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関ヶ原の戦いの時の吉川広家の考えについて

この方面にお詳しい方にお聞きします。 私には関ヶ原の戦いにおいて吉川広家の行動がとても不可思議に思えます。彼は実質的な毛利家の総指揮官でした。さすがに戦上手の元春の子ですから無能であったわけはありませんでしょう。だから、あのまま攻め下れば、西軍の勝利は確実でした。わざわざそれをしないで、毛利家の戦後の処分は本領安堵かと思えば、過酷なものでしたから、私には彼の考えがわかりません。安国時恵瓊との仲の悪さから徳川方に寝返ったのでしょうか? 彼の考えについてお答えください。宜しくお願い致します。

  • ithi
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  • izuhara
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回答No.6

俗説はさておき、関ヶ原までに至る政治情勢の変遷を検証した光成準治『関ヶ原前夜』(NHKブックス)によりますと、 ・広家は、伏見城攻略に西軍が苦戦していたため先行きに不安を感じていた。 ・広家は、輝元と家康との講和交渉に関与していた。 ・関ヶ原前日の家康方からの起請文の宛先は広家だけでなく輝元重臣の福原広俊も記載されており、輝元に無断での戦闘不参加とは考えがたい。 ・近江・美濃・伊勢方面で苦戦している状況で輝元が、万一西軍が敗戦した場合に備えて広俊に命じて広家に家康方との交渉を行わせていた。 ・関ヶ原敗戦後、毛利軍は東軍から攻撃を受けていない。 ・関ヶ原後の処分は、輝元の大坂退去まで本領安堵だったが、大坂退去後に防長2国に変更された(起請文に家康は署名せず、最初から本領安堵する気はなかった)。 とこのように考察されています。広家の意志というより輝元のあいまいな姿勢が原因のようです。 なお、広家が自分への防長2国の代わりに毛利家への安堵を要望したという文書は後世の偽作である可能性が指摘されています。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、輝元は安国時恵瓊と広家の二人の対立からの不安というより、自分自身の決心がつかなかったというわけですね。 広家が自分への防長2国の代わりに毛利家への安堵を要望したという文書は後世の偽作である可能性が指摘されたということは初耳でした。ただ、もし頂戴していたら、彼は人でなし扱いでしたね。

その他の回答 (10)

