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小早川秀秋と家康の心理

関ヶ原の戦いのとき 中々寝返らない秀秋に対して家康は鉄砲を撃ち掛けました 普通だと 家康から鉄砲を撃たれたら怒って寝返りの約定を反故にして三成に付きそうな気がするんですが 家康もそうなる事を覚悟で鉄砲を撃ったのでしょうか? 結果はビビッて小早川は山を下って家康にとっては やれやれでしたが もし逆に それでキレて小早川が三成の方に行ってたら家康は負けていたと思います

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  • Saturn5
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回答No.1

>家康もそうなる事を覚悟で鉄砲を撃ったのでしょうか? それはそうだと思います。 ただ、その確率は非常に低いものであることを見切ったからそういう行動に出たのでしょう。 小早川秀秋はバカな子供と同じで、教え諭すよりも恫喝する方が手っ取り早いと思ったのでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます 秀秋は思った以上にアホな武将だったみたいですね

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