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関ヶ原の戦いについて
関ヶ原で徳川方の東軍と石田方の西軍が戦い、東軍が勝ちましたが、戦いの分岐点になったのは小早川軍の寝返りにあったと歴史は記述しています。 小早川の寝返りは東西両軍から疑いを持たれ、ギリギリまで決断を逡巡したと聞いています。結果的に徳川鉄砲隊の威嚇射撃を受けて東軍に内通しました。 早くから小早川に疑いを持っていた西軍大谷吉継はこれに備えて準備をしていたと聞きますが、配下の脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠隊が小早川に呼応し寝返ったのが彼の計算外と聞きます。 何故、この4隊は裏切ったのでしょうか?事前に小早川、毛利(吉川)徳川、黒田等と話ができていたのでしょうか?誰がこれらの隊を工作したのでしょうか? それとも偶然の行動だったのでしょうか?数万の兵士が戦いの中で4隊が乱れぬ一致行動を取っていたのですから、事前に話は出来ているはずです。 戦後、脇坂、朽木はそのまま徳川の世に生きましたが、赤座、小川は領地没収、改易されたとか本で読みました。 この処遇の差は何だったのでしょうか?
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脇坂が裏切る前、大谷部隊は小早川部隊に落ち着いて応戦し、互角の戦いをしていたと言われています。大谷吉継自体は10万石程度の小大名ですが、他の隊を合わせて指揮していたので、大谷部隊としての兵力は小早川部隊と大差なかったと思われます。 この時に、大谷部隊の一部であった脇坂隊が裏切った結果、大谷部隊は側面・背面を突かれる結果となり総崩れになりました。この時に、脇坂隊と一緒に戦っていた朽木・赤座・小川隊は、「脇坂と一緒に裏切るか」か「大谷と一緒に死ぬか」の二者択一を迫られました。 小大名とは言え歴戦の戦国武将である朽木他の三大名は、「脇坂が裏切ったら大谷部隊がどうなるか」は瞬時に判断がついたはずです。仮に「脇坂だけが裏切って、朽木・赤座・小川隊が裏切らなかった」としても、脇坂隊に側面を突かれた大谷部隊は、もはや正面の小早川部隊とまともに戦うことは出来ません。この場合、朽木・赤座・小川にとって、脇坂と一緒に裏切る以外の合理的選択肢はなかったといえましょう。 上記のような経緯で、「脇坂が裏切り、ワンタイミング置いて朽木・赤座・小川隊が自発的に裏切り、大谷部隊崩壊」となったとされています。
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- akiradesumasu
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学研で発行された歴史群像シリーズ4 (関ヶ原の戦い)雑誌コード62533-98の中では4将の中で脇坂だけは事前に家康に内応していたと書いてあります。他の朽木、赤座、小川の3将は藤堂高虎を通して内応の約束していたと書いてあります。やはり裏切るのなら直接相手のボスに意思表示した方が良いのですかね。秀吉が死んだ後は藤堂高虎はなりふり構わず家康の家来ごとく振舞ってますがしょせん家康にとっては、外様大名ですから3将が裏切ったのは、高虎のおかげと彼だけ家康から評価されたのかしれません。家康にとってこの戦いのあとは、なるべく外様大名は潰すか、無害な存在にしておきたい。また一度裏切った物は今度は家康を裏切るのではないか。領地の近くの有力大大名が家康に叛旗をひるがえしたらそのまま家康に弓を引きそうですね。まだこの段階では豊臣は残ってますよね。司馬遼太郎作(関ヶ原)は参考になりました。また面白かったです。4将以外の大名のその後も興味シンシンです。
- 6dou_rinne
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これらのうち脇坂は東軍に属していた藤堂と親しかったことから、もともと内応するような話がついていたといわれています。 しかし他の3人はもともとそんなつもりはなかったのでしょうが大部隊である小早川勢が裏切った以上、同調しなければ壊滅するしかなく、やむを得ず裏切ったようです。 脇坂にしても単独で裏切れば、他の部隊につぶされてしまうので小早川の裏切りは渡りに船でした。 戦後、脇坂は加増されますが、朽木は減封(のちに本領安堵)、他の二人は改易となりましたが、朽木と他の二人の差は朽木が名族であったことが多少とも考慮されたのではないでしょうか。