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小早川秀秋
いまいち史実に即してるかわかりませんが、関が原陣図を見れば小早川秀秋が東軍につけば東軍が、西軍につけば西軍が勝つ立場だったと思います。 しかももし家康本陣に突入してもし家康を討ち取れば大金星、そこまで行かなくても家康本陣を壊滅させかつ吉川毛利隊に自分が西軍につくから続くようにと伝令を送れば戦後の豊臣政権・毛利政権に大きな影響力が残り田舎大名では終らない枢要な立場を得た可能性があります。 野心があれば西軍についたほうが面白いと思うのですが、小早川秀秋にはそういった野心はなかったのでしょうか?
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>小早川秀秋が東軍につけば東軍が、西軍につけば西軍が勝つ立場だったと思います。 その通りですね。 明治時代の陸軍が作成した「関ヶ原布陣図」を見たフランス・イギリス陸軍将校は「この戦いは、西軍が勝った」と判断したと伝わっています。 それだけ、秀秋が布陣した場所は重要だったのでしようね。 >野心があれば西軍についたほうが面白いと思うのです 野心があれば、「キーパーソン」ですから「戦後の事」を考えたハズですよね。 が、秀秋はしなかった。 >小早川秀秋にはそういった野心はなかったのでしょうか? 野心は、無かったようですね。 高台寺関係資料・寧々の資料を見ると、関ヶ原開戦までに「既に、東軍につく」事を決めていた様です。 既に、「淀君・秀頼政権は、豊臣政権でない」と寧々は考えていますよね。 秀頼が誕生すると、直ぐに淀君に大阪城を明け渡しています。 寧々の一族は、既に「豊臣家は、既に秀吉とは関係ない」と考えていました。 ですから、誰の子種か分からない秀頼よりも「秀吉の養子になった、木下・杉原池の血縁者」を秀吉の子孫と考えたのでしようね。 秀秋は、寧々の甥っ子ですよね。 政治の事は、全て寧々と相談して行動しています。 ですから、関ヶ原開戦前には「東軍に味方する」事が決まっていた様です。 開戦前に、公に「東軍に味方する」と表明すれば「寧々・木下・杉原家の面々が淀君・秀頼軍から攻撃を受けます」 正史では「金吾は裏切者」となっていますが、「実際は計画通り」だったと思いますね。 ※金吾の裏切りは、徳川政権で「幕藩体制を守る為に、造られた話」です。 以上、表があれば裏がある歴史でした。^^; そうそう、SMAPの3名がジャニーズを辞めましたね。 キムタク中納言の、今後や如何に?
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- あずき なな(@azuki-7)
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小早川秀秋は秀吉から一時期 領地を没収されそうになったところを 家康に助けられたという恩がある それに 西軍は秀秋に関白を約束したが秀頼が存命である以上それは不可能 小早川家の実権は家老の稲葉と吉岡が握ってて秀秋は意見を言う事もできなかったと言います 多分寝返りもこの2人の家老の独断で決めたとするのが有力です
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ご回答ありがとうございました。
補足
うーんどうでしょう、家臣団という意味では豊臣派の家老もいたわけで、決して秀秋が稲葉吉岡に逆らえない状況とは考えがたいですが。
- ithi
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jkpawapuro さん、こんにちは。 朝鮮攻めの折の失敗で、大減封されるところだったのを家康に救われているようですし、彼の軍勢の中には徳川の家臣や、徳川に味方するようにと意見する家老もいたという事ですから、西軍よりも東軍になびくのは当然のことです。 小早川秀秋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B
お礼
ご回答ありがとうございました。
- lions-123
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>野心があれば西軍についたほうが面白いと思うのですが、小早川秀秋にはそういった野心はなかったのでしょうか? 歴史にifは意味ない(たら・れば論の類)と考えますし、人の深層心理&葛藤の変遷は後世の私たちが究極の所では測り知れない領域だと思います。 それは野心と言うよりは、優柔不断な性分からの逡巡・欲やプライドと小心恐怖の葛藤が周囲のお家存続への思惑や東西両軍を天秤に掛け高く売りつけようとする打算や欲望を持っており心は揺れ動いていた。 さらに秀吉の甥or養子であった血筋と中納言と言う肩書プライドがあり、心寄せる北政所の淀殿との軋轢や家康へのシンパシーにも感化され、毛利本家も小早川や吉川等の面々、家臣ブレーンも東西に与する両派両論があり日和見的な態度で時間を経過させていた。 家康にも光秀にも臣従するホンネで意識はなく、両軍に信用は薄く戦後の処遇の空手形ニンジンに目を奪われ、心は迷いリーダーシップを発揮する人望・胆力・説得力も無かった。 その為に目の前の合戦に旗幟を鮮明にし、家康の首を獲る&勝利を導く手柄を立て功名を欲するハングリーさが無かった。 結果、俗説によると家康の凋落で西軍に重要地形を任されながらも様子見していたが、最終的には東軍への寝返り決起を促す恫喝威嚇攻撃の姿勢が彼の決断を促した。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B
お礼
ご回答ありがとうございました。
- eroero4649
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伝えられる肖像画を見る限りは、絵師に悪意があるだろうと思いたくなる程ぽやーんとした頼りない若者って感じですものね。そんな胆力があるようには見えないですよな。
お礼
絹本着色小早川秀秋像って生前に書かれたものだったんですか? 高台院が後年用意させてあの絵を見ながら秀秋を弔ってたのかと思ってました。 ご回答ありがとうございました。
- tzd78886
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あの陣営その物が嘘(戦記物の中で作り上げた話)だったという説もあるくらいで、本当のことは分からないでしょうね。結局は仮定の積み重ねになってしまいますから。
お礼
>高台寺関係資料・寧々の資料を見ると、関ヶ原開戦までに「既に、東軍につく」事を決めていた様です。 うーんそれは戦時のこと、旗色を鮮明にするその瞬間まで東軍には東軍に味方する旨、西軍には西軍に見方する旨の資料が残って当然には思います。 >野心があれば、「キーパーソン」ですから「戦後の事」を考えたハズですよね。が、秀秋はしなかった。 まあ現状ではこれが全てって感じなんでしょうかね。小早川秀秋って直筆資料や自分の近しいところから出た資料がほとんどないみたいですね。 家臣団も思い通りにならず徳川派と豊臣派に割れる現状ではそうなってしまうのかな? ご回答ありがとうございました。