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毛利輝元の減封と石田三成の処刑

関ヶ原の戦いで敗れた西軍の石田三成や小西行長らは処刑されたのに、毛利輝元や上杉景勝は減封ですまされたのは何か意味があるのでしょうか。

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noname#113260
noname#113260

戦後処理を迅速に済ましたかったからです。 例えば島津家を取り潰そうとすれば数万の大軍を九州のはてに遠征させなくてはならなくなります。 島津家は九州では住民の支持もあり、嘗て豊臣秀吉が遠征したときも梃子摺りましたから、それより条件の悪い家康の遠征では苦戦が予想されます。 秀吉は身辺を固めて十分な準備をして遠征しましたが、家康は大阪城には豊臣家が残り、加藤清正や福島正則などの大名もいつ寝返るか判りませんから、そんな九州の果てまで行って足元をすくわれるよりと考えた結果です。 上杉や毛利も同様に取り潰せばかなりの犠牲が出ますので、減封に留め恩を売った方が得策と考えた政治的判断です。 上杉に対しては家康も難癖を付けて戦に引き込んだ後ろめたい気持ちもあったかも知れません。 宇喜田家が改易されたのは関ヶ原以前の段階で家中が瓦解しており、取り潰してしまっても抵抗が少ないと判断したためです。 宇喜田家の有力家臣は大阪城から千姫を救出したことで有名な坂崎直盛ですが、関ヶ原の前にこうした有力家臣と当主秀家との対立が深まり、戦でも本来の動きが出来なかったようです。 こうしてみますと、家康としては大阪城があるので戦後処理を迅速に進め、体勢を整えて豊臣家を滅ぼそうと考えたようです。 その為面倒な島津はそのまま、梃子摺りそうな毛利と上杉は減封、ほっといても潰れる宇喜田家は改易になったようです。

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質問者からのお礼

返信遅くなってすみません・・・m(_ _)m加藤清正や福島正則などは元々、豊臣勢だったからですね(@@)すべて家康の政治判断に基づいていたのですね!!全然気づきませんでした(^^;)ゞものすごく分かりやすい回答ありがとうございました!!!

その他の回答 (4)

  • 回答No.5

 徳川家康は、自分が天下をとるには、豊臣系の大名達が障害になるとわかっていたので、なんとかして豊臣系の勢力をそぐ必要があった。そのため、家康は豊臣系の中でも加藤・福島らの武断派と、石田三成らの奉行や小西行長らの文治派が反目しているのに目をつけた。、その中でも、石田三成は文治派の代表であり、徳川に対しても反抗的であったので、早々に家康は三成を始末したかったであろうが、それをすぐにしなかったのは、光成が文治派を核として、反徳川の勢力を集めて挙兵させるように仕向ける狙いが家康にあったからであろう。  家康の狙い通り、三成はこの役目を見事に果たし、文治派と宇喜田・上杉・毛利らの大老までも含めた西軍をつくりあげた。そして、家康の予想よりも恐らくは敵の数が多くなってしまい、焦ったであろうが、それでも何とか関ヶ原で短期間に西軍を破り、西軍の首脳であるとして三成や小西ら文治派を処断することで武断派の機嫌をとりつつも、自分にとっても用済みとなった三成らに消えてもらい、上杉や毛利は取り潰しはしないが、自分に対抗できるような力は持たせないようにした。  これによって、もはや徳川に匹敵できる気概とそれに見合った戦力をもった大名はいなくなり、豊臣系の勢力も半減し、家康の天下はほぼ定まることになった。つまり、この時点では、上杉や毛利は、その領土を縮小するだけでも、家康にとっては十分であったと私は考える。上杉らを力ずくで改易することは不可能ではないが、それに対する反抗も少なからずあるために、少ない労力(この場合は改易ではなく減封)で、最大の効果をとる(自分に逆らえないようにすること)という手法をとったのではなかろうか。

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質問者からのお礼

三成を消し、武断派の機嫌をとっていたのですね。そして、上杉らを減封したのは改易する必要はなかったんですね!!詳しい説明ありがとうございました(><)とてもわかりやすかったです。

  • 回答No.4
  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)

家康側の周到な配慮、策謀が感じられます。 他の回答者が指摘されているように、藩主が健在で臣下の信望も厚い毛利、上杉、島津は手を控え毛利、上杉は減封で力を削ぐことですませました。 また毛利については戦前の交渉で何も咎めないとの約束をしていましたから一応改易のジェスチャーをとりましたが、それを強行すれば非難をあびるので減封だけに止めたのです。 宇喜多は当主は年少、しかも豊臣系から入ったので家中の忠誠心も薄く団結していない上大藩なので改易したのです。 家康側は既に豊臣家の除去、天下統一を視野に入れ初めていてその布石を打ち始めていたのです。

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質問者からのお礼

毛利に対して何も咎めないという約束をしていたとは知りませんでした!!豊臣家を滅ぼすことと、天下統一を狙った政治判断だったんですね。とてもわかりやすい回答ありがとうございました!!

  • 回答No.2

1.毛利や上杉は直接東軍と戦闘したわけではない。(毛利軍は関が原まで出陣しましたが、吉川広家が戦闘に参加させなかった。) 2.毛利も上杉も豊臣家にとっては外様で、今後豊臣のためになんとかすることは考えにくい。事実、その後は徳川に擦り寄った。 3.取り潰しによる政局不安定を懸念した。

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質問者からのお礼

返信遅くなってすみません・・・m(_ _)m毛利や上杉は直接戦闘したのではないとはしりませんでした(@_@)#1の方もおっしゃているように、やはり政局不安定を懸念という面があるんですね!!! ありがとうございました!!!

  • 回答No.1
  • k99
  • ベストアンサー率47% (491/1025)

 改易するためのコストがかかりすぎるためではないでしょうか。これらをとり潰すためには抵抗を実力で排除する必要があります。  毛利家も上杉家も領土を切り取って大きくなった外様だけに、安定政権とは言えない徳川家康にとって、他で叛乱が起きるリスクを負ってまで討伐することは現実的ではなかったのでは。  また、これらの藩では藩主が健在で、指揮系統が温存されていたことでしょう(改易で最大領土の宇喜多秀家は敗走しています)。  また、それぞれにつぶさないで済む理由(毛利家の場合は吉川広家の歎願、上杉家の場合積極的な降伏) 参考に減封された大名の石高リストを挙げますが、やはりつぶされた家は所領が小さいようですね。

参考URL:
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/data_genpou.html

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質問者からのお礼

返信遅くなってすみません・・・m(_ _)m石高リストとても参考になりました。ありがとうございます。なるほど、家康の時代はまだ政権が安定していなかったこともあるんですね!!吉川広家の歎願や上杉家の積極的な降伏などは全く知りませんでした。とても分かりやすい回答ありがとうございました(><)

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