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関ヶ原:吉川広家と毛利

関ヶ原では、吉川広家の内通によって毛利家は静観する羽目になりましたが、広家の内通についてどう評価してますか? 防長二国・三十六万石でも御家を維持した忠臣でしょうか?家康が所領安堵を反故にした為に広家の思惑通りにならなかったけど、広家の行為は評価されるべきでしょうか? それとも百二十万石の大毛利を、独りよがりで君命に背き、戦わずして大没落させた獅子心中の虫で、広家の行為は評価できないでしょうか? 少なくとも、秀元はじめ毛利の重臣は吉川を白眼視していたようですが… あと、もし吉川がない通せず、毛利勢が関ヶ原で戦っていたら、毛利家はどうなっていたと思われますか? 結局は大きくなりすぎた毛利は、三成によって潰されたでしょうか… いろんな御意見を伺えれば幸いです。

noname#30350
noname#30350
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  • 6dou_rinne
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回答No.2

毛利軍が参戦していれば東軍は敗れて家康も敗死することになったでしょう。それでなくとも小早川秀秋が裏切るまでは五分五分で勝敗定かでない状態でしたから。 もし、毛利軍が参戦していれば当然小早川も裏切れませんので西軍が大勝したはずです。 ただ、その後の天下については、秀吉や家康のように天下を治められるだけの人材(毛利輝元にせよ石田三成にせよその器ではないが)はいませんので、戦国の世に逆戻りしたかもしれません。、もしかしたら黒田官兵衛あたりが天下をとったかもしれませんが。 天下に安定をもたらしたということでは吉川広家の行動は評価できます。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結果的には広家の内通で天下泰平が早まったのですね。

その他の回答 (1)

  • yasu3021
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回答No.1

評価できると思います。 内通があったからこそ36万石ですんだと思います。 仮に毛利が東軍についていたら、加増ののち取り潰しにあっていたと思います。 内通だったからこそどっちに転んでも言い訳ができたのではないのでしょうか。 西軍が勝っていたら、吉川広家に罪を押し付けることが可能な訳ですから、 もし、毛利勢が戦い、西軍が勝っていたら、人望のない三成のことですから、また、戦国時代に戻って、毛利家がどうなっていたか、全く予測不可能でしょうね。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結果的には内通のおかげで36万石残ったのですね。 でも毛利本家は幕末まで吉川を大名にしないなど、恨みは深かったようですね。

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