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豊臣家五大老

五大老にこの五人が選ばれた理由ですが… 徳川家康…天下一の実力者。 秀吉が最も信頼する人物 前田利家…秀吉の親友。秀頼の守役であり就任は妥当か 宇喜多秀家…かつて秀吉の養子。いわば養父の七光り 上杉景勝…北陸一の実力者。家臣の直江兼続が秀吉のお気に入りであったため 毛利輝元…就任予定の小早川隆景が直前に死去したため隆景の主君として代わりに抜擢 と…いう感じで合ってますかね?

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  • ベストアンサー
  • izuhara
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回答No.3

当初(1595)は、家康・利家・輝元・隆景・秀家・景勝の六人です。 家康には東国支配を、輝元・隆景には西国支配を委任していました。 つまり、徳川家と毛利家は別格だったわけです。 これらが選ばれた理由ですが、一番は石高でしょう。 徳川家康…256万石の石高No.1。東海道を豊臣恩顧で固めていることをみると、信頼されていたかは微妙ですが。 前田利家…83万石。秀吉がもっとも信頼する人物。秀頼守り役。 宇喜多秀家…57万石。準豊臣一族。畿内に最も近い大大名。 上杉景勝…90万石→120万石。家康の押さえ。直江兼続がお気に入りかどうかはあまり関係ないかと。 毛利輝元…120万石。西国一の大大名。 小早川隆景・・・33万石。毛利氏の柱石。1597年死去。 東西の大大名と秀吉との関係が深い大大名によって、秀吉死後の体制を整えようとしたのでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

まぁ家康は当時豊臣政権ではナンバー1の実力者ですが 確かに秀吉が警戒していたのも事実ですね

その他の回答 (4)

回答No.5

#2です お気を悪くされたのであればごめんなさい。 ただ、僕は豊臣秀吉という人物が、命を預けるほど他の大名を信じていたとは到底思えないんですね。 むしろ自分以外は信じていないんだろうな。と思う節も多々ありますから。 そのような中での五奉行という組織を考えてみれば、五大老あたりは単なる不戦条約としての肩書にすぎない。不戦条約という事は結局のところ、裏切られたら困る順序だと思ったわけでして… 僕はあまり明るくないので間違っていたのでしょう。失礼しました<m(__)m>

azuki-7
質問者

お礼

まぁ確かに秀吉は自分以外は信じていない節はありましたが それは最晩年ですね 徳川家康は信頼もしていたが警戒もしていた だからこそ前田利家を抑えとして起用したのだとおもいます 不戦条約=五大老ではないでしょう 当時は諸大名に惣無事令という不戦命令をだしてますから

noname#177763
noname#177763
回答No.4

こんばんは。 徳川家康は実力者なばかりに江戸に遠ざかれましたけどね。 azuki-7さんは『歴女』ですね。 一般的に女性は社会(地理・歴史)が苦手な方が多いのに…。

azuki-7
質問者

お礼

社会科の知識は親の遺伝ですからね 男性も女性も関係ないのです

回答No.2

いつも教えてもらってばかりなので、自信はありませんが一応… てか、五大老って秀吉が「信用していない」と「裏切られたら厄介そう」の最大公約数が高い順じゃないでしょうか? 筆頭の徳川家康なんて最たるものですよね。信用もしてなければ、戦いたくもないですよね… 前田利家も苦楽を共にした中でしょうから、秀吉は信用もしていたでしょうし、秀吉の子飼の武将だって利家を信用していたでしょうから、逆に仮に敵に回ったら、味方は減るは敵は増えるはですからね。さらにかつて柴田勝家をサクッと裏切ってますから、仲の良し悪しで判断しにくい人物ではある気がしますから、この人も五大老。 宇喜多と小早川に関しては、やっとの思いで手に入れた準親藩的な大名ですから、裏切りを想定していないでしょうが、絶対に裏切られたら困る人たちですからね。ですからキープ。 そして西国の要なんでしょうね。毛利輝元に関しては、絶対に裏切られたくない宇喜多と小早川の監視の意味も込めてキープ。 逆に、後年に五大老に名を連ねる上杉や、九州の雄である島津などは遠隔地ですからね。基本的には「戦いに時間もかかるし、そのタイムラグでなんとかつぶせるだろう」という判断で、むしろ五大老にした方が中央とのつながりを下手に持たれるチャンスが生まれますから、あまりにもリスクが大きいと判断したんでしょう。だからこそ外れているんじゃないでしょうか? 徳川・上杉・伊達は当初から目障りな連中だったでしょうが、島津同様に遠隔地でしたから。ただ上杉景勝の五大老就任時点では、東国あたりが一番の弾薬庫だったので、上杉・伊達あたりはどちらも厄介ですが、とにかく徳川の抑えになそうなどちらかをキープしたい。で結果的に上杉はキープした。みたいな… こんな予想はいかがでしょうか?

azuki-7
質問者

お礼

前田利家が柴田勝家を裏切ったのは親友の秀吉に味方するためですよ? さらに長浜城下では屋敷が隣どおしだしお互いの婚礼では仲人を務めた同士の間柄利家が豊臣を裏切る要素はない さらに死に際しては長男利長に本国を任せ 次男利政に大阪で秀頼を守るように命じてます 裏切る意思は前田利家には無かったでしょう 関ヶ原では結果東軍ですが 家康が加賀討伐をちらつかせ 人質の母の身を案じれば仕方の無いことです 宇喜多は裏切ることはまずない でなければわざわざ養子にまでしたり豪姫を嫁がせたりしないでしょう 毛利は確かに信長の中国攻めで秀吉が計略を担当した相手ですから裏切る要因は高かったかもですね ただ小早川は秀吉が退却したとき追撃しないように輝元を戒めてます それに感謝しての大老就任でしょうね 上杉はやっぱり東国で一番裏切る可能性が低い大名だからです 家臣の直江兼続の存在は大きいでしょうね 彼は野心はないし 真田幸村とも友人です 何より前田慶次郎の親友ですからね 慶次郎は父の危機を救った上杉景勝に感謝していました それと前田利家とのつながりなどさまざまな要素を見た結果一番安全と判断したのでしょう 伊達政宗などは危なすぎですからね

回答No.1

小早川隆景と毛利輝元は同時期に名を連ねていたはず。 また五大老という呼び名も当時にあったかどうかは微妙。 あえて言うなら小早川隆景の後釜が上杉景勝だったかと。

azuki-7
質問者

お礼

隆景は死んだので後任が輝元と思いましたが 違いましたかの?

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