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三中老

豊臣政権下での三奉行、五大老に比べて影が薄い三中老の役割とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。 また三中老である生駒、堀尾、中村のうち中村一氏は関ヶ原以前に病死していたとのことですが、その後欠員補充(交代)があったのでしょうか。(五大老は小早川隆景病没の際、上杉景勝が就任していますので)

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  • ベストアンサー
  • buchi-dog
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回答No.1

以前「三中老」について質問がありました。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2303778.html No1で私が回答しております。 「三中老なる地位は、歴史上あまりはっきりしたものではないようです。確実な文献でこれについて説明されているものは見た記憶がありません。どうやら「太閤記」のような通俗的な書物のみで言及されている「職制」のようです。」 ということで、「具体的なことは不明。本当に豊臣政権に三中老という職制があったかも不明」と考えておくべきのようです。

hirarno36
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。あくまでも「太閤記」でのお話の中での職制であるとのことですね。事実伝聞、史実書物などがあれば「中村一氏」死後は普通で考えると五大老のように他の人物を補充すると思います。(政治制度であるので) 余談ながら「山内一豊」は政治手腕は見劣りするのでもし三中老が空席になっても(秀吉が生きていたとしても)入れないでしょうね。 一応ウィキで調べましたが三奉行と五大老の取次ぎ役との説明がありあました。が、あまりにも有名でなさすぎて(笑)逆に疑問を持った次第です。 回答ありがとうございました。

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その他の回答 (2)

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.3

No.1の buchi-dog さんの答えにあるURLの中にに私が書いた 「少年寄衆 しょうとしよりしゅう」が当時の呼称です。 実権はなく秀吉の御伽衆のようなものだったようです。

hirarno36
質問者

お礼

三中老とは呼ばれていなかったのですね。(buchi-dog氏には私もかなりお世話になっています) しかも実権は無し。御伽衆ですか・・・話し相手ですね。 う~ん影はそうとう薄いようです。もっと折衝役として大変なのかと思っていましたが・・・ 回答ありがとうございました。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

通常、現代の自由民主党は、幹事長・総務会長・政調会長の三名を持って三役としています。が、現時点では、古賀選挙対策委員長を含めて四役としています。また、その時々で副総裁を設けたり、設けなかったり。なぜそうなるかというと、自民党を運営していく上で、実力者を揃えるために、三名の方がベターな時と四名にした方がベターな時と、その時々の政治情勢で変わるからです。 豊臣政権においても同様なことが言えます。 五人いなければならないから、五大老という制度があったのではなく、当時の政治状況で言えば、徳川家康を押さえるために、他の有力者との連名制とした、その総数がたまたま五名だったので五大老と後日名付けたと言うことになります。 三中老も半分外様的な、場合によっては敵対勢力となり得る可能性を持つ五大老と、豊臣家の家政的ないわば、子飼いから成長した政務執行者である五奉行との緩衝材として稼働した豊臣家と関連の深い生駒・堀尾・中村の三名の業務を後日、三中老と名付けただけの話です。 なので、その業務をできる人がいなければ任命というか、業務を執行しないというだけの話。 同様な職制と大名個人の業務内容の関係は、江戸幕府成立時の老中にも存在します。老中という職制があるのでなく、将軍の意を受けて業務を執行する人物を、後に老中となっていった。

hirarno36
質問者

お礼

生駒・堀尾・中村の三名は外様と子飼の中間に位置すると考えれば良いわけですね。生え抜きであるけれども関ヶ原では東軍ですね。 最初に(三中老の)名前ありき、では無く「後世三人の役割をそう呼んだ」ということですか。すごく三中老はあいまいな存在だったようですね。 しかしあの三奉行石田三成と五奉行の家康との折衝役ともなればある意味しんどかったかもしれませんね。 回答ありがとうございました。

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