  • buchi-dog
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回答No.11

No.9/No.10です。 No.8の方ヘのお礼の 「どうでしょうか?毛利隊他3万の兵力が山を下り、家康の後方から迫るのですから、相当のダメージが池田隊他1万と家康本隊2万に加わるのですから、この段階で逃走できるかはかなりの幸運がない限り、だめでしょう。おそらく、そうなると小早川秀秋も裏切らないでしょうね。」 について述べておきます。 戦場が、もっと広く、平地であり、すぐそばに徳川軍が逃げ込める堅固な城があるような場合であれば、三方ヶ原の合戦で敗北した徳川軍が、浜松城という堅固な城まで逃げ延びたようなことが可能でしょう。 しかし、関ヶ原は「南北が山である、東西に細長い盆地」です。 添付の画像は関ヶ原の戦場の航空写真です。東西南北は、地図と同じです。 * 南宮山は、写真の右側の、平地より南の山。 * 家康の本陣は、真ん中の「1」という矢印のあたりでしょうか。 * 家康の左側の左側の平地に、東軍の主力部隊が布陣し、そのさらに左の、緑色(山)の部分に野戦築城された西軍主力の陣地を攻めていた。 * その下の緑色(山)が、小早川秀秋が布陣していた松尾山でしょう。 * 関ヶ原からの出口は、 (1) 西軍主力がいる左側(近江の方向) (2) 毛利部隊他が南宮山を降りて東軍を背後から突いている右側(美濃の方向) (3) 史実では島津部隊が「敵中突破」をして脱出した伊勢街道(真ん中の平地から、右下に向かって伸びている道筋) の3つしかない。 といったことがお分かりになるでしょう。 毛利部隊と長曾我部・長束・安国寺の諸部隊が一斉に戦闘加入して東軍の後衛を攻撃した場合、No.9で回答したように、後衛部隊より明らかに優勢なので、後衛部隊は壊乱するか関ヶ原の奥に押し込まれるでしょう。 この様子は、関ヶ原の西側(航空写真では左側)で戦っている西軍主力と東軍主力(福島正則隊など)にも直ちに分かるでしょう。 「南宮山の毛利部隊他が戦闘加入して、東軍の後衛が壊乱し、東軍が包囲された。周りは山で逃げ道がない」 という絶望的な状況が分かれば、朝からの戦闘で消耗している東軍主力は壊乱するでしょう。「包囲されて退路を断たれる」というのはそのくらい恐ろしいことです。 もしかすると、この時点で西軍に寝返る部隊が出るかもしれません。史実の脇坂他の4人の小大名のような感じです。 西軍主力は、陣地を出て、壊乱した東軍主力を関ヶ原の中央、家康の本陣の方向に圧迫するでしょう。この時点で、東軍の損害は激増し、兵力はどんどん減って行きます。 この時点で、様子見をしていた小早川部隊は、「西軍」として戦闘加入し、壊乱した東軍主力、家康の旗本部隊に襲いかかるでしょう。 そうなると、関ヶ原の中央に向かって前進する大谷吉継部隊と併せて、小早川隊が、東軍の唯一の脱出路である伊勢街道を遮断します。 東軍のうち、家康の直率する3万の兵は無傷ですし、「備」を構成出来ないので攻撃はできませんが、守備には力を発揮します。この時点で、東軍の兵力は5万残っているでしょうか。 しかし、伊勢街道は大谷・小早川に塞がれ、美濃に下がる道は毛利他に塞がれ、近江に抜ける道は石田・島津・小西・宇喜多に塞がれていますから、逃げ道がありません。 この状態で、周囲を西軍全部に包囲され、背後が関ヶ原の北側の深山なのでは、いくら徳川の3万の旗本が無傷で精鋭でも、順番に討たれるしかありません。総大将の家康の逃げ場はどこにもありません。 私が家康であれば、「万策尽きた。ここで腹を切る」と諦めるしかないように思います。 No.9で、 「史実の家康が、小早川の裏切りで戦況が変わる前、本陣で不審な行動を取っていたことが記録されている」と回答しました。 歴戦の武将である家康は 「このまま小早川が寝返らず、南宮山の毛利他が戦闘加入して東軍の後背を突き、そこで小早川が『西軍側で』参戦したら、自分はここで腹を切るしかない」 ことが分かっていたのです。

