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関ヶ原 毛利恨み

関ヶ原の戦いで、西軍総大将となった毛利輝元は「積極的に参加せず」と認められ、戦後処理は、一旦据え置きとなるが、再度の調査で戦犯とされ、領地を山口のみに減らされた。 この時の恨みが、明治維新で晴らされたと、言われますが、毛利輝元は、事実、西軍についていたので、それは逆怨みでは無いでしょうか?。

  • 歴史
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回答No.1

毛利輝元自身 家康と密約で 「自分は三成に推されてやむなく大阪城に入るが 参陣はしないので本領安堵を確約の事」として家康も「それで良い」と言う確約を得ました(口約束ではなく起請文まで交わしてるので正式な約束となってるはず) しかし家康は戦後 吉川氏の不手際を理由に毛利の領地を減らしました 輝元は「約束が違う」とは思っても まさか密約を結んでたとは周りに言えず さらに敗軍の総大将なので家康の裁きを受け入れないといけない 輝元は「家康に裏切られた」と言う思いが強かったようです(吉川広家がアホな事しなければもう少しまともな結果になってたかも?) まぁ密約なんか結んで西軍についた輝元がアホと言えばそれまでですが 家康の本心を見抜けなかったわけですし 何ともなりませんね ですから逆恨みとはちょっと違うと思います 自業自得なのです 明治維新で恨みを晴らしたのは島津の方ですね(同じく関が原でのうらみがありまして)

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 毛利輝元も「密約」なんですね。 理解しました。家康の関ヶ原の書簡作戦は、200通にも及んだとの事。 「メール」や「DM」のような数ですね。三成は、それに負けたんですね。みんなに裏切られた。 それにしても、家康の追い詰め方は、天才的ですね。しかも、強弱が絶妙で、ちぐはぐがない。全ての対応に「意図」が反映されてるようです。 島津は、鹿児島ですよね。明治維新は、薩長同盟ですから、毛利もそうなんじゃないのですか?。 島津もなんか裏切られたのですか?。関ヶ原では、トカゲの尻尾切り方式で、逃げ切ったそうですね。

その他の回答 (5)

noname#228303
noname#228303
回答No.6

関ヶ原の後は、徳川家の反対勢力を小さくする意図があったと思います。 福島氏、加藤氏以外にも厳しい処分を出していたので、公平ではない意味ではやはりそうかと。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうごさいます。 脱線しますが、都市伝説で、秀頼、薩摩生存説もあるらしい。 倒幕で、薩長両方の恨みが晴らされたとなりますね。

回答No.5

お礼ありがとうございます 島津は関ヶ原では当初東軍加担だったのですが 伏見城の留守居を巡って行き違いがあり それで西軍になったんです 島津はそれが「家康が自分たちを騙した」と言う風に受け取って それが後々薩長の倒幕の契機となったってのは有名な話ですね

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 知りませんでした。 伏見城の留守番ですか。

回答No.4

その、関が原の恨みを明治維新ではらした、ってのは、明治ころに作られた創作話だと思うんですよ。なんかこう、できの悪い話に感じるんです。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 どのように出来が悪いでしょうか?。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.3

MONKEYMONKEY さん、こんばんは。 本領安堵という事でしたが、その後大阪城に無断で入ったことをとがめられました。実はこの防長2州も実は一族の吉川広家に上げるものでしたが、吉川が固辞して毛利輝元に改めて下げ渡されたという代物です。30万石ですが、毛利とはどうも不戦の密約があったとされています。しかしながら、この様ですから恨みがあってもおかしくないです。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

密約裏切り者の処遇は、なかなか難しいですよね。 だって、最初から味方のやつより高待遇だと、みんな、最初は味方しなくなるでしょ。 かといってセコイ条件だと、せっかく裏切ってもいいことない、となるし。 携帯の「乗り換え」か「継続」の待遇違いにソックリ。

  • kaxuma119
  • ベストアンサー率29% (108/363)
回答No.2

質問者の言う通り『西軍総大将となった毛利輝元は「積極的に参加せず」と認められ、戦後処理は、一旦据え置きとなるが、再度の調査で戦犯とされ、領地を山口のみに減らされた』のは史実です. なぜ積極的に参加しなかったかは,毛利一族の中で吉川広家が東軍に内通し,毛利本家の戦闘参加を邪魔したからです.関が原には吉川広家,毛利輝元の養嗣子秀元と安国寺恵瓊とが参戦しました.この三者は家康本陣を背後から襲えるところに陣取っていたのに,吉川広家が押しとどめました. 西軍の最大の裏切り者の小早川秀秋も養子とはいえ,毛利の一族です. 広家は三成や恵瓊が輝元を総大将に担いだとすることで徳川と話をまとめるつもりでした.ところが西軍の連判状に輝元の花押が見つかり,主体的に総大将を務めていたことが露見してしまいました. そこで徳川は輝元を戦犯として処分しようとしましたが,広家が「輝元が徳川に反逆するようなことがあれば輝元の首を取って差し出す覚悟」とまで書いた起請文までも提出し領地をへらすことで話をまとめました. こんな経緯があるので,長州藩には徳川の調略にのってしまった悔しさと,関が原は毛利が分裂せずに参戦していれば東軍を粉砕できたという無念がずっと溜まっていたといわれています.

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうすると、「徳川に騙された」というよりも、「力を発揮できなかった」後悔があり、それが、積年の思いとしてあったという事ですね。

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