっていた可能性が高いと思います。
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