ithi
質問者

お礼

やはり、確実だったですか。広家は実に惜しいことをしましたね。

  • buchi-dog
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回答No.10

No.9です。「吉川広家の考え」について。 笠谷和比古教授の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)」をベースに回答します。 毛利家の当主である毛利輝元は、信頼する安国寺恵瓊(毛利家の外交顧問と言うべき地位にありながら、豊臣家から伊予国に6万石の領地を「毛利家の領地とは別に」与えられた大名だった)の献策を採用して、西軍の総大将として大坂城に入城し、「公儀」である豊臣秀頼と淀殿に謁見して「豊臣家の官軍」となり、家康を弾劾する「内府ちかい(違い)の条々」に署名して諸大名に送りました。 関ヶ原の合戦の時点で、吉川広家は、毛利家の中で「反主流派」であったようです。 毛利家が、「西軍に味方するか、中立を守るか、いっそ家康側に立つか」という意志決定をする過程で、広家が影響力を持てた形跡は全くありません。 広家は、毛利輝元の叔父である吉川元春の跡を継いでおり、輝元のいとこであり、関ヶ原の合戦の時点で40を越えた壮年であったにも関わらず、毛利家の中での地位は「出雲富田城 約12万石を与えられる」に留まっており、官位は「侍従」でした。豊臣政権では、各大名やその家臣に江戸時代よりも高めの官位が与えられており、侍従の官位は、例えば小早川秀包や立花宗茂と同格で、それほど高いとは言えません。 関ヶ原では「広家の上官」だった毛利秀元が、広家より20歳も年下にも関わらず、もとは輝元の養嗣子だったこともあり、「参議」の官位を豊臣政権から受け、輝元からは周防一国(20万石と言います)を与えられ、毛利家のナンバーツーとして待遇されていた(朝鮮出兵で輝元の代理を務め、関ヶ原でも輝元の代理を務めている)ことを考えますと、広家は毛利家で 「自分は豊臣家からも毛利宗家からも正当な待遇を受けていない。自分の献策は輝元公に取り上げて貰えない」 と鬱屈した思いを持っていたことが想像出来ます。 広家は、徳川家康の下で「謀将」として働いていた黒田長政に密書を送り、 「今回の一件は全て安国寺の謀計によるもので、輝元は事情が良く分からずに安国寺に籠絡された」 という形で家康の了解をとりつけ、毛利家の安泰を図ろうとしていました。 また、毛利家の重臣で、関ヶ原にも参陣している福原広俊も、広家と同じく東軍に内通していました。 東軍からは、 (1) 黒田長政が広家に密書を送った。 「今回の件は、安国寺恵瓊のしわざであり、輝元は騙された立場であることを家康公が了解した。毛利家の保全については、自分、黒田長政がよろしく取りはからうので、輝元への説得を引き続きお願いする。大事なことだが、家康公が軍事的に勝利を収める前に、毛利家が明確な態度表明をすることが肝心である」 (2) 関ヶ原の合戦(9月15日)の前日の9月14日に、吉川広家と福原広俊から、東軍に、毛利家不参戦の証として人質が差し出され、家康の重臣である井伊直政と本多忠勝が「輝元の身の安全、毛利家の領土保全」を約する起請文を吉川・福原に提出しました。 ※ 東軍と西軍が、美濃でにらみ合っている状態で、どうやって吉川と福原が人質を出したのか、毛利部隊を率いる毛利秀元に気づかれなかったのか不思議なのですが、この辺の詳細は不明です。 と、「毛利輝元は騙されただけ」という前提で「毛利家がこれ以上戦わなければ、東軍が勝利しても毛利家を咎めない」という約束が「一応」成立していた訳です。 吉川広家が、徳川家康から買収されていた訳でも、毛利宗家に取って代わろうと野心を抱いて徳川と組んだ訳でもありません。広家は広家なりに「こうするのが、毛利宗家に対する忠義である」と大まじめに考えていたのが、後世から見ると哀れです。 === 先の回答で示したように、広家は毛利部隊の戦闘加入を最後まで阻止し、関ヶ原の西軍は壊滅しました。毛利部隊は無傷で大坂城に戻り、吉川広家からことの次第を聞いたであろう毛利輝元は大坂城を東軍に明け渡し「東軍への恭順」の姿勢を取りました。 この段階で、毛利家の戦後処分は「家康の胸先三寸」となっております。 家康が 「黒田長政どの他から、毛利殿は騙されていただけと聞いていた。実際は、『内府ちかいの条々』に署名するなど、毛利殿は西軍の総大将として積極的に動いていたではないか。証拠は山とある。聞いていたことと違うので、毛利殿は改易とする」 と表明した訳ですが、 * 広家が言っていた「全ては安国寺恵瓊のはかりごとで、輝元は騙されいただけ」がタテマエに過ぎず、輝元が西軍総大将として積極的に動いていたのはまぎれもない事実である。広家の言っていたことが事実と違う、と指摘されれば反論できない。 * 家康から、「輝元の身の安全、毛利家の領土保全」を約する書状や起請文は受けていない。 * この段階では、いくら毛利家が中国地方で120万石の領地と無傷の兵を持つと言っても、豊臣家の執政に復帰した家康が毛利討伐を命じ、近畿・四国・北九州の三方面から攻撃されたら毛利家の滅亡は免れない。 (九州の南端にあり、攻撃が容易でない島津家とは状況が全く違います) ということで、毛利も吉川もどうすることも出来ない状況でした。 10月になって 「毛利輝元は改易し、領地を没収する。吉川広家には、内応の功により、毛利家の旧領の中から2カ国を与える」 と、徳川方から一方的に通知されました。 進退窮まった吉川広家は、10月2日付の、福島正則・黒田長政に宛てた誓詞(現存)で 「自分に与えられる2カ国を、主の輝元にお与え下さい」 と哀願し、これが聞き届けられて、毛利家は周防・長門の二国を与えられて存続し、輝元は隠居・入道して、嫡男の秀就が毛利家を継ぐ結末となりました。 === 結論としては 「吉川広家は、毛利家のために一番良いと思って徳川に内通したのだが、家康の方が一枚も二枚も上手だった。家康という一流の策士の手のひらで、広家という三流の策士が踊らされ、徳川に天下を献上する結果となった」 と言うことかと思います。 私利私欲に走った形跡が一切ない広家には、誠に気の毒ですが・・・

