- ベストアンサー
三中老
豊臣政権下での三奉行、五大老に比べて影が薄い三中老の役割とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。 また三中老である生駒、堀尾、中村のうち中村一氏は関ヶ原以前に病死していたとのことですが、その後欠員補充(交代)があったのでしょうか。(五大老は小早川隆景病没の際、上杉景勝が就任していますので)
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (2)
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
関連するQ&A
- 豊臣三中老に中村、堀尾はいるが山内一豊が入っていないのは何故?
大河ドラマ『功名が辻』を見ていてふと、思ったのですが、 山内一豊(伊エ門)中村一氏(孫平次)堀尾吉晴(茂助)の三者を同輩にように扱っています。 禄高は三者、先行したり、追い抜いたりしているようにドラマは描写しています。 最終的には関が原合戦後、三者は20万石クラス大名になりますが、山内一豊だけが三中老に入らず、生駒親正と中村、堀尾です。 何故、山内は三中老に入らなかったのでしょうか?晩年の秀吉に疎まれていたのでしょうか?それとも一豊がそれだけの器量が無い、凡庸だったのでしょうか? ドラマの一豊は不器用な男、純粋、正直者と言うように表現されていて、妻の千代の引き立て役、あたかも千代が知恵者というように見せています。 本当はどうなんでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 毛利両川、それぞれの選択
小早川隆景は秀吉に引き立てられ、毛利宗家とは別に領地を与えられますが、どうして隆景は敢えて本家とは別に領地を受け、半ば独立した大名となったのでしょうか? その後は五大老となっていますが、独立大名として扱われたり、豊臣政権の大老職を拝命することと、三本の矢ではないですが両川が毛利・輝元を補佐することがどうもしっくりこないのですが、隆景は吉川のように毛利の一家臣でいるよりは、大名として扱われたり、大老に就任する方が大毛利の為になると考えていたのでしょうか。 黒田如水が金吾中納言秀秋を毛利の養子にしようとしていると聞きつけて、本家の血筋を守る為に「ぜひ小早川家に」と所望して秀秋は小早川家の養子となったということですが、見方を変えればそれによって豊臣政権が続く限り豊臣連枝となった小早川家の家運も上昇するだろうとも言える気がします… 元春・隆景はどちらも好きな陪臣武将なのですが、秀吉を忌み嫌った元春とは対照的に、陪臣の身で豊臣政権の表舞台に出る道を選んだのだろうかと思いました。 この時期の隆景の選択についてご意見を伺えれば幸いです。
- ベストアンサー
- 歴史
- 豊臣政権、秀吉死後のIF
関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 関ヶ原 西軍勝利の場合
歴史の可能性を考えるとして質問。 関ヶ原で小早川・吉川の裏切りがなく、西軍が 勝利していた場合、戦後処理はどうなったでしょうか? 史実では、上杉・毛利減封、宇喜多取りつぶし、等 西軍が削られたうえで、関東平野、東海道、機内は 徳川親藩・譜代でほぼ固められ、他の地域にも 要所要所に親藩譜代を配置。有力外様は京から できるだけ、遠くに。どさくさまぎれに 豊臣家の領地が50万石になっていたそうですが。 西軍勝利の場合、上杉、毛利、五奉行西軍派に加増、 東軍についた武功派、徳川、前田は取りつぶし、減封などでしょうか? できるだけ、くわしい想像があるとうれしいです。
- ベストアンサー
- 歴史
- 江戸開府から大坂陣までの豊臣家
関が原の三年後、徳川家康は江戸幕府を創設し、豊臣家から完全に政権を奪う事になり、大坂陣まで両者の間には不穏な空気が流れるのですが、そんな中大坂城の豊臣秀頼を訪ねた大名は誰がいたのでしょうか? 小説や史実によりますと、加藤清正や浅野長政・幸長親子(福井の松平秀康?)の他は外様大名や池田,前田らの織田系大名はもとより、福島正則,堀尾吉晴,田中吉政ら秀吉子飼いの諸将が大坂城を訪れた記録がないのですが、実際には当時の加藤や浅野らを除き、大坂城を訪れた大名は一人もいなかったのでしょうか? 両加藤や福島ら豊臣系大名は幕府にとって目障りだったのか、取り潰されたり、大幅に減封されますが、同時に田中,堀尾,中村,小早川ら豊臣家に縁の深い大名も無嗣廃絶となっており、これも単なる偶然とは思えないのですが、実際はどうだったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
早速の回答ありがとうございます。あくまでも「太閤記」でのお話の中での職制であるとのことですね。事実伝聞、史実書物などがあれば「中村一氏」死後は普通で考えると五大老のように他の人物を補充すると思います。(政治制度であるので) 余談ながら「山内一豊」は政治手腕は見劣りするのでもし三中老が空席になっても(秀吉が生きていたとしても)入れないでしょうね。 一応ウィキで調べましたが三奉行と五大老の取次ぎ役との説明がありあました。が、あまりにも有名でなさすぎて(笑)逆に疑問を持った次第です。 回答ありがとうございました。