関ヶ原の合戦での毛利秀秋の布陣について

このQ&Aのポイント
  • 関ヶ原の合戦での毛利秀秋の布陣について考えてみました。
  • 毛利秀秋の鶴翼の陣に不満があります。
  • 秀秋の布陣についての考察や疑問点がありますので、ご意見をお聞かせください。
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関ヶ原の合戦での毛利秀秋の布陣について

関ヶ原の合戦での毛利秀秋の布陣について 知っている人には、なんとばかげた事を質問するのかと思われてしまうかもしれませんが、恥を忍んで質問いたします。 ウィキで、関ヶ原の合戦についての記述を読みました。毛利秀秋は、東軍に付くかもしれないしれない事は三成自身も分かっていたとの記述がありました。そのため、三成自身も秀秋に対してはかなりの有利な条件を提示していたとありました。そのような、危険因子を鶴翼の陣での要の場所への布陣を許した事に納得がいきませんでした。不安因子であれば、あのような要所を任せず、他の武将に布陣させるべきではないかと疑問が湧いたのです。 あの布陣は、秀秋自身が敷いたものなのでしょうか。それなら、三成ももう少しましな布陣で闘った方が良かったのではないかと考えたのです。 例えば、毛利輝元を西軍側の主力戦闘要員として、鶴翼の陣のより要所の宇喜多秀家軍の近くに敷かせるであるとか。もしくは、秀秋軍と連合させて、秀秋の寝返りを防ぐと共に、寝返ったとしても秀秋と輝元を闘わせるとか。 輝元陣で、挟撃を狙っての布陣であるとも捉えられますが、秀秋が不安因子の状態では、無理のある布陣だったのではないかと。 三成は、秀秋が寝返る事はないとの確証の上での布陣だったのでしょうか。 歴史についての知識がまだまったくなく、見当違いの質問かもしれませんが、どなたか親切でご存知の方やご自分なりの見解のある方、ご教授願えれば幸いです。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • teccrt
  • ベストアンサー率35% (91/257)
回答No.3

小早川秀秋、のことですよね。 確か、司馬遼太郎の「関ヶ原」では、関ヶ原の戦いが起きるよりも数日前に、松尾山にもともと布陣していた西軍の小部隊を追い出して松尾山山頂に布陣したことになっていたと記憶しております。 関ヶ原前夜は、東軍の主力は上杉軍と対峙していたため、もともと徳川寄りで上杉討伐のために出兵した西国の諸大名は、このころ西軍が跋扈する関西地方におり、東軍につくことを明言しずらい状況下にありました。 また、両軍の動きを見極めようとする諸大名も多かったため、余計に立場をはっきりしない諸大名が多かったと思われます。 小早川秀秋もそのうちの一人だったので松尾山に布陣した彼は、建前上は西軍でありつつも、実際にはやる気も大して見せない割には西軍を追い出して要衝の松尾山を抑えると言った、真意を測りかねる行動に出ていて特に西軍にとっては不気味な存在だったと思います。 光成が、松尾山の小早川秀秋を鶴翼の陣の一角に据えるような配置にしたのも、戦闘に引き込んで西軍であることを既成事実化させたかった面もあると思います。 史実のように東軍が関ヶ原の中まで侵入せずに慎重に動いていれば、小早川軍は光成以下の西軍主力と、南宮山の毛利軍に挟まれて東軍と分断された位置に置かれるので、そうなれば東軍につくことを宣言するのは全滅覚悟のことでないとできないので、その覚悟ができないまま戦闘に引きずりこもうと光成は考えていたのではないかなあと思います。 ただ、徳川家康のが一枚上手でしたので、事前工作で毛利と小早川は東軍よりだと確信して西軍布陣のど真ん中までやってきたわけです。

toku4de-su
質問者

お礼

〉小早川秀秋のことですよね 仰る通り、断じて毛利秀秋なる謎の人物ではありません 恥ずかしい(>_<) なるほど、徳川方の「秀秋は寝返る」という確証の元、敢えて自殺行為の鶴翼の陣、奥深くまで突っ込んで行った(ウィキに鶴翼の陣は、誘いこんで包囲するための陣形とありました)徳川の度胸勝利という解釈でよろしいでしょうか それに加えて、深くまで行かないと、秀秋自身も寝返れない状況になってしまうのですね 深くまで突っ込むのは、秀秋への援軍とも捉えられるのですね これだけいるから、寝返れば完全勝利だと でも、もし秀秋が寝返らないで、鶴翼の陣が成功していたら、徳川にとって恐ろしい結末になっていましたね… 福島隊等は、完全に包囲されて、討ち死にしていた可能性もなきにしもあらずですね 歴史は面白い ありがとうございました

その他の回答 (2)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

秀秋は、事前に布陣していた他者を排除して松尾山に布陣した。 毛利輝元は、大坂城にいた。 戦後の優位な条件を出すということは、戦闘においても主要な戦闘場面に出すということになります。 東軍で言えば、福島 細川 黒田 などが最前線に出ているのは、戦後の恩賞を約束する行為でもあります。 秀秋に主要戦闘場面を提供しないことは、戦後の恩賞を保護にすると言外に明示することになり、秀秋の松尾山布陣を排除することはできない。

toku4de-su
質問者

お礼

なるほど お前を高く買ってる証拠に、鶴翼の陣の要につける と言う事で、なんとか寝返りを避けたいと言うのが、光成の思惑と言う解釈でよろしいでしょうか そうですね 私も迷ってる状態で、いざ戦闘の段になって、どうでもいい場所に陣取れ、って指示受けたら、すかさず「俺は必要とされてない」って思って寝返っちゃいます 面白いです ありがとうございました

  • Kules
  • ベストアンサー率47% (292/619)
回答No.1

ん~私も歴史はほとんど知らないんですが、 西軍から寝返ったのって小早川秀秋じゃありませんでしたっけ? 毛利秀秋はまた別の人物のようなのですが… 参考になれば幸いです。

toku4de-su
質問者

お礼

ご指摘ありがとうございます 仰る通り 毛利秀秋× 小早川秀秋○ です 恥ずかしい(>_<) ありがとうございました

toku4de-su
質問者

補足

回答者様の仰る通り 毛利秀秋× 小早川秀秋○ です よろしくお願いします

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