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 広家には実戦での駆け引きはできても、外交調略の能力はやはりないのですね。だから、家康に騙されたのですね。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.9

No.8の方が、笠谷和比古教授の著書「関ヶ原合戦-家康の戦略と幕藩体制」(講談社選書メチエで1994年に刊行、講談社学術文庫で2008年に再刊。)に言及しておられますが、笠谷和比古教授のより新しい著書 「関ヶ原合戦と大坂の陣」 (戦争の日本史 17) 吉川弘文館 http://www.amazon.co.jp/dp/4642063277/ で、質問者さんが指摘なさる「(毛利軍が)あのまま攻め下れば、西軍の勝利は確実でした」について詳述しておられます。 同書の131頁の「南宮山毛利隊の動向」というくだりから、140頁まで、関ヶ原の毛利部隊について述べられていますが、 (1) 南宮山に布陣する毛利部隊の総指揮官は毛利秀元であり、吉川広家は先鋒だった。(質問者さんの言われる「広家は実質的な毛利家の総指揮官でした」は、笠谷教授の見解とは異なりますし、私の見解とも異なります) (2) 笠谷教授は、史料を検討し、徳川家康の内通工作は、秀元の麾下の吉川広家と福原弘俊にたいしてのみ行われ、秀元は何も知らなかったと判断している。これは、関ヶ原の合戦の前後の秀元の行動とも一致する。 (3) 当時の軍法により、先鋒指揮官(先手の大将)に与えられた権限は「絶対」であり、同僚の武将がこれを冒せば、大手柄を立てたとしても死刑を含む厳罰に処された。 (4) さらに、開戦攻撃にについての先鋒指揮官の裁量権も限りないもので、総大将は先鋒指揮官の判断を尊重せねばならなかった。 (5) 総大将である秀元が先鋒指揮官の広家に出撃を命じ、付近に布陣する長曾我部盛親、長束正家からも広家に出撃すべき旨の申し入れがなされたが、東軍に内通している広家はことごとく無視し、待機を続けた。 (6) 関ヶ原の合戦で、同じことが小早川秀秋の部隊で発生していた。史実では、総大将である小早川秀秋は、かなり早くに先鋒指揮官の平岡頼勝・稲葉正成の両名に裏切り出撃(西軍の大谷吉継部隊への攻撃)を命じたが、両名が「未だ戦機にあらず」と判断して秀秋の命令を拒否し、小早川部隊全体が松尾山に待機する状態だった。 (7) 関ヶ原は東西に細長い盆地であり、その西端の高地に夜戦築城した石田・島津・小西・宇喜多・大谷の各部隊に対して、東軍の主力である福島正則などの部隊が朝から攻撃を繰り返していたが、昼の時点で、西軍の防衛ラインを突破出来ない状況だった。家康は、3万の旗本と共に、本陣を関ヶ原の奥深く(桃配山)に進めていた。 (8) 家康の率いる3万の旗本は、攻撃のための「備」を形成できないため、防御しかできない。予備兵力として東軍主力部隊に加勢させることは出来ず、家康のもくろみ(東軍主力部隊の攻撃で、関ヶ原西端の西軍防御ラインを容易に突破出来る)が成就せず、手詰まりの状態にあった。 ※ 「備」の概念については、No.8の方が紹介されている笠谷教授の著書 「関ヶ原合戦-家康の戦略と幕藩体制」(講談社学術文庫) http://www.amazon.co.jp/dp/4061598589/ で詳述されています。 (9) 古今東西の戦史で、敵の包囲に陥った部隊は壊滅を逃れられないのが常だが、関ヶ原の東軍は、合戦当日の昼を過ぎても西軍防御ラインを突破出来ない時点で、毛利・長曾我部・長束・安国寺らの部隊に退路を断たれて包囲殲滅される危機にあった。 (10) 歴戦の武将である家康が、桃配山の本陣において 「味方の旗指物に刀で切りつける」 「小せがれめに謀られた、とつぶやく」 「右手の指をしきりに噛む」← 危地に追い込まれた時の家康の癖だった。 と、不審な行動をしていたことが記録されている。 (11) 当時も後世も、「東軍が包囲殲滅の危機にあった」ことは語られないが、他ならぬ徳川家康が、その危険を肌身で感じていたと判定出来る。 (12) 4で述べた「総大将であっても、先鋒指揮官の判断は尊重しなければならない」という軍法は、先鋒指揮官が敵と内通していると明らかになれば失効する。笠谷教授が見る所、小早川部隊の西軍裏切りがもう少し遅れれば、毛利秀元は吉川広家の裏切りを確信し、吉川隊を無視しての前進を命じただろう。そうなれば、長曾我部・長束・安国寺の諸隊も戦闘加入し、東軍の後衛を務める池田輝政他1万5千の部隊を攻撃する。この方面では西軍の南宮山部隊の方が優勢なため、東軍の後衛は突破され、東軍は包囲殲滅されただろう。 長々と述べましたが、 「東軍の主力が西軍の防御ラインを突破出来ず、松尾山の小早川秀秋部隊が動かない状況(史実の昼頃まで)に、毛利部隊が、総大将の秀元の命令通りに戦闘加入すれば、西軍の勝利は確実だった」 ことは確かです。 長くなりましたので、ここでいったん切ります。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 西軍の勝利はやはり確実だったのですね。 秀元はまだ20代でしたが、広家はもう40代です。そこから秀元は名代で、彼が実質的な司令官かと思っていましたが、実戦の経験や率いているのは毛利家でも最強の吉川隊ですから先鋒隊長ですか。彼らしい役どころです。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.8

お礼に対して。 講談社学術文庫「関ヶ原の戦い」笠谷和比古先生によると、 秀忠軍は一家で「備」を構成できる大身の家臣中心の徳川攻撃軍 家康軍は旗本など小身の家臣中心の徳川防衛軍 でありました。 ですから、私は、負けても、防衛軍が家康を守って逃走できるものとして想定しています。 質問者さんの読んだ本の著者は、割と新しい研究である、「備」について理解できている人なのでしょうか?

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 どうでしょうか?毛利隊他3万の兵力が山を下り、家康の後方から迫るのですから、相当のダメージが池田隊他1万と家康本隊2万に加わるのですから、この段階で逃走できるかはかなりの幸運がない限り、だめでしょう。おそらく、そうなると小早川秀秋も裏切らないでしょうね。 それに秀忠隊3万8千は真田昌幸にさんざん攻撃されて損害を出しています。万全の体制ではありません。まして、予定に遅れているので強行軍中です。体力が持ちますかどうか…

  • isoken
  • ベストアンサー率32% (595/1819)
回答No.7

>関ヶ原の戦いの時の吉川広家の考えについて 御指摘の通り、戦が最高潮に達し、西軍が押し気味に展開していた時点に於いて、仮に南宮山から無傷の毛利一族3万の精鋭が駆け下っていたとするならば、勝敗の帰趨は火を見るよりも明らかでした、恐らく家康の首は風前の灯であったろうと推察されます。 では何故吉川広家はあのような行動に出たのか、独断と偏見に依り以下申し上げます。 (1)関ヶ原に於いて会戦した殆んどの武将が、僅か1日の戦いで天下の帰趨がほぼ決するとは思っていなかったでしょう。 広家としても当然の如くそう感じていた、つまり関ヶ原の一戦で敗北しようとも、彼我の総合力比較の観点から、徳川家の最終的な勝利を確信していた事。 (2)(1)よりももう一歩積極的な姿勢として、毛利家の加担で東軍に勝利させる事で、関ヶ原戦後の大功を担い、ひいては自身が毛利一族の中でのヘゲモニーを握ろうとする意図。 (3)質問者様の御指摘通り、毛利一族の公子として、毛利秀元他の公子ほどに重用されなかったという不遇感、そしてその点に起因する安国時恵瓊並びに石田光成に対する私怨。 恐らく(1)~(3)の複合系というのが、正鵠を得た回答であると思われますが、一方に於いて、あの場面での吉川広家の行動並びに心象風景を推し量るに、(3)の仮説が最も説得力を有すると感じるのも、また正直なところです。 以下余談になりますが、吉川広家としては、織田・毛利の講和条約締結直後に本能寺の変を知りながら、吉川元春他の追撃論を抑えて苦境に陥っていた豊臣秀吉に恩を売り、或る意味天下を取らしめ、且つ毛利一族をしてその後の興隆に導いた、敬愛する叔父・小早川隆景の故事に倣ったとの推測は、恐らく的外れなものではないでしょう。 但し如何に毛利の一武将である自分が功を立てようとも、御輿とはいえ西軍の総大将に押された輝元の罪は免れ得ない、この点に関する想像力が全く欠如しておりました。 即ち天下の大才と称された隆景との明確な相違は、戦場での駆け引きはともかく、広家には天下の在りようを推し量る大局観が欠けていた、その一点に尽きるのでしょうね。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 1.確かに一日では勝てないでしょう。西軍にとって家康の部隊は徳川軍主体ではなく、寄せ集めでした。しかし、秀忠には徳川軍の主力とはいえ、実戦経験の豊富な西軍に比べ、戦下手の秀忠では勝てないでしょう。秀康軍は1万人足らずでしょうからもう勝負になりません。 2.これをやったら、陰謀家ですよ。人から人でなし呼ばわりされますよ。たぶん小早川秀秋と同類扱いです。 3.毛利秀元はもともと輝元の跡継ぎ候補でした。実際、彼はとても有能であり、小さい秀就の補佐を務めるほどでした。 だから、同じ従弟でも外の吉川家にいる彼とは格が違うのです。 即ち天下の大才と称された隆景との明確な相違は、戦場での駆け引きはともかく、広家には天下の在りようを推し量る大局観が欠けていたというのは同感です。 結局、家康には謀られたわけですから。

回答No.5

そもそも広家が寝返って西についても 毛利の大将並びに西軍の総大将は大叔父の輝元ですから広家に恩賞の発言権限はない 「お前なんで最初家康に味方したんや?」と輝元に責められば反論は出来ないでしょう 輝元は広家を元々侮れない奴と警戒していたので難癖付けて吉川家をつぶしにかかったかもしれません だからこそ広家も本家の毛利には付かず家康と内通したのでしょう ちなみに戦の能力は亡き兄元長のほうが上だったようです 父元春も元長が死んだとき「これで吉川の家も終わり、広家では当家はいずれ滅亡となろう…」と漏らしていました 広家は家康に騙されたでしょ 輝元が西についても広家が内通で徳川について戦う もしくは動かずに 毛利の小隊を食い止めれば毛利家はお咎め無しで広家も加増する という口車に乗せられてしまった おそらく父の元春ならそれが罠だと分かったでしょう そこを見抜けなかった時点で広家は愚将です 西軍の軍勢は7万ともいわれますが 実質戦ったのは 宇喜多 島 小西 島津 石田 大谷の1万5000程度です 仮に小早川が寝返らず 広家が山を降りて西軍に付いてても勝てたかは微妙です

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 本当に広家は家康の謀略に乗ってしまいましたね。安国時と違い、これが彼の能力の限界なのでしょう。ただ、西軍の実際の戦闘参加人数は兵力算定によれば、3万人程度と思われ、貴方の算定の倍はあると思われます。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.4

確かに、西軍が「戦闘」に勝ちます。 しかし、これで東軍側大名が消滅するとは限りません。 特に徳川家は、もう一つの主力の秀忠軍と関東の秀康軍は健在であり、 関東平野という、経済的自立のバックボーンも健在。 さらに、徳川家家臣団は、長い時間をかけて自ら成長してきた集団であり、一度の敗北で崩壊するような弱い集団ではありません。 吉川広家の目算としては、東軍が勝てば、 毛利家は拡大できないが、平和が訪れて生き残れる。 毛利家内の自分の政敵である反徳川派や石田派を一掃できる。 という目算があったのでしょう。 実際に目算のすべてが当たった訳ではありませんが。 もし、西軍を勝たしてしまえば、 毛利家内で、反徳川派や石田派が増大し、 徳川家も一度の敗北で消滅するはずも無く、 西軍の今後の結束力もアテにならないし、 数年、あるいはもっとの乱世が訪れるでしょうし。 すると、毛利家が拡大できるチャンスも無い事はないが、徳川家のリベンジも怖い。 毛利家には、元就以降は、強力なリーダーに欠ける、という致命的欠陥があるし。 安定志向の人間なら、東軍を勝たすのが普通でしょう。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 西軍にとって家康の部隊は徳川軍主体ではなく、寄せ集めでした。しかし、秀忠には徳川軍の主力とはいえ、実戦経験の豊富な西軍に比べ、戦下手の秀忠では勝てないでしょう。秀康軍は1万人足らずでしょうからもう勝負になりません。 たぶん、一時は戦国時代になるかも知れませんが、安定するのに大した時間はかからないでしょう。 結局、輝元の不安から広家の能力を鈍らせたのでしょうか?

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

両天秤の合理的選択 戦後結果に関しては結果論であるので検証する必要はないと思う。 広家の行動の合理性を考えるならば、彼が生まれたからの政治状況と、毛利家の立ち位置 1561年生まれる 1570年初陣 1582年本能寺の変、信長死去(毛利家滅びそうになる直前) 1583年賎ヶ岳の戦い(毛利不参加) 1583年羽柴に人質 1584年小牧・長久手の戦い始まる(秀包(1567年生まれ)は参戦) 1584年沖田畷の戦い:島津が龍造寺を破る 1584年小牧・長久手の戦い終結(11月) 1585年四国攻め(羽柴・毛利合同軍) 1586年九州攻め(羽柴・毛利合同軍) 1587年吉川家当主に 1590年小田原征伐 1598年秀吉死去 1600年関が原 広家にとってそれまでの人生で毛利家および自身の最大の危機は1582年に本能寺の戦いがなければ毛利家が滅んでいただろうという体験であるかと思う。 1582年から1585年までの構図 信長の死去 光秀・秀吉・勝家・家康・信雄らの後継争い 最も関係性が強い秀吉に対して好意的中立策 小牧長久手の戦いが終わって、畿内での秀吉の圧倒的な存在感が出来上がってから、中国地方の関連領域で合同軍を構成し、毛利一党の支配権を広げた これが広家にとっての成功体験です。 有力なる第二勢力として友好的な中立策を取ることで、最大の利潤を得る 1598年からの構図 秀吉の死去 三成・家康らの後継争い 1582年からの構図と同じように見たのではないか? ちょうど父親の世代のとった政策を踏襲した。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 徳川家としては有力なる第二勢力としての存在を認めませんでした。唯一は同じ大老家でありながら、東軍に味方した前田家です。しかし、前田家ですら、存続がやっとという有様です。毛利家や上杉家といった第二勢力になる家は領地をできるだけ削減か除封するのが、望ましかったと思います。

  • PopoAmin
  • ベストアンサー率50% (70/138)
回答No.2

家康側も三成側も自分に味方してくれたら これこれの恩賞を用意しますよ~だからこっちにおいでよ~っと 口から出まかせの選挙公約みたいな空手形を乱発しています。 家康は過去、自分が約束を守る男だというイメージ戦略を展開して こういう一生一度の舞台に備えてきました。 「三河殿は律儀におわす。」という評判は 信長の要求に応じて息子と妻を殺し、 信玄相手に果然出撃して馬上脱糞するほどの大敗を喫し 越前からの撤退戦では命がけの殿を務め、 宿敵三成を暗殺者たちからかくまって保護したりなどして 築き上げてきたものです。 こういう「律儀」と信じられていた家康の約束が 戦後いとも簡単に反故にされるとは、流石の吉川広家も予測できなかったのかも しれません。 さらに石田三成は陰謀家であるとの評判もあったようです。 秀吉子飼いの加藤清正福島正則など朝鮮出陣組を中心に 反三成の動きも顕著でした。当然吉川の耳にも三成は陰謀癖があるといった 声は入っています。 関ヶ原にしたって三成の策略は用意周到ですよね。 関ヶ原は両軍の軍事行動の末、あの場所となったわけではありません。 三成が最初から関ヶ原を決戦場と決めて 笹尾山松尾山辺りには土塁をめぐらせ、相当規模の陣地化が進められていました。 決戦開始まで三成の思惑通りに動いていたわけです。 陰謀家の面目躍如といったところでしょう。 律儀と信じられていた家康と、陰謀をめぐらせるので有名な三成の 双方から恩賞の書状が届いたらどちらを信じるか、、、 家康につくならイマでしょう! 関ヶ原周辺の陣地化は三成が決戦を長期化すると見ていた証拠かもしれませんね。 九州の黒田官兵衛など決戦の長期化を見通して動き始めていました。 もし決戦が膠着状態に陥り長期化したとしたら、勝利はどちらに転がったんでしょうね?

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 長期戦といっても、半年くらいで結果が出たと思います。やはり、ほかの回答者様の言う通り、輝元の不決断が大局観のない彼の実戦能力を鈍らせ、家康の謀略に乗せてしまったのではないでしょうか?

ithi
質問者

補足

しかしながら、毛利隊、長曾我部隊、長束隊など合わせて3万人いたのですから、勝利は確実です。石田三成が何を言っても、決定力は彼らが持っていたのですから多少の恩賞、加増のほか豊臣政権は毛利輝元の筆頭大老のもと、2,3の毛利家の出頭人や三成たち五奉行衆が実権掌握するという形に落ち着くのではないでしょうか。 やはり、恵瓊とは違い彼の外交能力の限界でしょうか。

noname#229784
noname#229784
回答No.1

西軍、東軍どちらが勝っても毛利家が存続出来るように立ち振る舞ったんじゃないでしょうか。 裏切りというより、日和見。 結果、毛利家は存続。過酷な処分はぎりぎり想定の範囲内?

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 広家は戦後、秀元と仲が険悪になります。そして、幕府が彼を大名にしようといったところ、毛利本家が推薦を断ったというような逸話が残っています。

ithi
質問者

補足

毛利家は存続。過酷な処分はぎりぎり想定の範囲内? この結果、毛利家の内部で内紛が起きたのですから、想定の範囲内ではないでしょうね。

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